79話
あぁ、崩れてしまった。壊れてしまった。
甘く、優しい、私の世界が。
その壊れた世界と一緒に、私は絶望の淵へと落ちてゆく。
底知れぬ、深い絶望。
私は何処まで落ちるの?
落ちた先には何があるの?
どこを見渡しても、辺りは真っ暗闇。
優しかった世界の面影など、どこを探しても見当たらない。
いや、違う。優しい世界なんて、初めから存在していなかったのだ。だから、探しても無駄。見つかるわけがない。
だって、それは義弟で成り立っていた世界。
義弟の存在が偽りのものだったのなら、その世界も偽りの世界だったのだ。
そう、世界はあの時から何も変わっていない。
300年前と一緒。
何処を見渡しても真っ暗で、冷たくて、厳しくて、残酷で、ひたすら理不尽な世界。
そこまで考えてふいに、胸の奥から笑いがこみあがってくるのを感じた。
「…うふふ、」
顔を覆ったまま、くぐもった笑い声が溢れ出る。
1度零れてしまったら、もう抑えることはできなかった。
「あははっ!」
私は、白い喉を仰け反らせるようにして、掠れた笑い声をあげる。
突然笑い出した私を、まるで幽霊でも見るかのように、瞳孔を散大させて凝視してくる彼等の顔があまりにも可笑しくて、くつくつと笑った。
「あぁ、アルベルト様がここまで素晴らしい演技力をお持ちだったとは、知りませんでしたわ!こんなにも近くに居らっしゃったのに、全然気付きませんでした。」
つい先程まで義弟のことは、誰よりも理解していると思っていた。だが、それは完全なるただの思い込み。私は、彼のことを何にも理解していなかったのだ。
「何も知らずに貴方の手のひらで踊る私は、さぞ滑稽に見えたことでしょうね。」
前世の記憶に苦しみ、悩んだことも、義弟の姉で居続けるために努力したことも全て無駄だったのだ。
どんなに頑張っても、結局は何も変わらない。だって、その先には何も無いのだから。
そうとは知らずに、偽りの世界で必死にもがいていた自分があまりにも惨めで、哀れで、あぁ、笑いが止まらない。
「流石はアルベルト様でございます。私をずぶすぶに甘やかしてから、絶望のどん底へと突き落とす。あぁ、なんて華麗でいて残酷な手練手管なのでしょう。是非とも、ご教示を賜りたいですわ。」
細指を頬に添え、優雅に微笑んで見せれば、義弟は今まで見せたことのない引き攣った顔を見せた。その表情に、溜飲を下げる。
魔力のない私にとって、表情は社交界を生き抜くための武器の1つだ。
何度も何度、鏡を見て表情造りの練習をしてきたからこそ、自身の顔が相手にどんな影響を与えるのか手に取るようにわかる。
「その前に、この場をお借りしてお礼を言わなければなりませんね。ごほん、お二人のおかげで、今まで頭を覆っていた甘い靄が晴れ、ようやく目を覚ますことができました。このエリザベータ=アシェンブレーデル、心より感謝申し上げます。」
スカートの裾を軽く掴みあげ、上品にカーテシーをとってみせる。
「お、おい、お前…」
目の前に居る殿下が、戸惑いながら私に手を伸ばす。
その骨ばった無遠慮な手を、虫を相手にするように、躊躇なく叩き落とした。
「私に、気安く触らないでくださる?」
笑うのをやめ、すっと表情を消した私は殿下を静かに見据える。すると、彼の瞳に困惑の色がみえた。
どうやら、彼は自分が何をしたのかわかっていないらしい。
「…殿下、貴方には失望しました。」
彼のことは、私を正しい道へ導いてくれる光のような存在だと思っていた。
だが、その光は私を絶望の海に導き、そのまま突き落とした。信じていた光に、私は裏切られたのだ。彼に光を見出していた自分が馬鹿みたい。
結局は、殿下も義弟も、みんな、みんな、一緒なのだ。300年前と何も変わらない。
もう、誰も信じられない。
信じられるのは、自分自身だけ。
今まで、散々人を信じて、散々裏切られて、世界の残酷さは誰よりもわかっていたじゃないか。
あぁ、いつの時代だって、弱者は搾取させるだけの存在なのだ。彼らは生まれながらにして、搾取する側で、私はされる側。
そんな彼らはまるで寄生虫のようだ。弱者の生き血吸って生きていく寄生虫。
このまま300年前のように、私は彼らに搾取されてしまうのだろうか。いや、そんなことは認めない。認めてたまるものか!!
カッと心の底から湧き上がるのは、憤怒の炎。300年前、アルベルト様に殺される前に抱いていた感情ととても似ていた。
私は、未だに惚けたままの殿下からナイフを奪い取り、そして―――
―――その鋭い刃先を、己の胸に狙いを定めた。
「こんな世界、私の方から切り離してやるわっ!」




