95話
身体が重い。まるで石のようだ。
私の身体は重力に従い、暗い海の底へと沈んでいく。
何処まで沈んでいくのだろう。
暗くて何も見えない。とても静かな世界。ここは深海?
果たして、終わりはあるのだろうか。
そう思った途端、遠くの方から『どさささっ』と何かが滑り落ちる音がした。
これは、屋根に積もった雪が地面に落ちた音だ。耳に馴染んだ、決して聞き間違えることのない音。
幼い頃は、この音が怖くて、よく義弟のベッドに潜り込んでいた。義弟はいつも優しく私を迎い入れ、「大丈夫だよ、怖くないよ。」と言って頭を撫でてくれていたのだ。
父は仕事が忙しく、怖い夜を1人で耐えることしか知らなかった幼い私が、どれだけ義弟の存在に救われてきたのか。
もう一度、遠くの方から雪が落ちる音がした。まるで、早く起きろと世界に急かされるようだ。
私の意識は深海からゆっくりと浮上する。そして、鉛のように重い瞼を開けた。
寝惚け眼だったため、はっきりと前が見えないが、誰かが私を覗き込んでいることだけはわかった。
目の前にあるぼんやりとした輪郭が、次第に形作られていく。
私と同じ、少しウェーブかかった栗色の髪を全て後ろに撫であげ、形の良い額を露出させた清潔感のある髪型の男性。
濃い眉と柔らかな唇のあたりに中年の翳りが感じられるが、枯れるにはまだ早い、彫りの深い端正な顔立ちに、心配そうに私を見下ろす温和な細い瞳。
「お父様…?」
「あぁ、パパだよ。おはよう、エリィ。」
そこには、穏やかに微笑む私の父が居た。
「ここは…うぐっ、」
上体を起こした私の背中に激痛が走る。思わず私はその場で蹲った。
「大丈夫かい?ほら、まだ横になって休んでいなさい。」
父は優しく、私をそっとベッドに寝かしつけた。
後頭部にひんやりとした感触が伝わる。直ぐに氷枕だということがわかった。
「ここは診療棟の一室だよ。」
「診療棟…」
目線だけで辺りを見渡すと、白い天井と壁に見覚えのある絢爛豪華な調度品がみえた。確かに、ここは私が一時的に滞在している診療棟の一室で間違いないようだ。
「覚えているかい?エリィは階段から落ちたんだよ。」
「…階段…。」
ふいに悪夢のような記憶が走馬灯のように駆け巡り、寝起きでぼんやりとしていた頭が一気に覚醒した。
――そうだ。私は、聖女に階段から突き落とされたんだった。
さっと顔を青くする私に、父はこれまでの経緯を話してくれた。
3日前、私が倒れて皇宮に運ばれたという報せを受けた父は慌てて帝都へと向かった。そして、帝都に到着するやいなや、今度は私が階段から落ちたという新たな報せを受け、皇宮に駆け込んできたそうだ。
その時の私は、皇宮医からの治療を受けている最中だったらしく、幸いにも骨に異常はみられず、背中の打撲と軽いかすり傷だけで済んだそうだ。だが、今晩だけは発熱の心配があるため、診療棟に留まることになったらしい。
「2回も悪い報せを受けた時は、本当に心臓が止まるかと思ったよ…。」
そう言う父の顔には、明らかな疲労の色がみえた。その顔に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ごめんなさい。」
父に対し、負い目を感じた私は思わず視線を落とす。そんな私に父は小さく笑い、頭を撫でてきた。
「ふふ。確かに死ぬほど心配したけど、別に責めている訳では無いよ。色々と聞きたいことはあるが、今はエリィが無事なことがわかっただけで十分さ。」
父の優しい言葉に、なんだか急に胸が押し潰されたように苦しくなり、目頭が熱くなった。じんわりと心に暖かいものが広がっていく。
―――しかし、
「本当は、ここに来る前にユーリを誘ったんだけどね…。珍しいことに断られてしまったよ。明日は槍が降るかもね。」
「―っ、」
その一言に、冷水を浴びせられたかように急激に心が冷え上がり、身体が硬直した。明らかに様子がおかしくなった私に、父は不思議そうに首を傾げた。
「…ユーリと喧嘩でもしたのかい?」
…喧嘩。
果たして、今の状況を喧嘩という可愛い一言で片付けられるのだろうか。自分でも整理しきれていない状況を父に説明するのは難しい。
思わず黙り込んでしまった私に、父はおもむろに口を開いた。
「お前たちが喧嘩をするだなんて、初めてじゃないかい?」
言われてみれば、私と義弟は喧嘩という喧嘩を今まで1度もしたことがなかった。喧嘩に発展する前に、いつも義弟の方が「仕方がないですね。」と言って、折れてくれていたからだ。
「パパは2人を1番近くで見てきたけど、ユーリは決してエリィを傷付けるような男じゃないと思うんだ。」
「…。」
「エリィはどう思う?」
今まで、義弟は底なしに優しかった。その優しさが全て嘘だったとは思えない。…いや、そう思いたいだけなのかもしれない。所詮は、現実逃避。現実を受け止めたくないのだ、私は。
そもそも、どうして私と義弟は、この新しい世界で出会ってしまったのか。
私と義弟を引き合わせたのは、紛れもない父だ。
あの日、父が義弟を連れてこなければ、私たちは出会うことはなかったかもしれない。
今まで避けてきた。子供ながらに聞いてはいと思っていた。だが、義弟がアルベルト様だとわかった今、もう…無視は出来ない。
「…お父様。」
「なんだい?」
「1つ、聞いてもいい?」
「あぁ、良いよ。1つと言わずにいくらでも。」
「どうして、ユリウスを家族に迎えたの?」
父は驚いたかのように、少し目を見開いたのち、ふんわりと微笑んだ。
「エリィの方から聞いてくるなんて思わなかったよ。」
「駄目だった?」
「駄目じゃないよ。ただ、今までそういったタイミングが無くて話さなかっただけだから。…さて、何処から話そうか。」
父は懐かしむように目を細め、窓の方に視線を向ける。私もつられて視線を窓の方に向ければ、白い雪がしんしんと降っていた。
「…そうだね。あの日のことは、つい昨日の事のように覚えているよ。まだ冬の名残のある春の夜。朧月の下で、パパはユーリと出会ったんだ。」
…そうか、あの人が邸に来たのは春だったのか。それすらも忘れていた。
「パパが話さなかった理由はタイミングの他に、もう1つあるんだ。」
父の視線が窓から私の瞳に移る。
「言ったら嫌われてしまうかもしれない。けれど、ずっと秘密にできるほど、お前たちはもう子供じゃない。」
…何故だろう。優しいはずの眼差しが、嫌に胸をざわつかせる。
父は穏やかな口調のまま口を開いた。
「最初、パパはユーリを殺そうとしていたんだ。」




