ニクス・ラウダの苦悩
ナイフの管理がどうなっているのか、現状をしりたくなったニクスは、ウェイターと共に部屋を出てしまった。
そこでウェイターから聞いた事情と、現在の状況。
切れ味の落ちたナイフは廃棄の箱に入れるはずだったが、コーデリアが預かると言うので預けた。そして、今その廃棄の箱には何も入っておらず、この受け取ったナイフの傷み具合が、先ほどの廃棄するはずだったナイフに酷似している。加えて、コーデリアの様子がおかしかった。
どうして自分は美愛を一人で部屋に残してしまったのか。胸騒ぎがし、慌てて踵を返した。
いつまでこの不自由な演技をしなくてはいけないのか、杖が邪魔で鬱陶しい。焦るように部屋に戻れば、そこに居たのは床でへたり込んでいるコーデリアだけだった。
「ニクス様、あの子が急にグラスのワインをかけてきて」
頭からワインを被ったのか、金の髪やシャツが紫に染まり、瞳に涙を浮かべたコーデリアが抱き着いてきた。
「私の持ってきたナイフが切りにくくて折角のヴィフ肉が台無しだと、大変お怒りになってしまって、私のことを、その……ニクス様を誑かす娼婦だと罵りながらワインを……私とニクス様はそのような関係ではない、とお伝えしたのですが、不愉快だと言ってそのまま出て行ってしまいました。私、あのような下品な辱めを受けたのは初めてです」
涙を零しながら縋りついてくるコーデリアの腕を振りほどき、背を向けた。
セレフィラが以前言っていたことを思い出した。彼女はちょっと一途すぎて危うい、と。今になってその言葉を思い出すのは自分の甘さが招いた結果なのか。
「やはり、君を信じるべきではなかった」
「ど、どういう意味で……」
「彼女に何をした」
「何も、何もしておりませんッ。ナイフの事は大変申し訳ありませんでしたが、すぐに新しいナイフをご用意しようと」
ニクスの低い声に震える肩を必死で抑えながら、コーデリアは言葉を紡いだ。だが、ニクスには何も響かない。
「もう一度聞くぞ、私が不在の部屋に入って、何をした?」
「わた、しは、私は、何もしていないわっ! あの子が勝手に出て行ったのに、どうして私が責められなくてはいけないの?!」
「もういい。現時刻をもってコーデリア、君の任を解く」
「それは、どういう……」
「クビだ」
「お、お待ちくださいっ、そんな、そんなこと許されませんわ! 今まで貴方の為に一生懸命尽くしてきたのよ、なのに一つの失敗でクビだなんてあんまりだわっ」
「オーナーである私に嘘をつくような従業員は不要だ」
「嘘なんて何も」
「本当に、ヴィフ肉が台無しだと、彼女がそう言ったのか?」
「はい! この耳でしっかりと聞きましたわ」
「彼女は……ミアはあれが何の肉かなど知らない」
「そんな、ことあるわけ」
「オーナー! お連れのお嬢様が外で倒れてます」
ウェイターと公爵家の護衛総出で居なくなった美愛を捜索した。だが、そう遠くない場所で蹲っている少女を発見、保護したと報告を聞いてすぐさま部屋を出ようとするが、それはコーデリアによって阻まれた。ニクスの腰にしがみつき、逃すまいと爪を立てる。コーデリアから香るワインの香りが更にニクスの顔を歪めた。
「邪魔だ」
「いや、いやいやいや! 行かないで、私は貴方のために結婚も家族も名誉も、全てを捨ててきたのよ、こんなのあんまりだわっ」
「私はそんなこと頼んだ覚えはない。君を支配人に採用したのは、君の父であるルーガン伯爵が頭を下げてきたからだ。それ以外の理由はない」
しがみ付いてるコーデリアの腕を無理矢理引きはがした。コーデリアは驚愕の表情でよたよたと後方へ一歩ずつ後退し、肩を震わせる。恐怖で、ではなく、それは狂気じみた笑い。
「ふ、ふふ、そんなの嘘よ。お父様が……、違う、だってニクス様は私を愛しているからセレフィラと別れて、公爵家に入ったのでしょう? ねぇ、そうよね? 分かってる、離縁して間もない私を妻にするのは世間体があるもの。だから公爵家に入って時間をかけて私を迎え入れようとしてくれたのよね?」
コーデリアの言葉に眉間を抑えた。そもそもコーデリアが離縁したのはニクスが公爵家に入った後だ。もはや自分でも何を言ってるのか理解していないのだろう。今の彼女は狂気と虚構でできている。何が君をそこまでにしてしまったのか。
「私、あの女に勝ったのよ? だからこうして、ずっとニクス様の傍にいられる、貴方は私の物だもの、そうよ、私は王妃の座なんて要らないの、兄にフラれたからと弟に手を出すような尻の軽いあの女とは違う、違う、違うのよ!」
気が触れたように頭を抱え振るコーデリアに、同情する気にもなれず、何を言っても無駄だと、護衛を呼んだ。すぐに現れた護衛はコーデリアの両腕を拘束し、引きずられる様にして部屋から連れ出されていく。こんな姿、美愛に見せなくて済んでよかった。ニクスはコーデリアに目もくれず裏口へと向かった。
「そんな、いやぁ、いやよ、行かないでお願い、お戻りになってニクスさまぁああっ」
伯爵のためにと情けをかけたのが間違いだった。
公爵家に入ったニクスの元に、子もなせず離縁し、どこにも行き場をなくした哀れな娘を不憫に思った父、ルーガン伯爵が訪ねてきた。
侍女で構わない、コーデリアを救って欲しい。数字が得意な子できっと何かお役に立てるはずです。
よろしくお願いします、と床に額を擦り付け頼み込んできた男を哀れに思った。だが、かつてセレフィラと確執があった女性だ、公爵家に入れるのは得策ではない。少し悩んだ結果、当時進めていた高級レストランの経理として招き入れることをした。勿論、仕事への姿勢や功績を加味し、支配人の席は開けておくと伝えた。いずれ伯爵家に戻り再婚の道もあるのだと、彼女のために肩書を用意した。
実際、今の今まで何一つ問題行為も起こさず、真面目に働く彼女の姿勢を見て、人は変われるのだと信じ、約束通り支配人にまでした。
だが、結局変わってなどいなかった。今日超えてはならない一線を越えた。到底許すことはできない。
ニクスはずぶ濡れの美愛を抱え馬車に乗せた。
離宮へ戻ろうとしたが、このまま離宮に帰してしまえばきっと、もう美愛に会うことができない。どんな顔で会えばいい?
雨で冷え切った体をぎゅっと抱きしめると小さい声が零れた。帰したくない。
理性では理解している。自分が聖女と接触していることをヴェリトールに知られることは避けなければ、と。今までも細心の注意を払い、全ての行動を計算していたというのに、どうしてもこのまま別れてしまうことだけは避けなくては、そう本能が言っている。
せめてもの足掻きで秘密裏に準備した別荘へ向かうことにした。
その結果、今度は別の問題が現れ、その対応にニクスは頭を悩ませることになるのだった。