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※汚グロな描写あります。ご注意ください。

※専門的な知識に基づくものではありません。架空の話です。


  

  

「ちょっとトイレ行ってくるわ」

 赤い(とん)がり屋根と白い壁の公衆トイレがある駐車場に、雄二が黒の軽自を乗り入れた。トイレから少し離れた場所でアイドリングさせたまま、慌てて降りて駆け込んでいく。

「コーヒーばっかり飲んでるからや」

 貴子は苦笑を浮かべ、ロックをかけた。自分一人が車内に残る場合、用心のため必ずいつもロックした。

 助手席に座ったまま窓外を見回す。

 長時間のドライブで座りっぱなしなので、本当は外に出て軽く身体でも動かしたほうがいいのだが、ずぼらな貴子はそういうことを全くしなかった。

 公衆トイレの周囲は鬱蒼とした雑木林に囲まれていた。だが意外と開放感があり、山中にいるという寂しさはなく、トラックドライバーやドライブ旅の人々のための休憩所として重宝されているだろうと思った。

 駐車場からトイレまでの歩道は煉瓦が敷き詰められて、建物含めなかなかお洒落な造りをしているが、ところどころ煉瓦が割れ欠けていることに経年劣化の荒んだ感じが否めない。

 赤い屋根にも白い壁にも黒ずんだ緑の苔がこびりついていて、さっきは開放感があると思ったものの、やはり薄気味悪かった。

「ようこんなとこでできるよね」

 独り言ちながら、窓ガラスを開ける。

 山特有の木々や土の香りに混じって、ぷんと嗅いだことのある独特のにおいがし、気味の悪さに拍車がかかって慌てて窓を閉めた。

 腐ったようなにおいだが、肉などの食べ物の腐敗臭とはまた違う――膿……のような?

 貴子は看護師をしていた。あまりの激務で身体を壊し、今は休職しているが、外科外来にいた時、患部が化膿した大きな膿疱の切開をよく見た。

 消毒と局所麻酔が施され、メスが入れられると溢れてくる膿とその臭いに精神を抉られる。仕事だから抉られている場合ではないのだが。

 貴子は裂傷の患部やその縫合など、どんなグロい状態でも平気だが、化膿の処置の介助は苦手だった。

 久しぶりにそんなことを思い出させるにおいが、自然の中に漂っている。動物の死骸の腐敗かもしれないが、やはり違うような気がした。

「うぎゃぁぁぁ」

 叫び声が聞こえた。雄二の声かと思ったが、今までこんな声を聞いたことがなかったので、本人のものかどうかわからない。だが、今ここにいるのは貴子と雄二だけだ。それとも他に誰かいるのか――

 そんな考えを巡らせていると、公衆トイレの入り口から雄二が出てきた。

 叫び声は雄二に違いなかった。何か怖いものでも見たのか、青白く怯えた顔をしていたからだ。

 おっきな蜘蛛でもおったん?

 大嫌いな節足動物を思い浮かべて、貴子は身震いした。

 雄二は両手を前に伸ばし、こちらに向かって来ようとしているが、ふらふらよろめいていて前に進んでいない。

 車内の貴子をじっと見つめ、はくはくと口を動かしているのは何かを伝えようとしているのか? だが、声が出ているのか出ていないのか、まったく何を言っているのかわからなかった。

 聞き取るため貴子は窓を開けようと開閉スイッチに指を置いたが、それ以上押すことができなかった。

 雄二の背後、トイレの中から彼を追って何かが飛び出して来たからだ。

 それは映画で見るゾンビに似ていた。

 ぎくしゃくした動作のわりに動きが速く、まるで途中で逃げた喧嘩相手を捕まえるかのように、追いかけ追いついた雄二に飛び掛かろうとしている。

「雄二ぃ、逃げてぇっ」

 窓も開けずに叫んでみたが、雄二は鈍い動きのまま逃げようとしない。いや、逃げたいのだろうが、思うように身体が動かないみたいだ。

 それを理解したものの、外に出て助けに行く勇気は貴子にはない。

 ゾンビに飛び掛かられた雄二は前のめりで倒され、つかまれた髪は皮膚がついたまま(むし)り取られたあげく、肩にまで齧りつかれた。

「雄二ぃ、雄二ぃ」

 貴子は泣きながらクラクションを鳴らした。こっちに気を逸らせ、雄二からゾンビを引き剥がしたかった。

 顔を上げこっちを見たゾンビは雄二から離れると、車に走り寄って来て、ばんっばんっと両手で何度もガラスを叩いた。

 顔には大小の膿疱がいくつもぶら下がり、次々と破裂して膿を垂れ流している。顔だけでなく首筋や手など露出している肌全部にも膿疱が出来ていて、咆哮する口の中、舌までも汚色の詰まった袋が密集していた。

 血混じりの膿塗れの手がガラスを叩く度、ねっとりした手形がいくつも重なっていく。

 貴子はいつでもこの場所から逃げられるよう身体をずらして運転席に移動した。

 威嚇の唸りを上げ、窓を叩きながら車の周りを回るゾンビと目を合わせないように倒れた雄二を確かめる。

 びくびくと身体を震わせていた恋人はゆっくりと立ち上がった。

 よかった。まだ生きてた。

 泣きながら安堵の吐息を漏らした貴子だったが、ゾンビ映画のお決まりは噛まれた者もゾンビになる、だ。

 が、まさかゾンビパンデミックなど、リアルに起こるはずなどないと貴子は考えた。

 これってなんかの皮膚病に感染したただの患者やん。あんな顔になってしもたさけ理性()うなって、どっかの病院から脱走してきたんや。

 で、見た目にびっくりした雄二の叫び声で興奮して暴れ出した。そやけ、雄二は怪我しただけや。死んでないんやったら連れて帰らな。

 貴子はどうやって雄二を車に乗せようかと考えた。

 ゾンビがいる状態で、自分が外に出るなど論外。ゾンビがこっちに気を取られている間に、雄二がうまく車まで逃げてきたら素早くドアを開けて中に入れようと算段し、ロック解除のボタンに指をかけた。

 雄二はぎくしゃくと足を引き摺りながら勢いよく車まで走って来た。

 だが貴子はロック解除のボタンを作動させなかった。

 なぜなら雄二は勢いのまま車体に体当たりし、窓に顔を密着させて怒りに満ちた表情で貴子を睨んでいたからだ。

 目の色がみるみる変わって――いや、眼球に水泡が浮いてきて瞳の上に膜が張ったのだ。

 赤い発疹が血で汚れた顔面全体に広がり、それを掻き毟りながら唸り声を上げる。

 雄二が感染した。

 ゾンビがリアルに存在するのかは不明だが、ゾンビ状になる感染病がこの田舎から発生しているのは間違いない。

 もう一人で逃げるしかない。

 貴子は車を発進させた。二体のゾンビは動き出した車にバランスを崩して地面に転がったが、すぐ起き上がって車を追いかけてきた。

 だが、ぎくしゃくした動作ではいくら勢いがあったとしても車に追いつけるはずがなかった。


 慣れない山道を走りながら貴子はほっと息をついた。

 雄二たちを引き離した後は他のゾンビに出会わなかった。

 あまりの長閑な景色に、さっきのあれは夢だったのでは、とさえ思う。

 貴子は路肩にいったん車を止め、警察に通報しようとバッグからスマホを取り出したが、圏外でできなかった。

 こうなったら、最寄りの町まで出て、そこでどうすべきか判断しよう。

 再び車を発進させ、深い山中の国道を貴子はひた走った。


 日が傾き、薄暗くなった峠の下り急カーブを過ぎた時、道の真ん中に子供が立っていることに気づいた。だが、スピードを上げていたのと下りの加速がついていたのとで、ブレーキを踏んでも車を止めることができなかった。

 どんっと衝撃を受け、鋭いブレーキ音を軋ませ数メートル過ぎてところで車が止まった。

 どうしよ、どうしよ……

 貴子はその場に車を止めたまま降車し、撥ねた子供の許へと近づいた。

 ぐたりと倒れた男の子は動かない。

 こちらに向いている顔を見た貴子は「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。顔中膿疱に埋もれ、いくつか潰れて地面に膿をばら撒いている。

 こ、この子もゾンビや。は、早よ車へ戻らな起きてくるやん。

 この時貴子はゾンビを映画で見るものと同じ性質だと思っていたので、慌てて車に戻ろうと(きびす)を返した。

 数メートル離れた道路脇の林道から呻き声がして、木の陰から女性のゾンビがぎくしゃくとした動きで現れた。ゾンビは道に転がる男の子にゆらゆらと身体ごと目を向けると、急に「がああっ」と怒りに満ちた雄叫びを上げて貴子に向かって走って来た。

 貴子も車に向かって走り出す。

 ゾンビが速いか、貴子が速いか――見ている者がひとりもいないので、この後どうなったのかは誰にもわからなかった。


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