どうしようもない父でした
僕の父というのは、 それはどうしようもない人でした。
酒を飲んだり、 呑まれたり。
賭け事こそしなかったものの、 だからといって倹約家という訳でもありません。
楽しく、 気分良く生きるために、 楽しくなるものにお金をかける。
そんな、 よく言えば、 生きたお金の使い方が出来る人ではありましたが、 計画性に欠けるという意味ではどこまで行ってもキリギリスです。
アリでないことは確かなのでした。
そして、 誰の稼ぎで生活してると思ってるんだ、 などという台詞は吐きかけてこなかったので、 救いようのない人ではありましたが、 クズではありませんでした。
昔気質といいましょうか。
キャンプなど、 非日常では誰よりも張り切るのが常でした。
火だけ起こしてあとは何もしない系男子、 通称着火男は違い、 非日常においては宿建てから帰りの運転まで広範囲を担当しておりました。
しかしまあ、 日常に戻ると彼はチャッカマンなのです。
コンパクトなだけに、 チャッカマンの方が有用だとすら思えます。
休みの日などはソファにでーんと腰掛けて、 心ゆくまで自分の好きなチャンネルを見るのでした。
夏場の冷房は18度。
こちらが風邪をひくこともしょっちゅうで、 しかし当の本人は何故か平気な顔をしていたものです。
このあたりでお察しの通り、 冒頭の酒の件とも合わせて見れば、 父が家に居るときの電気代、 酒代は最早飲食店のそれでした。
嗜好で言えば、 iPhone信者であり、 不定期で出る新作に飛びつくこともしばしば。
煙草もやっていましたね。
「 煙草もお酒も毎日二箱七缶一日たりとも欠かさず」 と歌った歌手がおりましたが、 当初自分にはその歌詞を特に疑問に思いませんでした。
およそそれが我が家の日常だったはずです。
一応、 念の為に明記しておきますと、 父は賭け事や浮気はせず、 会社の飲み会というのにも年に数回ほどしか参加しませんでした。
飲み会に関しては、 宅飲みでそれ以上に飲んでいること、 また父について来られるほどの酒豪が周りにいなかった可能性など、 次項の理由とは別もものがあったかもしれません。
つまるところ、 父は一応は家庭というものをちゃんと意識していたようです。
そうして、 人生の途中頃まではしっかり芯が通っていたように思います。
その芯がズレ始めたのが、 あるいは初めからズレていたのを気付かないふりをしていたのかもしれませんが、 子らが受験に忙しなくなった頃です。
家庭内の全ての人間から心の余裕が消え去り、 そもそも多かった夫婦喧嘩はより多く、 より長く、 より面倒臭いものになっていきました。
幾分か若い頃には、 喧嘩をして激昴し、 誤って母に手を上げてしまったとき、 その後猛省して、 「 俺が悪かった。 手もあげてしまった。 お前の気が済むまで殴ってくれ」 と後ろ手に縛り、 床に坐したまま母に誠意を見せたと言います。
母は一晩中殴り続けました。
「 俺が悪かった。 済まなかった」 「 あなた… もういいわよ。 お互い様よ」 なんていう終戦条約などは我が家には存在せず、 当時は父の無条件降伏でした。
たった一度手を出してしまったことに対し、 無抵抗で相手にも殴らせる、 というのはある意味では漢気でありましょう。
父が痛覚快楽者、 いわゆるマゾである可能性は切り捨てておきます。
痛みには滅法弱い人でしたから。
しかしそれがどうでしょう。
年が経つにつれてそんな漢気はどこへやら、 受験期真っ盛りにも関わらず、 僕ら子供が夫婦喧嘩の間に入って、 母に殴りかかろうとする父を止めることも増えていきました。
ここでは母の名誉を尊重しますと、 母も決して子を盾にした訳ではなく、 一度なるに任せたとき、 その回の父母大戦で真夜中に警察のお世話になったことがあるからです。
数秒父を止めるのと、 数時間警察の介入を受けるのとでは、 寸暇が惜しい受験生であれば前者を選ぶのは殊更おかしいことでもないでしょう。
歳の割に体格があるとはいえ、 もう老の域に足を踏み入れている、 衰えていく一方の肉体を、 成長期真っ盛りの肉体で対処するのもそう難しい話ではありませんでしたから。
なにせ、 父の漢気というものはいつの間にやら消え絶えてしまっていたようなのです。
厳しく言えば、 父の唯一の美点になりうる漢気を失ったというのは、 プラスとマイナスで釣り合っている人間性のプラスの部分を大きく欠いたということでしょう。
長い人生で積み上がったものを矯正するのは容易ではありませんし、 想像に反さず、 結婚生活、 親子生活を経ても果たして改善されなかったようです。
年を食うにつれ頑固になる親父は、 そして一本筋の通った芯が抜けてしまった昔気質は、 それを救えるだけの力を持った何かに出会うことを拒んでいるようでした。
切り開かれていく現代社会で、 古く狭い世界から抜け出せなかった、 抜け出さなかった、 閉じこもってしまったと丸まった背中が語っているようでした。
さて、 受験期からしばらくして、 父が家にいることが増えました。
当然と言えば当然で、 父母の抗争はさらに輪をかけて増えていきました。
あるいは応仁の乱や百年戦争の如く、 ただダラダラダラダラ続いていただけの長い長いひとつだったのかもしれません。
それは何の因果なのか、 父母の正面衝突をする時候というのは大抵何か大きなイベントに近い時ごろなのでした。
街中が点々と父の日ムードに染まる今日この頃、 そんなことを思い出したのです。
イベントに全力で便乗する飲食店には優しそうお父さんを連れてきた家族の賑わいがあります。
いつもしかめ面、 もとい厳格な顔をしていたうちの父とは打って変わって、 甘ったるい顔をさらに綻ばせる父たちがそこにはいました。
その甘ったるさが羨ましく見える幼少期はとうに過ぎ、 時には厳しさがもの恋しくなることさえあります。
それが実は気付いている、 根っからの悪ではなかった父のありがたみというやつなのか、 はたまた人質がテロリストにときめく吊り橋効果理論によるものなのか、 それは定かではありませんが。
自分が熱望した甘さ、 優しさを目の当たりにしたとき、 あるいはアニメや漫画といった創作物で父子の情で感動させるような場面に出会ったとき、 それでも父のイメージに直結しているのはうちのその人だったのです。
反面教師、 ただの嫌な奴、 敵、 様々な視点で見たそいつが、 幸か不幸か父なのでした。
嬉嬉として語っていたキャンプ知識も、 泳ぎ方も、 その他父から聞いた有象無象は未だ大半が実用する機会と無縁です。
今役にたっているものを頑張って探してみるならば、 焼きそばの焼き方とお好み焼きのひっくり返し方くらいでしょうか。
しかしそれらも、 父のしかめ面とそこから連想される重苦しい空気も共に現像されてしまうので、 父の教えというよりは、 父の教えにより積んだ経験で培った慣れの手つきから、 何も考えず無になってやっているようなものです。
冷たい言い方をすると、 父の存在というのは物理的にも、 また精神的な意味でも、 自分の前にはもう無いように思えてしまいます。
そうして消え去ったころに、 暦の上で大きなイベントがまた来るのです。
それが父というものを消しきらない要因のひとつになっているのでありましょう。
しかしながら、 イベントごとに、 それも喧嘩の情景や軋轢を思い出すのならば、 いっそ忘れてしまった方が楽しい人生には良いのではないか、 と。
そういった意味では、 気分良く生きることを追い求めた父と自分とは同じなのでしょう。
そのように考えを巡らすと、 やはり父は父なのです。
厳しくても、 しかめ面でいつも機嫌が悪くても、 酒飲みでも、 どの面も父で、 それらはどう足掻いても本当の意味では消えないのでありましょう。
さらに言えば、 厳しさが懐かしく思えるというのも、 父といえば彼の顔が浮かぶというのも、 結局どれをとってみてもあれは、 あれが僕の父なのでした。
どうしようもなくて、 救いようもないけれど、 それでも父なのでした。
父の日、ってことでなんか思い立って3時間くらいで書きました。
自己満足甚だしい作品ですが、とりあえず世に放っときます