◆第一章:辺境の村と成人の儀
高原の風が冷たく吹き抜ける朝、ヴェリタスは崖の上に立っていた。 視線の先には、霧に包まれた深い谷と、遠く雪を戴く山々が広がっている。 ここはアルセリア王国の最も外れにある辺境の村――名もなき集落。 この土地では、神の恩寵は届かぬものとされ、村人たちは自然と、そして日々の労働の中で慎ましく生きていた。
ヴェリタスは十八歳になった。 それはこの村で「成人」とみなされる年齢であり、神の神殿に向かう通過儀礼の時でもある。 しかし、彼には実感がなかった。 何も変わらない朝、変わらない風景。 ただ、祖父が残した銀のペンダントだけが、胸元で静かに揺れていた。
「ヴェリ、もうすぐ出発の時間だよ」 背後から、優しく声がかかる。 声の主は幼なじみの少女――リーネだった。 亜麻色の髪を編み上げた彼女は、村の中では珍しく読み書きができる存在で、ヴェリタスとは兄妹のように育った。
「……うん」 短く返事をして、ヴェリタスは崖を離れ、村の広場へと歩き出す。
そこには、村人たちが集まり、成人を迎える三人の若者を見送る準備が整っていた。 彼らの表情には、どこか誇らしさと、不安の入り混じった影があった。 それも当然だ。 成人の儀とは、ファルセリアへ向かい、神殿で神の祝福を受けることで完了する。 だが、誰もが祝福されるとは限らない。
「ヴェリタス、おぬしのような静かな者こそ、神に選ばれるやもしれぬ」 村長の古びた声が、旅立ちを祝す。 ヴェリタスは静かに頭を下げた。
荷車に揺られながら、三日の旅を経て、彼らはついにファルセリアへと辿り着いた。
その都は、石造りの城壁と高く聳える神殿が目を引く、まさに偽りの都。 名は『ファルセリア』。 古語で“偽りの地”を意味するとされるが、その真意は語られない。 だが、ヴェリタスが都に足を踏み入れた瞬間、胸の奥で微かな違和感が走った。
神殿の内部は荘厳そのもので、金と白を基調にした装飾の数々が、訪れる者の畏敬を誘う。 祝福の間では、中央に『晶核』と呼ばれる聖なる結晶が鎮座し、成人の若者たちを一人ひとり迎え入れていた。
先に進んだ者たちは、晶核の前で静かに祈り、やがて光に包まれていった。 その光は淡く温かく、彼らの身に神の加護が宿る証とされていた。
そして、ヴェリタスの番が来た。
静まり返る中、彼はゆっくりと晶核の前に進み出る。 祈りの姿勢を取り、目を閉じる。
――だが。
何も起こらなかった。
周囲がざわめく。 司祭が困惑の色を浮かべながら、もう一度、と促す。 ヴェリタスは再び祈った。 しかし晶核は、一切の反応を見せなかった。
祝福が、下りなかったのだ。
異例の事態だった。 神殿の歴史において、晶核がまったく反応を示さなかった例は数えるほどしかない。
静寂の中、ヴェリタスはただ立ち尽くしていた。 なぜ自分には何も起きないのか。 周囲の視線が冷たく変わっていくのを、肌で感じながら。
遠く、神殿の柱陰。 金色の髪を持つ少女――ノイラは、その光景を見ていた。 彼女の瞳は、他の誰にも見えない“もの”を見ていた。
晶核が反応しなかったその瞬間、 ヴェリタスの背後に、強烈な光の奔流。 そしてそれを取り囲むように、神殿の者たちの身体に絡みついた黒く重たい鎖。
ノイラの瞳が微かに震える。 (彼……何者なの?)
この瞬間、運命の歯車が音を立てて回り始めた。