15 儚き平穏
あー、労働ってなんだっけ?
働く気力を失うような大きなベッドに体を預けゴロゴロと寝返りを打つだけの時間。美愛は働く意味を見失いつつあった。
離宮へ戻った数日前。
メアリーがこちらです、といつも使っていた部屋ではなく、別の部屋に案内された。
両開きの大きな扉。わりと長くこの離宮に身を置いてはいたが、今まで来たことがない部屋、この扉の先が何か美愛には分からない。
メアリーとクレアが左右の扉を開けたそこに広がるのは、前の部屋の何倍もの広さの部屋だった。
艶やかで可愛い淡い紫と白で統一され、美愛が今まで見てきたどの漫画やゲームに居るどのお姫様の部屋よりも特別素敵だった。
「今日からここが聖女様のお部屋になります」
メアリーが得意気に部屋を案内する。
右にはドレスルーム、その隣がバスルームで、そこにつながるようにパウダールームがある。左には小さいけれど書斎もあります、あと色々説明されたが、これは慣れるまでに時間がかかりそうだ。
「聖女様が快適に過ごせるように努めていきます、何かあればすぐにお伝えください」
「護衛の方も我々にお任せください」
クレアとカインが敬礼する。二人にはフィロの事を伝えておくべきか。だが、なんと伝えれば良いのやら。
影を見つけたから今後護衛が増えるよ~。なんて軽く言えるわけがない。……よし、ここはニクスさんに一任しよう。これは決して現実逃避じゃない。誓約するのは私じゃなくてニクスさんだし、事実を間違って伝えたら大変なことになってしまう。この世で伝言ゲームが一番難しいのだ。
「皆、これからもよろしくお願いします」
今日のことで私の身の回りの世話や護衛がとても大変なのだと知った。美愛はこの世界で一人で生きていくことを日本でのことのように軽く考えていた。仕事が見つかればなんとかなるだなんて、今ではもう思えない。
家出ももう少し慎重に考えなくてはいけない。家出というより、舞踏会で洋子が聖女と認定された時、自分はこの離宮に住むことが許されるのかも分からない。メアリー達とも離れなくてはいけないかもしれない。今のうちにどうやって生きていくかを考えなくては。
と、決意を新たにしたのが数日前のことである。
数日間、主賓室という部屋で過ごし、厨房にも人が増えたという。快適すぎて働くってなんだっけ? とダメな人間になっていた。
それを許すはずもないメアリーは昼間からだらける美愛の尻を叩き、今から王宮へ維持費の申請に行くので私が帰ってくるまで外で運動してこい、と追い出された。
仕方なく外へ出て、いつものように庭をぐるぐると走る。
同じ風景に飽きたのか、おもむろにステータス画面を開いた。ジョギングの所為で体力が減っているのを尻目にスキルを確認した。
ナダルを助けたからか癒しの力のレベルもあがり、何故か知らないけど、調べものスキルのレベルも勝手に上がっていた。レベルがあがると内容も詳しくなるようだ。
でもこれ、自分の意志で調べてるんじゃないんだよなぁ。
美愛のすぐそばでつかず離れずの距離を保って走っているカインへ視線をやれば勝手に現れるポップアップ。
前見たときにはスキルが不明だったが、今では事細かに書かれている。プライバシーの侵害だと確認することなくそっと画面を閉じた。勝手に上がるといえば、魔力の方もすこぶる順調に上がっている。この世界の限界値っていくらだろう。酸欠気味の頭で考えるのは時間の無駄なのでやめた。
それにしてもカインの着ている騎士の制服、重くないのだろうか。涼しい顔して走っているカインをよそに息も絶え絶えの美愛は五周したあたりでギブアップした。
「た、大変です!」
部屋に戻る前に小腹が空いて、食堂で軽食を摂っていた美愛の元へ、そう叫びながらメアリーが息を切らせて帰って来た。
「ど、どうしたの、メアリー? 維持費貰えなかった?」
「違います! つい先ほどヨーコ様付の友人に聞いたのですが、ロイド殿下が魔物討伐時に大怪我をされたと!」
王宮に到着したメアリーはいつになくピリピリとした空気を感じ、どこかからお偉いさんの来賓でもあったのかと、気にすることなく目的を終え、その帰りにたまたま出会った侍女仲間に久しぶり、と声をかけたところ、王宮の現状を知ったという。
数日前に近隣の森近くでオオカミ種の魔物の群れが頻繁に目撃され、討伐隊が編制された。本来ならロイドは行く予定ではなかったが、洋子が行くというので勝手について行ったという。
そして、自分の剣の腕前を洋子に見せたいがために止める騎士たちを無視して前線へ。ロイドの前に現れたのはヴァスキと呼ばれる猛毒を吐く蛇タイプの魔物だった。報告ではオオカミ種の群れという話だったし、本来この森には住んでいないはずの魔物。しかし、それは突然現れた。不意を突かれヴァスキの毒に倒れたロイドを救うために、何人もの騎士が毒に倒れ、討伐隊の被害も甚大だという。
予想だにしない言葉が出てきて息が詰まった。
無意識のうちに体が立ち上がり、外へと足が動き出すのを、カインに止められた。
「お待ちください、聖女様。ロイド殿下にはヨーコ様がついております」
「あ……そっか。洋子さんが居るんだし、大丈夫だよね?」
「ロイド殿下についてはヨーコ様にお任せするべきです」
なんで飛び出そうとしたんだろう。泣きついたって助けてやらないとか思っていたはずなのに。
美愛は自分をこんなところに追いやったこの世界も、人間も嫌いだったのに、随分と許していることに気付いた。
困っているのなら助けたい。ただ、それだけだった。
ロイドも騎士たちも、きっと洋子の治療を受けている、私が出る幕なんてない。
「違うんです! そのヨーコ様の治療が効かないみたいなんです!」
「えっ?!」
洋子付きの侍女の話では、魔物から受けた毒により胸から下が動かないという。洋子が治療をしているが、治る気配がなく、神官や医術でも無理だと八方塞がり。
「洋子さんでも無理なら、私も無理、ってこと?」
「それは……」
カインが言葉を濁した。
カインは美愛の聖女の力を知っている。美愛が治療すればロイドは助かるだろう。だが今、美愛が表舞台へ出ることになれば、ニクスも困ることになる。それに、ヴェリトールが許すとは思えない。
「聖女様、ここは勝手に動かず、王宮から要請がくるのを待ちましょう」
「でも」
「ヨーコ様の立場も危うくなります」
カインはこんなこと言いたくはなかった。美愛に洋子を気遣えなどと。美愛も戸惑いを隠せない様子だったがカインは引き下がるわけにはいかない。具体的な考えがあったわけではないが、この時は一片の迷いもなく、美愛が表舞台に出ることは絶対にダメだと考えた。
「間に合わなかったら?」
「その時は、その時です。聖女様が気を病む必要はありません」
「カインの言う通りです」
騒ぎを聞きつけたのか、クレアが食堂に現れた。
「聖女様、しばらく離宮の外へ出るのはお控えください」
「クレアまで? どうしてそんなこと言うの」
「ロイド殿下がお亡くなりになられるのでしたら、それは聖女様の所為ではなく、ロイド殿下の自業自得とヨーコ様の力不足、そして、それを知りながらも聖女様への協力要請を怠った国と神殿の責任です」
「ロイド殿下も剣を抜いた以上、覚悟はできているはずです」
国が洋子を本当の聖女として仕立て上げようとしている最中、今更美愛に助けを求めることが出来ない。美愛が勝手なことをすれば、洋子を聖女とし常日頃行動を共にしているロイドの王太子という立場も危うくなる。
「そんなの悲しすぎるよ」
「聖女様、今回ばかりはご理解ください」
「私の行動で困る人が居るってことはわかった。少し疲れたから部屋に戻るね」
何を言っても答えはNOだと理解した美愛は、落ち込んだように肩を落とした。
自分の行動で大変なことが起こってからでは遅いのだと分かってはいるが、どっちにしろロイドは今、国に殺されようとしている。助けたいのなら、慎重に行動するしかないのだ。
「聖女様……」
メアリーの心配そうな声だけが食堂に響いた。