92話
耳障りな女の甲高い声に刺激され、私の意識は浮上した。
重い瞼を開けば、目の前にそびえ立つ階段がぼんやりとした視界に映り込む。その階段の前で仰向けに倒れていることに気が付いた。
何故こんな所に寝ていたのだろう。身体を起こそうと、腕に力を入れると背中に激痛が走った。
「―っ、」
一気に意識が覚醒する。そして、その痛みに引き摺られるように、気を失う直前のことを思い出した。
あぁ、そうだ…!
私は聖女に、階段から突き落とされたんだった。私の身体を押した聖女の手の感覚が、身体に生々しく残っている。
打ち所が悪かったら、確実に死んでいた。
―――聖女は、私を殺そうとしたのだ。
「エリザベータ様!!」
その焦った声と共に、階段を駆け下りる足音が聞こえてくる。それが一体誰なのか、確認しなくてもわかる。
「あぁ、エリザベータ様…!」
視界に飛び込んできたのは案の定、聖女ベティの顔。彼女は今にも死んでしまいそうなほど悲痛に顔を歪めていた。私を殺そうとしたくせに、どうしてそんな顔をするのだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい…!」
膝をついた聖女は、私の手を握りボロボロと涙を流しながら謝ってきた。その泣き顔に胸が締め付けられる。そんなに泣いたら、綺麗な瞳が溶けてしまう。彼女の涙を拭ってあげたいが、身体を動かそうとするとズキンと激痛が襲いかかる。
私のために涙を流す彼女が、私を殺すはずがない。きっと、これは何かの間違いだ。
そうだ、そうだ……そうに違いない。あぁ、良かった。
私は安堵の息を洩らす。
「ごめんなさい、エリザベータ様…。私の力不足のせいで、また失敗してしまいました…っ」
力不足?また?失敗?
彼女の言葉に、どくりと心臓が嫌な音をたてた。自分の顔が強ばるのを感じる。
「また…貴女を…この世界から救えなかった…!私が失敗したせいで、貴女はこの世界に縛られたまま……あぁぁごめんなさいごめんなさい…!エリザベータ様…貴女を、この世界から解放してあげたかったのに…!!」
ブツブツと呟きながら、不穏げに煌めく瞳で私を見下ろす聖女。
聖女の言葉を理解した瞬間、背筋が凍った。
「貴女を、苦しみから救ってあげられるのは私だけなんです。私だけ、私だけ、私だけ私だけ私だけ私だけ私だけ私だけ私だけ私だけ私だけ私だけ私だけ…………あぁ、可哀想なエリザベータ様…こんなに震えて…怖いですよね?辛いですよね?こんな世界、いらないですよね…?もう、世界に怯えなくても良いんですよ?今度こそ、貴女を救ってみせます。私を…信じて…ね…?」
安心させるように口元に笑みを浮かべ、私の理性を堕落させるような、何処かで聞いたことのある甘いセリフを吐く聖女。一見すると、慈悲深く人畜無害で清らかな乙女だが、その瞳には一切甘さがなく、剣呑な色を孕んでいた。それが、全てを物語っている。
彼女は、冗談抜きで私を殺そうとしたのだ。そして、それが救いになると本気で思っている。
「お……かしいわ…。」
どうしたら、そんな恐ろしい考えに行き着くのだろう。死ぬことが救いになるだなんて、彼女は何か大切なものを履き違えている。
ここまで彼女を掻き立てる理由は?想い人の姉に対する感情にしては、あまりにも度が過ぎていて、狂気的だ。
聖女に対して、アルベルト様以上の恐怖を感じた。
「さぁさぁ、皆様!ご覧になりましたか!?」
恐怖で固まる私の耳に、妙に芝居掛かった甲高い女の声が突き刺さった。この声は、先程にも…。
「これが、あのエリザベータ=アシェンブレーデル様の本性でございますわっ!」
声が降ってくる方に視線を向ければ、先程まで私が居た階段の踊り場に、こちらを見下ろす赤髪の女生徒が見えた。
艶やかな赤髪とルビーの瞳を持つ、気高き一輪の薔薇のような女性。
そこには最近姿を見せていなかった、カトリナ= クライネルトが悠然と立っていた。
「あぁ、見ました!見ましたとも!!この目でしっかりと!エリザベータ様が我らの愛しの聖女様を階段から突き落とそうとした所を!!」
今度は男性の芝居掛かった声が辺りに響く。カトリナの隣には入学初日、私に無礼な声を掛けてきたトミー =キッシンジャーが現れた。彼は大袈裟に腕を広げ、悲痛な表情を浮かべる。
「エリザベータ様は、聖女様の美しい容姿とそのお心に嫉妬したのです。あぁ、なんて醜い!そして、その醜い嫉妬心に駆られたエリザベータ様は、その感情の赴くままに聖女様を殺そうとした…!!」
「あぁ、なんて罪深い…!!ですが、神は全てを見ています。神は聖女様を救い、エリザベータ様に罰を与えました…!そう、」
2人は顔を合わせ、にたりと笑う。
「「エリザベータ様には天罰が下ったのです!!!」」
カトリナとトミーが声高らかに言い放つと、周りからどっと歓声が湧き上がるのが聞こえた。
「―!?」
この時、初めて気がついた。
私は、大勢の生徒たちに囲まれていたのだ。
「公爵令嬢が?」
「あぁ、やっぱり…」
「いつかやると思っていたよ。」
「以前、シューンベルク卿をいたぶっていたという噂があったわよね?」
「噂は本当だったんだよ。」
「火のないところに煙は立たないって言うものね…。」
「罪深い!!!」
「そいつを罰しろ!!」
「極悪だ!!」
「あぁ、自分を殺そうとした罪人に涙を流すだなんて……我らの聖女様はなんて慈悲深い…っ!!」
「聖女様!!」
「聖女様!!」
「聖女様!!」
「「我らの愛しの聖女様!!!」」
この異様な状況に、さっと顔を青くした私は恐ろしさに息を呑んだ。
全生徒の好奇な視線が突き刺ささり、心臓が大きく脈打つ。
一体何が起きているのだ。
いつの間にか、私が聖女を殺そうとしたことになっている。どうして、そうなるのだ。殺そうとしてきたのは私ではなく、聖女のほうだ。
弁解を求めるため、聖女に視線を向けるが、彼女は何も言わない。ボロボロと涙を流しながら口元に笑みを浮かべ、熱の篭った瞳で私を見下ろすだけ。その瞳が、いつの日だったか、義弟が見せた瞳と重なって………
「…ぁ…」
こんなの、可笑しい。早く、逃げないと。このままここに居たら気が狂いそうだ…!
そう思うのに、身体は石のように動かない。身体からは血の気が引き、どんどん体温が失われていく。私の手を握る彼女の手の冷たさのせいで、より一層身体が冷えていった。
それだけじゃない。背中がじんじんと疼痛を訴えて、息をするたびに激痛が走る。自然と呼吸が浅くなり、意識が朦朧とする。
いっその事このまま気を失ってしまいたい…そう思った時―――
「何を騒いでいるっ!!!」
当然、人だかりの向こうから鋭い声が飛んできた。その声に生徒たちの負のどよめきが起きる。そして、生徒たちは潮が引くように道を開け、そこから現れたのは…
「…殿下…?」
「―っ、エリザ…っ」
床に倒れたままの私を見つけた殿下は、サファイアの瞳を大きく見開き、顔を強ばらせたあと、弾かれたかのように私の元に駆け寄り傍らに膝をついた。
「おい!大丈夫か、何があった…!?」
この異様な空間に現れた、いつも通りのテオドール殿下。
「…あぁ、殿下…」
それに酷く安堵した私は、深い海に沈むように意識を手放した。




