94話
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ここは、俗世を離れた深い海の底。
私は二枚貝となり、閉ざされた世界で静かに眠っている。
「―――ベータ」
誰かが私の名を呼んだ気がした。
貝の隙間から、ブクッと気泡が零れる。
「エリザベータ。」
今度ははっきりと聞こえた。
その声に引っ張られるかのように、私の身体は上に向かって浮上する。
そして、バサッと勢いよく水面から顔を出したのと同時に、私の意識は緩やかな微睡みから覚めた。
「おはよう、エリザベータ。」
寝惚け眼のぼんやりとした視界に、薄く笑っているエメラルドの瞳の少女が映り込む。彼女の後ろには雲一つない満天の星空が広がっていた。
むくりと上体を起こすと甘い林檎のような香りが、ふんわりと鼻腔を掠める。その香りに誘われるかのように顔を上げれば、真っ白な花々が辺り一面に咲き乱れていた。
―――そう、カモミールだ。
月夜に照らされたカモミールは雪原のごとく、白く、蒼く、淡い光を放っている。そのカモミール畑に終わりは見えない。果てしなく、何処までも続いているように思えた。
この光景を見た私は直ぐに、自分が夢の中にいることに気付く。
目が覚めると忘れてしまう不思議な夢。
全体をぐるりと見渡した私は視線を少女に移し、ギクリと身体を強ばらせた。何故なら、少女は赤い鎖で繋がれていたから。
腰まで伸びている真っ直ぐなプラチナブロンドの髪に、真っ白なドレスを身に纏っている少女には、陰鬱な赤色が不気味に映える。
首には真っ赤な首輪を、両足首には真っ赤な足枷を。その鎖は地面に繋がっていた。
だが、少女は鎖を気にする素振りもなく、私の傍らでカモミールを摘み取り、その茎を器用に編み込みながら、鼻歌交じりで花冠を作っていた。その姿は、まるで無邪気に花遊び興じる幼い子供のよう。
それがより一層、彼女の異質さを際立たせていた。
「いつもみたいに、何をしているのって聞かないの?」
少女は手元を見ながら、突然私に話しかけてきた。
「聞かないわ。だって、見ればわかるもの。花冠を作っているのでしょう?」
少女の手にある、長く連なったカモミールを輪っかにすれば、立派な花冠の完成だ。それは誰の目から見ても明らかである。
だが、少女は鼻で笑った。
「貴女は、またそうやって…。思い込みで決めつけるのは良くないわ。」
人を小馬鹿にするような態度に、少しムッとした私は、ついついむっつりとした声を出してしまう。
「じゃあ、何を作っているの?」
「花冠よ。」
「…やっぱりそうじゃない。」
私はからかわれているのだろうか。それが顔に出てしまったのだろう。私の顔を見て可笑しそうにクスクスと笑う少女に、怒る気力は失せてしまった。
「えぇ、そうね。結果は同じだけど、その答えを知る過程が大切なのよ。」
「過程?」
「えぇ。思い込みだけじゃ、大切なものは見えてこないわ。」
手元から顔を上げ、私をじっと見つめてくる少女。少女の視線に、何故か居心地の悪さを覚えた私は思わず視線を逸らす。それを見た少女は「そうやって貴女は目を背けるのね。」と言って、心底失望したように息を吐いた。
少女は私に対して、基本辛烈だ。それは、少女がこの場所に囚われていることと何か関係があるのだろうか。
「…そんな貴女の気持ちなんてお構い無しに、それぞれの歯車が回り始めているのよ。」
この少女は突然何を言い出すのだと、首を傾げる。そんな私に構うことなく、少女は語り続けた。
「でもね、1人で回っていても空回りするだけで、なんの意味も無いわ。歯車同士の歯と歯が噛み合って、初めて世界が動き出すの。」
正直、少女が何を言っているのか理解できなかった。世界を動かすだなんて、いくらなんでも規模が大きすぎる。
頭にハテナマークを浮かべて首を捻っていると、少女の鋭い視線が突き刺さった。
「よく聞いて、エリザベータ。貴女は、周りの歯車と比べると小さくて、今にも壊れてしまいそうなほどに脆いわ。そんな歯車なんて、世界にあっても無くても構わない、ちっぽけな存在だとは思わない?そうとは知らずに貴女は、誰とも噛み合おうとはせずに1人でクルクルと回っているの。その姿が、あまりにも滑稽すぎて見ているこっちがイライラするのよ。」
早口で一気に捲し立てた少女は、募る苛立ちを落ち着かせようと深く息を吐く。
わかりやすく苛立っている人間に対して、どう口を挟めば良いのだろう。私の陳腐の脳みそでは火に油を注ぐような言葉しか浮かばない。結局、私は口を噤むことしかできなかった。
少女は何度か鼻で呼吸した後、ゆっくりと口を開いた。
「…どうしようもない貴女だけど、それぞれの歯車と噛み合うことが出来るのは、貴女しか居ないのよ。」
真っ直ぐに私を見つめるその瞳から、今度は目を背けることが出来なかった。
私を責めるような、縋るような、貶すような…そんな様々な感情が入り交じった瞳。その瞳は私の呼吸を抑制した。
しばらく見つめ合っていると、ふいに少女は目線を下に落とす。つられて私も視線を落とすと、少女の手には完成した花冠が握られていた。それを見た私は思わず息を呑む。
何故なら、真っ白なたカモミールがいつの間にか、陰鬱な赤色に染まっていたから。
「世界が前進するか、それとも後退してしまうのかは、貴女次第。」
そう言いながら少女は赤い花冠を何の躊躇もなく、私の頭の上に乗せてきた。それと同時に後頭部に、ずっしりとした重みを感じる。まるで生暖かい水を含んで、ぐっしょりと濡れた雑巾を頭に乗せられたような感覚。
その不快な感触に全身に鳥肌が立った。
「重い?それは世界の重さよ。貴女が殺した世界の重さ。」
花冠から滴る生暖かい液体は私の頭を濡らし、頬を伝う。ポタリ、ポタリと手の甲に落ちてきた雫は、やはり赤かった。
「この世界は愛を知って、初めて産声を上げたの。」
少女は私に手を伸ばし、頬を伝う液体を自身の親指で拭う。
「愛って不思議よね。奇跡を産む愛もあれば、憎しみを産む愛もある。まるで魔法…というよりも呪いと言った方がいいかしら。」
拭ったことにより親指に付着した液体を、少女は流れるように私の唇に塗り込む。すると、私の唇は紅をさしたかのように赤く染った。
唇の隙間から液体が入り込み、口腔内にじんわりと鉄の味が広がる。その鉄の中から、微かに甘い香りを感じ取れた。
「その愛が歪んでいればいるほど、奇跡のような呪いが産まれるのよ。」
少女は花のように綺麗に笑った。
「そうやってまた、世界は産声を上げる。」




