商人の客
~ 星の降る井戸 ~
砂は渇き、隊商の歩みがたなびく煙となって地に伸びた。
彼は、平行する地平線上に人影を見つけた。
揺れる大気の中をそれは走ってくる。
駱駝の歩みは、確実に彼に近付いてきた。
彼は、手をあげて自分の隊商に止まるように合図した。
だんだん、人の姿がはっきりしてくる。
毛並みの良い精悍な駱駝の背に若い男が乗っていた。男はひとりだった。
砂漠の旅だというのに、若い男は外套の頭巾も被らず、赤と白の格子模様の布を頭に巻いているだけだった。黒い髪が布の間から覗いていた。
駱駝の毛の外套を身につけた若者は彼の前に進み出た。歳の頃は二十歳前後だろうか。
「アッサラーム、アライクム。(こんにちは)」
駱駝の背の若者は、額に手を当てて挨拶した。端正な顔立ちの若者である。
「ワ・アライクム・アッサラーム。(こんにちは)」
彼も礼を返した。
「メルアの都に向かわれる隊商とお見受けいたします。」
若者は、礼儀正しい言葉使いをした。
彼の部下がさりげなく若者の後ろをとる。このような砂漠の真ん中で出会う人間と言えば、盗賊に決まっている。特に、砂漠の冬を旅する隊商は日が暮れると夜営を行なう。夜に紛れて襲えば足がつかない。昼間のうちにあたりをつけておき、夜、隊商が寝込むのを見計らって襲撃するのだ。
今、彼の目の前にいる若者が盗賊の手先かもしれないのだった。彼の部下は腰の剣に手をかけていた。
「いかにも、私の隊商は、メルアの都に向かっている。それが、貴殿とどのような関わりがあるのだろうか。」
彼の口調は穏やかだった。彼には、若者が盗賊のように見えなかった。
若者は、人なつっこい微笑を浮かべた。若者は駱駝からふわりと飛び降りた。
「ここからメルアまでは、二日ばかりでしょう。ならば、食糧の予備に手をつけても危険はないわけです。
どうでしょう、私に少しばかり、食糧を分けて下さいませんか? ただで、とは申しません。『水』と交換、というのではいかがでしょう。」
「…。」
彼は答えに窮した。確かに、食糧の予備は十分にあった。若者に分けてやるだけの余裕もあった。だが、若者は水と交換と言ったのだ。若者が予備の水袋を持っているようには見えなかった。
「ふざけるな。皮袋ひとつぐらいでは話にならないんだぞ。」
横にいた彼の執事が声を荒げた。若者の背後で剣が抜かれる。嫌な顔をしたのは彼の方だった。その無言の表情は、部下達を制するに十分だった。抜かれた剣は再び、鞘におさめられた。若者の笑みは崩れることがなかった。
「わかった。我等もそう余裕があるわけではない。乾したナツメぐらいしかないが、分けてやれるだろう。『水』は要らない。それを受け取ったら、早々に立ち去りなさい。」
「旦那様!」
「ムタウ、言ったようにしなさい。」
彼は執事に命じた。執事のムタウは、主人に言われたとおり隊商の荷の中からナツメの実を袋にとった。しぶしぶとそれを若者に届ける。
「有難うございます、ご親切な旦那様。貴方に神のご加護がありますように。」
若者は、袋を鞍の端に取り付けた。
「次は、私の番ですね。貴方の隊商に『水』を差し上げましょう。」
若者は外套の懐から黒い毛皮の塊を取り出した。
「さあ、『水』を呼んでおくれ。」
毛皮の塊は、若者の腕の中から飛び降りると砂漠の上を走り出した。
「狼!」
彼は眼を見張った。小さな、まるで犬のようだが、狼に間違いなかった。砂漠に狼がいるなんて! 黒い小さな狼は、彼らから少し離れた所で立ち止まった。黒狼は、頭をあげて若者を見た。
若者は、ゆっくりと歩いて黒狼の所に向かった。彼は、駱駝を下り、魅入られるように若者の後を追った。
若者は、黒狼のいた所で腰を落とした。外套の中から短剣を取り出す。三日月形の刃先が陽を写してキラリと光った。
「ここか。」
黒狼が若者の傍らに寄り添った。若者は、短剣を大きく振りかざすと砂漠の砂に突き立てた。短剣は、柄まで砂にめり込んでいた。若者は、それをゆっくりと引き上げた。刃先が砂から出ると同時に砂の色が変わり始めた。全くの乾燥状態の白っぽい色から暗い色が滲み始めていた。やがて、その色は水となり、若者が後退りするとともに小さな水たまりに変わっていった。
「アッラー、アクバル…。(神は偉大なり…)」
彼は、そう呟くと声もなくその場に立ちすくんでいた。
水たまりは、彼の隊商が十分に飲む事が出来るぐらい大きくなっていた。二百もの駱駝を賄えるほどにだ。若者は水たまりの縁で、手で水を掬うと黒狼に飲ませてた。若者は、彼の姿を見ると笑みを浮かべて言った。
「『水』が湧いているのは、今夜だけです。早く、皆さんに飲ませてあげて下さい。明日の陽が昇る頃には、元の砂漠に戻ってしまいますから。」
「君は… 一体、何者なのだね?」
隊商の商人は、若者に問い掛けた。
◇◇◇
その夜、隊商の商人は、水を呼んだ若者のために羊を一頭、料理した。彼の天幕で若者と一匹は、山ほどのご馳走をたいらげた。若者の名は、サーリムといい、このルブアリの砂漠を旅していると言った。
若者の連れている黒狼の子供は、アイシャという名で砂漠の地下から水を呼び寄せるという不思議な能力を持っているのだと言った。
隊商の商人は、自ら、クエトの商人ハールーン・ラジドだと名乗った。
ラジドはサーリムを夕食に招待し、食後のお茶も三杯目になる頃には、二人と一匹はすっかりくつろいでいた。
サーリムは、胡坐をかいた中に頭の格子布を敷いてアイシャを乗せていた。小さな黒狼は、お腹がいっぱいになったのか丸くなっていた。
「貴方があの大商人のラジド様だとは思いませんでした。どおりで、大きな隊商だったわけだ。」
サーリムが日焼けした浅黒い顔に照れ笑いを見せた。ラジドはサーリムの茶碗にお茶を注いだ。紅茶のいい香りが天幕にひろがった。ラジドは、サーリムよりずっと年長である。親子ほども違うだろう。「クエトのラジド」といえば、砂漠の商人の中でも一、二を争う豪商である。その名は地中海で知らぬ者はなく、どこの商都でも歓迎された。ラジドはメルアの都のマフムド王のもとにも出入りし、海を渡ってくる様々な国の品物を砂漠を越えて売りさばいていた。
クエトは、マフムド王の国の一地方だったが、元は小さな王国であり、港を有する商人達の街だった。それが、クエトの姫がマフムド王に嫁いだことによって一地方となったわけである。が、マフムド王は、クエトの繁栄が王の懐の繁栄に繋がることを知っていて、クエトの自由交易を擁護した。そして、王都から離れていることもあってクエトの商人は比較的自由に振る舞うことができた。
サーリムの膝の中でアイシャがムクッと起き上がった。
「サーリム、あたしにもお茶をちょうだい。」
一瞬、ラジドとサーリムが凍り付いた。小さな黒狼は、はっきりと人間の言葉で言った。サーリムが慌てて、アイシャの口を手で塞ぐ。が、アイシャは手の隙間から大きな声で言った。
「あたし、お茶がほしいの!」
幼い女の子の声だった。アイシャという名から雌だろうという見当はついていたが、まさか、人語をしゃべるとは。大抵のことには動じないラジドだったが、砂漠から水を湧き出されたり、人間の言葉をしゃべったりする狼にいささか困惑した。
「人前じゃ、しゃべらないって約束だったろう!」
「だって、のど、かわいたの!」
困惑は隠せなかったが、ラジドは新しい茶碗にお茶を注ぐとアイシャの前に置いた。アイシャは、サーリムの膝から下りると前脚で器用に茶碗を抱き、縁を噛むようにしてお茶を飲んだ。狼のくせに舐めるのではなく、人間のように飲んだのである。湯気が立つほど熱いお茶のはずだった。
「ああ、おいしい。おじさん、ありがとう。」
アイシャは、黒い瞳でラジドを見上げた。ラジドは、アイシャとサーリムを見比べた。サーリムは、アイシャを抱き上げると膝の中に戻した。アイシャの頭を撫でながら、彼は話し出した。
「ご覧のとおり、ただの狼じゃないんです。俺にもアイシャが何者かわかりません。」
「あら、あたし、『ひと』じゃないの?」
無邪気にアイシャが言った。その言葉にサーリムとラジドは苦笑を誘われた。どう見てもアイシャは狼の子供だったのだから。
「俺もアイシャを託されただけなんです。ずっと、この子の面倒を見てきた者に。俺達が砂漠を旅するのは、アイシャを国に帰してやるためなんです。」
「この狼を?」
「『星の降る井戸』というのをご存じないですか?」
「えっ?」
「断食月のライラ・アルカドルの夜(預言者に啓典が下された夜)に砂漠に現われるという井戸です。貴方は砂漠をよく旅しているのでしょう。聞いたこと、ありませんか?」
「…。」
「その井戸は、天上の神様の所に通じていて、その井戸に願いを言うと大天使<イズライール>が神様に伝えてくれるそうです。」
サーリムの瞳が遠くを見るように宙に浮かんだ。ラジドは、それが緑色なのに気が付いた。緑色の瞳! 遠い昔、同じ瞳の主を知っていた。ああ、そうか。この若者に気を許したのは、この瞳の所為だったのだ。懐かしさがラジドの心を通り過ぎた。このような事もあるのだ。これも神のなせる業か。
「アイシャは、その井戸から故郷に帰ることが出来るそうです。」
「では、天上界の方なのですか。」
サーリムは、首を横に振った。
「アイシャの国は、『緑の国』というそうです。」
「神が地下に隠したという国ですな。国そのものが緑に満ちたオアシスであり、年中、涸れることのない井戸を持つという?」
アイシャは丸くなって眠っていた。寝息がサーリムの身体を伝わる。サーリムがアイシャの背を撫でていた。
「アイシャがこんな姿でここにいるのは、神様の怒りを受けたかららしいので…。怒りを解いて頂くためには神様に声を届けなければなりません。だから、『星の降る井戸』を探さなくてはと。」
「大変なお話ですな。」
ラジドは、溜息をついた。サーリムが嘘をついているようには見えない。
アイシャのことも神のなされたことなら得心がいく。神にできぬことはないのだから。
そして、砂漠の国に住む者は、皆、「緑の国」の話を知っている。飲み水の心配もいらない、豊かな実りを約束された国。かつて、その国は砂漠の上に存在したという。が、何かの理由で神の怒りを受け、砂漠の地下に封印された。言い伝えだけが今も残っている。「緑の国」の手がかりになるのは、「星の降る井戸」の存在であった。
「星の降る井戸」は、断食月のライラ・アルカドルの夜にだけ砂漠に現われる。その場所は神の御心により決められる。井戸が地表に現われると天上の星々がそれに惹かれて地へ下り、あたかも、井戸の中に降り込むように見えるという。それ故に、この名で語られるのである。
「星の降る井戸」は、地下の「緑の国」の水を汲み上げられる井戸だと言われる。井戸には番人がいて、水泥棒から井戸水を護っている。番人は、<ハウリ>という妖霊の処女で、預言者が神の啓示を受けたとき、そばで聞き耳を立てていて信仰を持った者であった。神はその褒美として、大切な井戸の番人の仕事を与えたのである。<ハウリ>は、井戸の水を求めてきた旅人のために皮袋で井戸の水を汲み上げる。心正しき者には真水を、邪悪な心の持ち主には水の代わりに乾いた砂を与えるという。そして、この井戸は、神に願いを託す井戸でもあった。
言い伝えは長い時を経ても、人々の中に生きていた。多くの人が、「星の降る井戸」を、「緑の国」を求めてルブアリの砂漠を旅した。だが、誰もそれを見つけられず、大半が砂漠の砂に還っている。それでも、求める者は後を断たない。徒労に終わる事が判っているのに人は止められない。この若者もそのような夢に取り憑かれているのだろうか。
「俺も『星の降る井戸』に用があるのです。」
「?」
「神様に許しを乞うために。」
サーリムは、言葉を切ると静かな微笑を浮かべた。ラジドは黙っていた。
「随分と久しぶりに人に会ったものですから、饒舌になってしまいました。お許し下さい。」
「私も寝物語程度の話なら聞いたことがあるが、残念ながら場所までは…。」ラジドが言った。
「貴方は、『星の降る井戸』があることを信じますか?」
若者は、父親ほど歳の違う商人に問い掛けた。サーリムは、この初対面の商人に不思議な安らぎを感じていた。何故だか、わからない。でも、ラジドと出逢ったことは何か彼にとって、とても大切なことのように思えたのだった。ただ、食糧が欲しいだけではなかった。地平の向こうに隊商を見つけた時、サーリムは無意識のうちに駱駝の頭をそちらに向けたのだ。神様の計らいに違いない、サーリムはそう思っていた。
「多くの人が『星の降る井戸』を求めて旅をしています。でも、井戸は見つかりません。ですから、その井戸が本当にあるのかどうか、私にはわかりません。
ただ、神が心正しき者のために井戸を遣わすのなら、神のご意思に導かれて井戸を見つける事が出来るのではありませんか。
人は、神に導かれて、生きているのですから。」
「…。」
サーリムは、ラジドの言葉に耳を傾けた。
「もし、そのような井戸があるのなら…、あることを信じてみたいものです。私もまた、心弱い人間ですから、神の加護を祈りたい。」
ラジドは、言葉を切った。
サーリムは、すっかり眠り込んだアイシャの身体を自分の外套で包んだ。砂漠の夜は寒い。昼間からは考えられないくらい冷え込んでくるのだ。若者は、黒狼の子供に優しい顔を見せていた。アイシャを包むサーリムの暖かさがラジドにも伝わってくる。不思議な狼の子供とそれをいたわる若者の姿は、ラジドに遠い昔を鮮明に思い出させた。ラジドもサーリムのように夜を過ごしたことがあったのだ。
「ひとつ、思い出した話があります。貴方の言う『星の降る井戸』かどうかは…。
お聞きになられますかな。」
「ええ、是非!」
ラジドは、膝の中で手を組んだ。うつむき加減の顔は頭布に隠される。
穏やかな声が物語り始めた。
◇◇◇
「あるところに男が一人おりました。貴方より少しばかり年上だと思って下さい。
男は裕福な家に生まれ、何不自由なく育ち、年若くして一国のマジュリス(御前会議)を務めるまでになりました。彼は敬虔な回教徒であり、誰からも信頼を寄せられる若者だったのです。
彼の国には、小さな姫君がひとりいました。その姫君も立派な回教徒でした。王はこの姫君の婿に彼の若者を選んでいました。若者の方もずっと姫君の従者を務めていましたから、姫君をとても大切に思っていました。まわりの大人達もこの二人の縁組を祝福しておりました。但し、姫君はまだ幼く、許婚者がいることは内緒にされました。それは、若者の希望でした。姫君にすれば、若者はまだ優しい兄の域を出ていなかったからです。彼は、それを十分承知していたので、姫君が彼を夫として見ることが出来るようになるまで待つつもりでした。
彼の見守る中で、姫君は美しい女性に成長されました。そして、姫君の若者を見る目が変わってきたのを皆は知りました。後は、用意だけが必要でした。若者は姫君を妻に迎える準備のため、王宮の仕事を離れました。
その頃、彼の国の王は、隣国の王から大変な仕打ちを受けていました。
その国では、民の飲み水は隣国の井戸に頼っていました。彼の国では、真水の井戸が殆どなかったのです。王は、隣国の王に相当額の使用料を払い、水を買っていました。隣国の王はそれを逆手にとって、膨大な使用料を請求してきたのです。とても、払える額ではありませんでした。そして、隣国の王は、支払いが出来ないのならば、替わりに姫君をよこすようにと言ったのです。王は、頭を抱えました。既に、姫君の婿は決まっていたのですから。でも、王国の民を渇死させるわけにはいきません。王は若者を呼び寄せ、姫君を諦めるように懇願したのでした。若者はまだ正式な求婚をしていませんでした。そして、姫君も自分がどうあるべきか承知していたので、若者とのことについては何も言いませんでした。
姫君の隣国への輿入れが決まり、婚礼の隊商が組まれました。隊商の責任者は、皮肉にも例の若者だったのです。隊商は、断食月に旅をしました。婚礼は断食月明けに予定されていたのですが、王はそのぎりぎりまで姫君を手放さなかったので、断食月の終わりを旅しなければならなかったのです。旅はつつがなく進みました。そして、隣国の都まであと一日というところで隊商は夜営を張りました。その夜は、断食月のライラ・アルカドルの夜だったのです。
隊商の責任者たる若者は、旅の無事を神に感謝し、従者達に休息を与えました。そこへ姫君の乳母が駆け込んで来ました。天幕で休んでいるはずの姫君が消えたと。
若者はひとりで姫君を探しに出ました。彼は皆に姫君がいなくなったことを知られるのを恐れました。婚礼を嫌がって逃げ出したとなると姫君の母国は隣国の怒りを買い、多くの民が殺されるでしょう。そして、姫君自身も国を裏切った者として処罰されてしまいます。
若者は、天幕から随分と離れたところで姫君を見つけたのでした。姫君は、砂漠の真ん中におられました。それも古びた井戸のほとりに。若者はその辺りの水場をよく知っていましたが、姫君のいる古井戸は初めて見るものでした。
彼は、そこで、天上からその井戸に星が降る様を見たのでした。」
「あっ!」サーリムが思わず、声を出した。ラジドは話を続ける。
「彼の姫君は井戸の中を覗き込んでいました。若者は驚いて駆け寄り、姫君の身体を抱き留めました。身を投げるのではないか、若者はそう恐怖したのです。回教徒にとって自ら命を断つのは、神に与えられた運命をないがしろにする行いです。若者は、姫君にそのような真似をさせたくなかったのです。若者は暫くの間、姫君を抱いたまま動けませんでした。若者の腕を解いたのは、姫君でした。
『私は、自害なぞいたしません。』姫君は、はっきりとおっしゃいました。
『神様が私にせよ、とお命じになられたことはまだ始まってもおりませんもの。』
『…。』
『すべては、神様の御心のままに。私は、それに従うまで。』姫君は、寂しくそう言われました。
『私は、この井戸に降り注ぐ星を見ていただけですの。とても、奇麗でしたわ。』
『貴方は、「星の降る井戸」をご存じ? 私、この井戸を見ていてそのことを思い出しましたの。神様に私の声が届くといいなって。私、この井戸に願い事をしましたの。』
姫君はふいに若者にしがみつきました。彼の袖を握りしめて、彼の胸に顔を埋められました。若者はじっとして動かなかったそうです。暫く、二人は黙ったままそうしていました。
そう、今、貴方のしているようにね。」
ラジドはアイシャの寝顔に笑みを見せた。サーリムはアイシャの尖った耳を撫でた。小さな狼は、夢の世界を漂っているようだった。寝顔に微笑みが浮かぶ。
「若者がその気になれば、姫君は彼のものでした。でも、彼はそうせず、姫君を天幕に連れかえりました。姫君が彼に何を求めていたのか、若者には痛いほどわかっていました。若者は回教徒でした。神の意に逆らうことは出来ません。既に、姫君は隣国の王の妻でした。若者が思いを遂げることは許されません。そして、そうすることは姫君の幸せではないのです。
若者は姫君を天幕に送り届けると再び、砂漠に出かけました。断食月のライラ・アルカドルの夜はひっそりとしていました。隊商の者たちは姫君を気遣ってか、静かに夜明けを迎えようとしていました。若者は一人で先程の古井戸を訪れていました。この井戸が言い伝えの井戸なら…。
彼は井戸の中を見ました。とても深くて、水が湧いているのかどうかもわかりませんでした。姫君は、この井戸に何と願ったのでしょう。
その時、若者の側を星が通り過ぎたのです。彼は頭上を見上げました。天上の星々が彼に向かって降ってきました。星の光は彼を通り過ぎ、井戸に降り注いでいました。
『言い伝えの井戸なのですね。』若者は天上に問い掛けました。
『ここが「星の降る井戸」なのですね!』
天が若者の問い掛けに答えました。『お前の願いは何だ?』
『私の願い?』若者は一瞬、言葉をなくしました。彼は願いを聞いてもらうために井戸の側にいたのではないので。若者は星の降り注ぐ姿を追いました。彼は井戸のなかに叫んでいました。
『私は、私の姫君が幸せに過ごされることを祈っております。この井戸から天上の神様に声を届けて下さるのなら、私の願いではなく、姫君の願いこそ、お聞き届け下さい。』
『姫君はいつも神の名を讃え、貴方の教えの通り過ごされておいでです。どのような目に遭われても姫君は貴方を信じ続けるでしょう。そのお心をお守り下さい。』
若者の鼻先から水が滴り落ちました。星の光を含んだ涙は、暗い井戸の中を何処までも落ちていったのでした。
『お前の願いは、あの娘の願いを叶えて欲しいということか。あの娘がどのような願い事をしたのか知っているのか?』
『存じません。』
『知りたいか?』
『いいえ! 姫君の願い事は、私ふぜいが知る必要はございません!』
『そうだな。娘の願いは、お前の願いではない。それが叶えられるようにというのが、お前の願いであったな。』
若者は天上を仰ぎました。彼に語りかける声は天上から聞こえてきたのです。
『お前の願いを聞いてやるには、娘の願い事を儂のもとに運ぶ「星」が要る。お前は、その星を用意しなければならぬ。』
『星でごさいますか? 私は星なぞ持っておりません。』
『何を言う。お前は二つの星を持っておる。その一つを使えばよいではないか。』
『…。』
『その奇麗な緑の星がよいな。黒の星ではつまらぬ。さあ、どうする?』
神は若者に星を要求しました。人間は、神の力によって生まれたもの。その身体は神のものです。若者は自分の右目に手を当てました。神の言う緑の星は彼の右目のところにありました。
若者は、左右の瞳の色が異なる不思議な目の持ち主でした。左目は皆と同じで黒く、しかし、右目はよく見ると濃い緑色をしていたのです。若者は自分の目の事を知っていましたが、ごく僅かな周りの人々以外は誰も気付いていませんでした。
若者は短剣を取り出しました。星明かりのなかで短剣に緑色の瞳が写っていました。若者はそれを見納めると、その短剣を右目に突き刺しました。真紅の血が若者の腕を伝って砂漠に落ちました。彼は、短剣で右目を抉りだし、血に染まった手の先から井戸へ落としました。若者は叫び声一つ立てませんでした。彼の緑色の瞳は、深い井戸の中に沈んでいきました。出血のために意識が遠退いていくなか、若者は星が水に落ちた音を聞いたような気がしました。
若者の身体は、その場に崩れ落ちました。」
天幕は、小さな焚火で照らされていた。ラジドは時折、小枝を足した。
灯りと暖のための焚火は、サーリムとアイシャの顔を照らし、頭布の陰はラジドの顔を暗くした。ラジドは、サーリムの正面にいるのによく顔が見えない。頭布を深く被り、誰にも素顔を見せたくないかのようにしているようだった。ラジドは、淡々と語り終えた。
「これが私の聞いた話です。確かに『星の降る井戸』というのが出てきましたが、この井戸がそうなのか確かめる術はないのです。」
「彼らはそう信じたのでしょう? 神様の声を聞いたのでしょう?」
ラジドは微笑むだけで、サーリムの言葉に答えなかった。
「緑色の目を捧げた若者はどうなったのですか? 若者の、姫君の願いは?」
サーリムはラジドに迫った。
「若者は、自分の天幕で目覚めました。すべてが夢かと思われましたが、若者の右目はありませんでした。若者は頭布を深く被り、右目のないのを悟られることなく役目を果たしました。彼は姫君の願い事の成就を見届けることなく、西の国へ旅立ったそうです。今はどうしていることやら…。姫君とて、風の便りすら絶えてしまったそうです。」
「神様は二人の願いを叶えて下さらなかったのですか。彼が緑の眼を捧げたというのに。」
「神のなさることは、我等にはわかりません。」
ラジドはそう言った。サーリムは唇をかんで露骨に不服そうな顔をした。
「失望されましたかな。」
「いいえ、そうではなくて…。彼らほど祈っても聞いては頂けなかったのでしょう。」
「さあ、それは…。」
「俺やアイシャの願いなんか、到底、聞いてもらえっこないな。」
「祈ることですよ、サーリム。」ラジドが優しく若者に言った。
砂漠の闇が天幕の中まで入り込んで来た。ほんの僅かな湿り気を帯びた風が天幕の裾をないだ。サーリムとラジドは向かい合って座ったまま、まんじりともせず、時間を過ごした。サーリムの膝の中のアイシャだけが幸せそうに眠っていた。
「随分と時間が過ぎてしまいましたな。もう、夜明けが近い。」ラジドが口を開いた。
「まだ、こんなに暗いのに。」
サーリムは、アイシャの身体をさすりながら言った。まだ、天幕の裾まで闇が落ちていた。
◇◇◇
外で駱駝の泣き声が聞こえた。日の出前の祈りの声がする。隊商の者たちが、カーリウ(啓典読み)の後を受けて啓典を唱える。
ラジドは天幕を出た。サーリムもアイシャを下ろしてラジドの後に従った。外はまだ暗かったが、東の地平には白い光が浮かびつつあった。ラジドは、メッカの方を向いて膝まづいた。サーリムもそれに倣う。砂漠の真ん中に朝の礼拝の声が拡がっていた。
いつのまにか、アイシャがひれ伏すサーリムの側にいた。黒い小さな狼は、前脚の中にちょこんと頭を垂れていた。
礼拝を終えて、サーリムはラジドに別れを告げた。昨日、彼らが呼んだ水たまりは元の砂漠に還っていた。その上で、アイシャが跳びはねている。サーリムは、駱駝に荷物をしっかり括り付けた。ラジドがその傍らにいる。
「よかったら、私達と一緒に来ないかね?」
「メルアの都へ行くのでしょう。俺は行けないです。」
「なぜだね? それに、君は、君自身のことを何も話してくれなかった。」
「俺のことは…、メルアの都に行かれたらわかります。」
「おーい、アイシャ、行くぞ!」
黒狼の子供がサーリムの所へ走ってきた。黒の短い尻尾を振っている。サーリムは、アイシャを抱き抱えた。
「ラジド様にご挨拶しなさい。」
「おじさん、ありがとう。さよならするけど、また会えるといいね。」
アイシャが無邪気に言った。ラジドは身を屈めてアイシャの頭を撫でた。狼の子供は黒い瞳をキラキラと輝かせた。
「それでは、ラジド様。
貴方の上に神の平安がありますように。」
「待って下さい。」
ラジドはサーリムを呼び止めた。ラジドは、自分の白い頭布を留め紐ごと取った。ラジドの頭髪には灰色が混じっていた。ラジドは、頭布をサーリムに与えた。
「クエトに私の家があります。これを持っていけば、家の者は貴方がたをお客様としてもてなすでしょう。
いつか、尋ねて来て下さい。」
サーリムは、ラジドの顔を呆然と見つめていた。ラジドに右目が無かった。
ラジドが言った。
「貴方がたに神のご加護がありますように。」
サーリムは、額に手を当てて礼をすると駱駝に跨がった。そのまま、若者は振り返りもせず、砂漠の中を進んで行った。
ラジドは、その姿を見送っていた。
「ラジド様、」
執事のムタウが主人に声をかけた。
「出立の用意が整いました。
旦那様?」
「本当に、砂漠というのは不可思議なところだな。そう、思わないかね、ムタウ。」
「はあ。」
ムタウは、甲斐甲斐しくラジドに頭布代わりの外套を深く被せた。
「彼らが、『星の降る井戸』を見つけられることを祈るとするかな。」
ラジドは、小さな声でそう呟いた。
「旦那様、何かおっしゃいましたか。」
「いや。」
ラジドは、二十年ぶりのメルアへの道を歩き始めた。
足元を、風が砂を運んで行った。
参考文献
・「コーラン」上中下 井筒俊彦訳 岩波文庫
・「イスラム事典」 平凡社
ずっと昔から書いてます。
「星の降る井戸」という短編シリーズものの最初なのです。
昔のは自筆原稿なので、打込みが大変です(汗)