黙っていただいても、よろしゅうございますか?
王座の間には異様な静けさが漂っていた。
中央には王妃コルドーリアと国王ノベルマスが立ち尽くしており、二人の表情には焦燥と不安の影が色濃く刻まれている。
見えないはずの何かが背後に忍び寄っているような、そんな錯覚すら覚えるほどの圧迫感。
そんな静寂を破ったのは、一つ、また一つと響く足音だった。
それは規則正しく、迷いなく広間に響き渡り、王と王妃の胸を次第に強く締めつけていく。
重厚な軍靴の響きではなく、どこかしなやかで、それでいて確かな歩み。その足音が近づくごとに、広間の空気はまるで冷え込んでいくかのように感じられた。
やがて、王と王妃の視線の先に、その人物が姿を現した。
「お前は……、何者、だ」
振える王の声に応えることもなく、それはふと、足を止めた。
小柄な体躯に身を包むのは、鈍色に鈍く光るプレートアーマー。だがそれは華美な装飾を施された王侯貴族の鎧ではなく、むしろ実用的な簡素さを重視した武具だった。細身の体躯はどこか脆弱にも見えたが、纏う空気は異様な威圧感を持ち、敵意すら感じられる。
何よりも異質だったのは、その顔――否、顔を覆い隠す、奇妙な仮面だった。
それは、まるで道化のように歪んだ微笑を刻みながら、無表情のままこちらを見据えている。感情の読めないその造形には、不気味なまでの静けさがあり、白く滑らかな表面には稲光のようなひび割れが走っていた。
「あれは、……なんなの。いったいどこから。たった一人で?」
王妃は無意識に護衛騎士の背に身を寄せた。汗が背筋を伝い、張り詰めた息を吐き出すことすら憚られる。騎士たちは緊張の面持ちで剣を抜き、冷たく輝く刃を突きつけた。
「王妃様、こちらへ」
騎士の一人が、王妃に手を差し出した。顎先で示すのは王族が緊急時、王座の間から逃れられるようにと秘密裏に作られていた仕掛け扉だ。
「無駄です」
唐突に響いたのは、静かでありながら確かな威圧を帯びた声。
その声と同時に、広間の天井が激しく揺れ轟音を立てて崩れ落ちた。
塵が舞い、瓦礫が床に叩きつけられる。
「そんな!?」
「王妃様、お怪我は!?」
「陛下を守れ! 魔族を近づけるな!」
鋭い叫びとともに、護衛騎士たちが一斉に剣を振りかざし、敵へと躍りかかった。
しかし――。
「少しの間、静かにしていただけますか?」
くぐもった声が静かに響いたかと思うと、次の瞬間、騎士たちの身体が一瞬にして弾き飛ばされた。空間が捻じ曲がったような衝撃とともに、重厚な甲冑を纏った屈強な兵士たちが無力な人形のように壁へと叩きつけられ、呻き声を上げながら崩れ落ちる。そのすべてが、一振りの剣の軌跡によってなされたのだ。
「な、何をやっている!! その魔族を討て!」
国王ノベルマスの怒声が、広間に響き渡る。
だが、その声は怒りよりも恐怖に震えていた。王妃の悲鳴がそれに重なり、広間の空気はさらに混沌と化していく。
「魔族? 私が魔族に見えるなんて……お父様はとうとう目まで耄碌なさったようですね」
仮面の下から、嘲弄を孕んだ冷ややかな声が零れる。
その瞬間、王妃の顔が蒼白に染まり、国王の瞳が大きく見開かれた。
「お前が……! 人間のくせに魔族に与した魔導騎士がいると……それが、お前か!」
国王の声が震え唇がわななく。
広間の奥へと後退る王妃の手が、恐怖に震えながら王の袖を強く掴んだ。
「ようやくお気づきになられたようで、光栄ですよ、国王陛下」
仮面の下の口元が、わずかに弧を描く。その声音には、王の無能さを愉しむかのような嘲りが滲んでいた。
王妃は青ざめ、膝を震わせながらついに耐えきれずに悲鳴を上げた。
「こ、こ、殺さないでぇえええええ!!」
命乞いの叫びが響く。しかし、目の前の人物は微動だにせず、ただ無表情に彼女を見下ろしていた。その眼差しには何の感情もない。ただ、冷徹な静けさがそこにあった。
「何でもする……何でも与えるから……! だから……お前が、魔王を裏切って、こちらに寝返ってくれるなら……すべてを許してあげてよ……。そ、そうよ。そうしましょう! わた、わたくし、あなたの、母親なのよ。その母親のわたくしがあなたを助けてあげるわ。魔王の手先だなんて、そんな、命じられていて、嫌々しているだけでしょう? ね、わたくしが、陛下にとりなして差し上げるから、だから」
王妃の声は震え、縋るように手を差し出した。まるで蜘蛛の糸にすがるかのような、必死の懇願。
しかし、返ってきたのは、氷のように冷たい声だった。
「私が? 裏切る? 魔王を?」
仮面の奥で微笑みが深まる。その声音には、侮蔑の色すら滲んでいた。
「お得意の妄想なら、もう少しマシなものにしてください、お母様」
その瞬間、王妃の顔から血の気が引き、崩れ落ちるように膝をついた。
王座の間に漂うのは、圧倒的な絶望と、凍てつくような沈黙。
復讐劇の幕開けは、まだ始まったばかりだった。
***********
少年は、ゆっくりと片手で仮面に触れた。手前に少し引っ張ると後頭部で結ばれていた紐がわずかな音を立てて解け、仮面は滑らかに彼の手のひらへと収まる。
仮面の下から現れた顔は、男女ともつかない端正で中性的なそれだった。
王妃とも王とも違う琥珀色の瞳は冷徹な意思と鋭い知性を湛え、すべてを見通すかのような静けさを帯びていた。
王座に並ぶ王妃コルドーリアと国王ノベルマスは、少年の素顔を目にした瞬間、時が止まったかのように息を呑んだ。
その場に居並ぶ騎士たちの間からも、困惑と衝撃の声が次々と漏れた。
「リーゼンシア様…!?」
「まさか…魔族に殺されたはずでは…!」
「亡霊姫の、リーゼンシア様、なのか?」
騎士達が口々に震える声でそう呟けば、音は津波のように広間の静寂に響き渡った。
しかし、その場の誰よりも震えていたのは王と王妃自身だった。彼らの目の前に立つのは、確かにかつての王女リーゼンシア。
だが、その表情には一切の感情がなく、冷たい琥珀色の瞳はまるで氷の刃のように鋭く、無慈悲に彼らを見つめていた。
「お忘れですか?」
低く、だが確かに広間全体に響くその声は、深い闇の奥底から湧き上がるような静けさを纏い凍てつくほどの冷徹さを帯びていた。
王妃と王は、その声音に引き寄せられるように目を逸らすことすらできず、ただ呆然と立ち尽くした。
その瞳を覗き込んだ瞬間に理解する。
目の前の少女は、許しを求める者ではない。
ましてや失われた愛情を取り戻そうなどとは微塵も思っていない。
彼女は――復讐のためにここへ来た、のだと。
静かに剣を抜き、リーゼンシアは歩を進めた。
一歩、また一歩と王座へ近づくたびに、王妃と王の心臓は、恐怖に押し潰されるように波打った。目の前に立つその姿は、かつての王女ではない。
数々の戦場を潜り抜けた冷徹な復讐者の姿だった。
ふと、彼女の唇が僅かに動き、まるで王族の格式を嘲るかのような優雅さで、深々と礼を取る。その動作には品格すら宿っていたが、瞳に灯る光はただ鋭利な刃のように冷たく、無慈悲だった。
「ご機嫌麗しゅうございます、両陛下」
その声は、あまりにも無機質で凍てついた威厳すら感じさせるものであった。
王は恐怖を押し殺しながら、必死に言葉を絞り出そうとするが、喉が強張りかすれた声しか出せない。
「お、お前……リーゼンシア! なぜここにいる!? お前は、死んだはずでは」
震える声で問いかける王をリーゼンシアはただ冷ややかに見下ろす。
「あら? お父様はご存じなかったのですか? またお母様に騙されたのですね。かわいそうなこと」
その問いかけに、王妃は身を震わせ、まるで見えない力に押し潰されるかのように膝をついた。
「お母様は、私を幼い頃から私を随分かわいがってくださいましたね。日ごとの鞭打ちはさることながら、ちょっとしたことでも徹底的に私を詰り、誹り。食事も満足に与えていただかなかったおかげで、お母様がお好きな少年のような体つきになりましたよ。侍女たちもその教育方針に従って私を随分と手厚く世話してくださって、本当に、……、何と申し上げたらよいのでしょう?」
リーゼンシアの声が広間に響くたび、王妃の顔は苦悶に歪み、唇は震えていた。彼女の瞳には、過去の罪が鮮明に映し出されていた。思い出したくもない記憶が、容赦なく突きつけられる。
「お母さまは私と全く違う教育理念で、妹を慈しんでおいででしたね。できの悪い姉より、多少やんちゃな聖女候補の妹の方が可愛かったのはよくわかります。望まぬ妊娠から生まれた私などより、愛した男性との間にできた妹の方が随分と可愛かったことでしょう」
ぎょっとしたのはうつ向いたまま体を震わせている王妃ではなく国王の方だった。目を剥いてすぐ近くの王妃の方をじっと見つめていた。
「あなたが忘れても、私はちゃぁんと、全部、細部に至るまで記憶しているのですよ」
小首を傾げながら、リーゼンシアはいっそ清々しい程微笑んだ。
「そしてお父様――」
王は息を呑む。
「あなたも、同罪です」
王へと向けられた冷たい眼差しが、まるで鋭い刃のように彼の心臓を抉った。
リーゼンシアは顎をわずかに上げ、その視線の圧だけで彼を縛りつける。父親は逃げ場を求めるように目を泳がせるが、どこにも助けはない。
「あなたもまた、妻が娘にしてきたことのすべてを知りながら、何一つとして手を差し伸べることはなかった。いいえ、それどころか、彼女の機嫌を損なわないようにこびへつらって、欲しいものは何でも与え、見て見ぬふりをしながら、時には助力すらしていたでしょう?」
静かに発せられたその言葉には、怒りというよりも冷ややかな諦念が滲んでいた。王は反論しようと口を開くものの、リーゼンシアが一歩踏み出しただけで、まるで喉を絞められたかのように無意識に息を呑む。
「私は決して許すことはありませんが、天がもし、あなたが父親として私にしたことを黙認しても、国民はどうでしょうね? 今まで散々食いつぶしてきたのですもの。そろそろ自覚すべき時が来たのだと思いませんか? ――あなたは王として、この国を治める責を負いながら、国民を顧みることもなく、ただ己の私腹を肥やし、甘美な贅沢に溺れ腐敗を深めるだけ深めた。そして、国力の低下から愚かにも魔族を利用しようと目論み、彼らの方が上手だと知るや卑劣な罠を仕掛けた……」
リーゼンシアの声音がわずかに低くなる。それは冷たい刃が首筋をなぞるような静かな圧力を伴い、王の顔からみるみるうちに血の気を奪っていく。
「和平交渉を申し出たふりをして、実際には彼らを嵌めるための策を巡らせ、交渉の席に着いた魔族へと密かに毒を盛り、身動きを封じたところを屠るつもりだったのでしょう? けれど運悪く魔族がその奸計を見抜いた。それで思い通りにならないと悟るや否や、今度は彼らを一方的に『敵』とみなし、戦を仕掛けた。まるで被害者であるかのように振る舞い、民には真実を隠して」
ご都合主義にも吐き気がするわ、とリーゼンシアは父王を睥睨する。
「それだけではないわね……ついには私を生贄として魔族のもとへ送りながら、影ではこう言い含めたのですよね?」
リーゼンシアの唇がわずかに歪む。その笑みは氷よりも冷たく、底知れぬ憎悪を宿していた。
「『魔王を殺せ』と。そして、それが果たせないのなら――、同行した騎士たちに『私を殺せ』と――、最初で最後の父親たっての『お願い』すら叶えて差し上げられず、《《面目次第もございませんわ》》」
高らかに嗤うように凛と下された言葉に、その場にいる騎士たちが目を見開き、驚愕に打ち震える。
「わ、私を殺すつもりか!? 頼む、何でもするから…!」
その声には、もはや王の誇りも威厳もない。ただ命乞いをする男の声だった。しかし、リーゼンシアの目には一切の躊躇もなかった。
静かに剣を構え直し彼女は冷たく問いかける。
「さぁ、どちらからこの世にお別れを告げたいですか?」
広間に漂うのは、ただ静寂と、震えながらすがる王と王妃の絶望だけだった。
*************
王座の間は、まるで時の流れが断ち切られたかのように沈黙していた。
重厚な石造りの壁が冷たく静寂を閉じ込め、燭台の灯りが揺らめきながらも、広々とした空間に温もりをもたらすことはなかった。
王座の前に立つリーゼンシアの影が長く伸び、その威厳に満ちた立ち姿がこの場を支配していた。彼女の手に握られた剣は、薄暗い光の中で鈍く輝き、その先端が床にかすかに触れるたびに、まるで死の訪れを告げる鐘の音のように、静かでありながらも確かな圧力を放っていた。
「さぁ、どちらからこの世に別れを告げるか、お決めになって?」
その声は冷たい霧が肌を撫でるように静かでありながら、深々と胸の奥まで響き渡った。抑揚のないその問いは、言葉の端々に容赦のない冷酷さを滲ませ、王と王妃の心を鋭くえぐった。王妃は喉の奥でかすかな嗚咽を漏らしながら震え、王は強ばった表情のまま硬直し、言葉を失っている。
リーゼンシアは微動だにせず、ただ剣を携えたまま静かに立ち尽くしていた。そのまなざしは鋭く研ぎ澄まされ、王と王妃を見つめるたびに、まるで冷え切った刃が肌を撫でるような感覚が二人の背筋を這い上がる。
空気は徐々に冷え込み、王座の間を覆う圧力は一層濃く、重くなり、呼吸すらままならないほどの緊張が張り詰めていた。
王妃は震える唇をなんとか動かし、縋るような声を絞り出す。
「お願い……どうか、命だけは……」
その言葉は、嗚咽とともにかすれ断片的に漏れた。
彼女の目には、恐怖と絶望が絡み合った濃密な陰りが宿り、血の気を失った顔は蒼白に染まっていた。喉の奥が詰まるような感覚に襲われたのか、彼女は苦しげに喉を押さえながら体を縮こまらせ、浅く速い呼吸を繰り返す。涙が頬を伝い、か細い体をさらに震わせていく。
その姿を見つめながら、王は焦燥に駆られ震えながら口を開いた。
「待て……、お願いだ……お前が望むものは何でもやろう……だから……」
彼の声は上ずり、途切れがちで、必死に縋るかのように言葉を紡ぐ。
「待て? お願い? 私が今まで何度申し上げても、お母様は元より、お父様は聞き入れて下さらなかったでしょう?」
リーゼンシアの剣の先端が床を引くわずかな摩擦音が、広間の静寂を切り裂くように耳に届いた。決して大きな音でもないのに、不吉な前触れのように王と王妃の鼓膜を締め付けた。
「謝れば、あなた方が犯した罪はなかったことになると?」
その問いは、どこまでも冷ややかで、あまりにも静かだった。まるで心の奥底まで見透かすような、感情の欠片すらない声が王妃の胸を鋭く貫く。
「私が……間違っていた……、許して……お願い……」
震える声が喉の奥から搾り出され、王妃の目には切実な懇願の色が浮かんでいた。彼女は涙を零しながら王座の縁を掴み、か細い指が白くなるほどに強張っていた。しかし、リーゼンシアのまなざしは揺らぐことなく、剣を握る手には冷徹な決意が宿り続けていた。
「謝れば罪が消えるとお思いですか? 自分自身がしでかした取り返しのつかないことが、たった一度きりの謝罪で全て帳消しになるとでも? 都合のいいお花畑の思考は、いい加減改めた方がよいのではないですか、おかぁさま」
その言葉は氷のように冷たく、王妃の心をさらに深く抉る。膝をついたまま、彼女は震えながら必死に懇願の言葉を繰り返した。しかし、その声にはもはや誇りも尊厳もなかった。ただ命乞いをする哀れな囚人の嘆きに過ぎない。
リーゼンシアの唇に微かに冷笑が浮かぶ。王妃の手前まで足を進めても、もはや誰もリーゼンシアを拒むものはいなかった。
ゆっくりと手を伸ばし、王妃の顎を強く掴むと無理やり顔を上げさせる。その冷たい指が肌に触れた瞬間、王妃の全身が小刻みに震え上がる。
「それ程度の謝罪で、私の心が動くとでも?」
静かに告げられたその言葉が響くと、王妃の顔が絶望に引きつった。
「リーゼンシア、お前……何をするつもりだ!?」
「黙っていただいても、よろしゅうございますか? 耳障りです」
リーゼンシアの右手がわずかに持ち上がる。
そして次の瞬間、空気が軋み、不可視の力が放たれた。
突如、王の体が激しく痙攣し、苦痛に満ちた叫びを上げながら床に崩れ落ちる。喉の奥から泡を吹き、四肢は痙攣しながら無様にもがく。王妃もまた、同じように地面に転がり、白目を剥いて苦しみ悶えた。彼女の顔に浮かぶのは、かつての王族としての威厳ではなく、死に瀕した者の純然たる恐怖。
リーゼンシアは、彼らがのたうち回る様を冷然と見下ろしながら、ゆっくりと剣を鞘に納めた。その姿は、まるで命を刈り取る死神のように静謐でありながら、揺るぎない殺意を宿していた。
彼女の目には、もはや情けも憐れみも浮かばず、ただ王と王妃の末路を見届ける冷たい意志だけが、揺るぎなく宿っていた。
***********
響き渡るのは王と王妃の断末魔の叫び。
その悲痛な声が石壁にこだまし、無機質な大理石の床を震わせるたびに、長きにわたる彼らの罪の重さが、まるで亡霊のように空間に満ちていく。
リーゼンシアは、その光景を静かに見下ろしていた。
冷たい青白い光が降り注ぐ中、彼女の姿はまるで彫像のように動かない。血に濡れることのない白銀の装いは、彼女の冷徹さを象徴するかのように無垢で、けれど、その奥に秘められた憎悪と決意は、燃える炎よりも強く揺らめいている。
彼女は、ただ冷ややかに、遠く過去の残響を聞いているように彼らを見つめていた。
わずかに吹き込む夜風が、燃えさしの灯り具の炎を揺るがせた。
正気を失ったように震える王妃の指先が、床を掴むように這う。王の見開かれた瞳には、恐怖と絶望が幾重にも刻まれている。
リーゼンシアの指がわずかに動くと、空気が震え、目には見えぬ力がその場を支配する。
魔力の波動がかすかに揺らめくたびに、王と王妃の喉から洩れる呻きが深く、長く、無駄な抵抗の果てへと導かれていく。
「終わったのか?」
重々しい闇に溶けるような魔王の声が、静寂を切り裂いた。
リーゼンシアは、その問いに迷いなく頷いた。
「はい」
声音には、何の揺らぎもない。まるで、長い年月をかけて準備してきたすべてが、今この瞬間、確かに完遂されたことを証明するかのように、冷静で、確固たるものだった。
魔王の視線が、王と王妃の惨めな姿を一瞥する。
「殺さなかったのか?」
その問いには、わずかな興味が込められていた。
「殺すのは、あまりにも容易いことです」
彼女の声は淡々としていた。
そこには、復讐に酔う情熱も高揚する快感もない。
「死は、人にとっては全ての終わりです。意識も魂も、死を迎えれば等しく平穏に決着する。けれど、この人たちには、罪を犯した分だけ長く生きてもらわねば釣り合いが取れません」
「国はどうなる? お前が導くのか?」
値踏みするような嘲笑を含め、吐き捨てるように下された言葉にリーゼンシアは軽く鼻で笑って返す。
「この国の行く末は、王と王妃が最も愛し、最も信じていた唯一の娘……私の妹、聖女マーテルが担うことになるでしょう。もっとも、彼女が正しく歩むことができればの話ですが。」
リーゼンシアの静かな宣告に、魔王は低く笑いながら問い返した。
「あれが聖女だと?」
「少なくとも、世間ではそう信じられ、崇められていたようですね」
魔王は嘲るように口角を上げた。
「本物の聖女はお前の方だったというのに……なんと愚かなことだ」
彼女の存在を奪われ、偽物の反逆者として民衆に石を投げられ、生贄として魔王のもとに送り込まれた哀れな王女——最初はそう思っていた。だが、その実態はまるで違った。
「お前の方が、俺よりよほど魔王らしい」
魔王の言葉に、リーゼンシアは薄く微笑む。どこか面映ゆげでありながら、その目には迷いも逡巡もなかった。
「私はやるべきことを成し遂げました。だからもう、ここに留まる理由はありません」
復讐など、虚しいものだという者もいるだろう。だが、それは他人の価値観にすぎない。彼女には確かに、復讐を果たすだけの理由があり、果たした先に手にしたものがあった。
「私は私の望む場所へ行きます。私が選んだ者たちと共に、過去とは異なる人生を歩むために」
王族としての義務も、かつての国への未練も、もはや何一つ残ってはいなかった。ただ、未来へと歩む確かな意思だけがそこにあった。
魔王は何も言わず、ただリーゼンシアの背を見送る。その歩みは迷いなく、静かに王座の間の扉へと向かっていく。その背には、すべてを終えた者の静謐な余韻が宿り、もう二度と振り返ることはないと告げていた。
リーゼンシアは足音一つ立てることなく、扉の向こうへと消えていく。その背には、魔王が静かに従い、ふと笑みを浮かべながら一度だけ背後を振り返った。
「確かに、よい復讐方法だ」
そして、魔王は千年ぶりに心の底から笑った。