93話
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テオドールside
「…あぁ、殿下…」
駆け寄る俺の顔を見るやいなや、エリザベータは安堵したかのように口元を弛めてから、糸が切れたようにカクンと気を失った。
俺は彼女を抱き起こし、身体を揺さぶる。
「おいっ、エリザ!」
栗色の髪が背中に流れ、エリザベータの白い首筋が顕になる。そこには真新しく、それでいて痛々しい歯型があった。…なんだよ、これ。パッと見、それ以外の目立った外傷はなく、血が流れている様子もないが、服の下はどうなっているのかは分からない。
俺の腕の中で力なく横たわる彼女の顔は、蝋人形の様に白く、まるで死に顔のよう。その顔は300年前のエリザベータと重なり…
「―っ、」
自分の身体から血の気が引いていくのを感じた。
―早く医者に見せねぇと…!!
焦る俺はエリザベータを急いで皇宮医の元へ連れて行こうと彼女の身体を抱えあげようとするが、それを邪魔をするのは俺の向かい側にいるクソ聖女だ。
聖女は、エリザベータの手を握ったままメソメソと泣いている。
こいつがエリザベータに何かしてきたのは明確だが、今はそれを追求している暇はない。
泣き続ける聖女に苛立った俺は舌打ちをし、唸るようにドスの効いた声を出した。
「…その手を離せ。」
聖女を睨みつけると、俯いたままの彼女の睫毛がふるりと震えた。その様子に直ぐにビビって手を離すだろうと思っていたのだが、聖女は俺の予想に反して、離すどころか逆にエリザベータの手を強く握り締めてきた。
「嫌です。」
「…あ゛?」
ボロボロと涙を流す聖女は、妙に威厳と落ち着きを加えた声ではっきりと拒否の言葉を吐き、ゆっくりと顔を上げた。その濡れた瞳に、俺の顔が歪に映る。
「エリザベータ様を助けるのは私です。貴方じゃない。」
涙に濡れ危うげに光る瞳の奥から、弱々しい聖女の見た目にそぐわない、肌を焦がすような、おどろおどろしい殺気を感じ取った。瞬間、ゾクリとしたものが背筋を駆け上がる。
―俺が、コイツにビビっている…?そんな馬鹿な。
有り得ない、何かの錯覚だ。そう思うのだが、一瞬でも聖女に対し慄いた自分自身に酷く驚いた。
一体、この聖女の目は何なんだ。まるで親の仇のように俺を睨みつけている。ひと言では片付けられないほどの禍々しい憎悪。その憎悪に魂が震える。恐怖…いや、共鳴か?俺はこの憎悪を知っている気がする。だが、いつ、どこで…
「殿下!」
突然、赤髪の女が俺に話しかけてきた。
…名前は出てこないが、顔は知っている。確か、ヴェーレグ辺境伯の孫娘…だったか?以前、この子を宜しくとか何だかで紹介されたことがあったが、正直よく覚えていない。まぁ、所詮その程度の女だったってことだ。
赤髪の女は涙で潤んだ瞳で俺を見つめてきた。
「貴方のような高貴なお方がその人に触れてはいけません。エリザベータ様には天罰が下ったのです。」
「…は?」
天罰?突然コイツは何を言い出すんだ。
周りの奴らも赤髪の女に同調するように、いっせいに騒ぎ出した。
「カトリナ様の言う通りです!エリザベータ様は聖女様を階段から突き落とそうとしたのです!」
「その悪事を見ていた神は聖女様を助け、エリザベータ様に罰を与えたのです!」
「自業自得です!」
「助ける必要なんてありません!!」
「―――!!」
「―――!?―――!!」
「―――!!!」
途中から聞くに耐えないゴミ虫どものブンブンと喚く不快な羽音を聞き流す。
エリザベータが聖女を階段から突き落とそうとした?バカバカしい。コイツにそんな度胸なんてない。
エリザベータは根っからの偽善者だ。決して、聖人君子ではない。
300年前、母親から受けた偏った教育の影響により、コイツは常に誰よりも正しくあろうとする。それが人間のあるべき姿だと信じて疑わない。だからこそ、そのレールから外れることに酷く怯えている。
それは偏執的で、もはや一種の強迫観念と言っても過言ではない。
もし、エリザベータが憤怒で我を忘れたとしても、その矛先は相手ではなく、自分自身の心臓に迷わず向けるだろう。それがエリザベータなりの正義の守り方なのだから。はっきり言って、馬鹿だ。
そんな馬鹿な女が聖女を殺そうとするだなんて、有り得ない。大方、聖女がエリザベータを階段から突き落としたのだろう。
やっと聖女が本性を現したのだ。それと同時に、生徒たちの異様さも浮き彫りになっている。
―いつから、この学校は宗教団体になったんだァ?
俺が居ない間に、随分と学校全体に聖女の毒が侵食しているようだ。
今の生徒たちは、まるで信仰深い信者のよう。さしずめ、聖女は教祖様ってところか…?
一体どんな方法で生徒たちを誑かしたのか。それは後で、たっぷりと問い詰めるとして…今、俺が優先すべきなのはエリザベータだ。
俺は聖女からエリザベータの手を奪い取り、無理やり抱き上げた。下から聖女の鋭い視線が突き刺さる。嫌な目だと思いつつ、俺は床に座ったままの聖女を一瞥し、歩き出した。そんな俺の様子に、生徒たちは戸惑いにざわつき始める。
「で、殿下…」
「いけません。神のお心に背くつもりですか…?!」
「流石の貴方様でも神は―――」
「―――!」
「―――!?―――!」
神、神、神、神…
口を開けば馬鹿の一つ覚えのように、神の名を口にするゴミ虫ども。
かすかな苛立ちに似た思いが腹の底の方で渦を巻く。
調子のいい時だけ都合よく神の存在に縋りやがって。今まで、神がお前たちに何かしてくれたのか?何もしてくれていないだろ?
本当に神が居るのなら、こんな悲劇は生まれなかった。
神なんて、居ないんだ。
「神様!!」
「神様!!」
「神様!!」
「神様に従えば、我らは永遠に幸せだ!!」
無責任に誰かが吐いた台詞に、堪忍袋の緒が音を立てて千切れた。
「―――黙れ!!」
廊下に俺の怒声が響き渡り、不快なざわつきが一瞬で静まり返った。
周りを見渡せば、それまで威勢よく騒ぎ立てていた生徒たちは、皆一様に硬直していた。
俺は苛立ちを鎮めるために深い息を吐いてから、生徒たちに鋭い眼光を飛ばした。
「いつ、誰が、お前たちに発言の許可を与えたんだ?」
本来であれば、皇太子である俺に向かって、許可なく言葉をかけるなど有り得ないことだ。ここに居る生徒たちは、それを重々に理解していたはずだったのだが…。
これは、はっきり言って異常だ。今までの体制が狂い始めている。
はっと自分たちの無礼な振る舞いに気付いたのか、生徒たちは気まずそうに視線を床に落とす。だが、誰一人として反省の色は見られず、独善的な態度だった。「自分は何も間違ったことを言っていないのに。」といった心の声が聞こえてくる。
…なんて、嘆かわしい。
腐り始めた学校に、頭痛を覚えた。
「神とか天罰とかを騒ぐ前に、階段から落ちた奴を助けるのが人間として当たり前な行動なんじゃないのか?」
「…。」
「分かってんのか、打ちどころが悪かったら死んでいたんだぞ。」
「…。」
「……お前たちは人間をやめて、神の使いにでもなったつもりか?」
生徒たちは誰ひとりと口を開く様子はない。一様に口を噤んでいる。彼らの顔に俺の言葉が響いている様子は見られない。微かに煩わしさを覚えている様子の彼らに、俺は何を言っても無駄だということを悟った。
―――その時、
「何の騒ぎです?」
人だかりの向こう側から、この場には異質な妙に通る青年の落ち着いた声が聞こえてきた。
その声を聞いた生徒たちは、潮が引くように道を開ける。そこから現れたのは黄水晶の瞳を持つ男。男はその瞳を大きく見開いた。
「…姉上…!」
男…もとい、エリザベータの義弟ユリウスは、こちらに駆け寄ってきた。
「姉上、姉上…!一体何が…」
「触んな。」
伸びてきた手からエリザベータを守るように俺はユリウスに背を向ける。それに対し、ユリウスは不快そうに瞳を眇めた。
「白々しい演技だな。どうせ、お前もグルなんだろ?」
「グル?何を言っているのです?」
「しらばっくれるな。お前なんだろう?エリザベータを学校に呼び出したのは。」
そもそも、皇宮に居るはずのエリザベータが学校に居ること自体が有り得ないのだ。
方法は分からないが、ユリウスはエリザベータを学校に呼び出し、聖女と協力して殺そうとしたのに違いない。
だが、当の本人は「何を言っているのだ。」と言わんばかりに眉を顰めている。その白々しい態度に苛立っていると、床に座ったままの聖女が弾かれたかのように立ち上がった。
「ユリウス様っ!!」
聖女はボロボロと涙を流しながら、ユリウスに胸に勢いよく抱きつき、そこでわんわん泣き喚いた。
「エリザベータ様が…、エリザベータ様が…!」
「ベティ嬢?落ち着いてください。いったい何があったのです?」
ユリウスは落ち着かせるように聖女の背中を撫でる。それを見た俺は吐き気を催した。
―…なんだ、この茶番は。
付き合ってられない。時間の無駄だ。
俺はこの場から皇宮に向かおうと、自身の血液に混じる青の魔力に意識を集中させる。反応する魔力は瞳を淡く光らせた。
それを見たユリウスは、はっとしたかのように口を開いた。
何を言い出すつもりだ?だが、もう遅い。
視界が揺れる。世界が揺れる。
ユリウスの声が届く前に、俺とエリザベータの姿は空気に溶け込むように学校から消えた。
―せいぜい、クソ聖女との余生を楽しんでろ。
もう、エリザベータとの約束を守る必要はなくなった。
エリザベータになんと言われようとも、先に手を出してきたのはアイツらだ。
約束は約束。
ちゃんと守らねぇとな。
俺は口元に歪んだ笑みを浮かべた。




