76話
突然、
下から伸びた腕が私の背中にまわり、強く抱き込まれる。
その強い力に抵抗する暇もなく、私は義弟の身体に思いっきり倒れ込んだ。
私の背中にまわっている腕は、骨が軋むほど強く、あまりの苦しさに呻き声を上げるのと同時に、耳をつんざくような鋭い金属音が辺りに響き渡った。部屋の空気を震わせる程の激しい音に思わず目を見開くが、視界が何かで覆われているため、状況を把握することが出来なかった。
「―っ、」
背後から聞こえてきた、はっと声を呑む音を最後に、室内に静寂が訪れた。
……一体何が起こったのだろうか。
迫りくるナイフから義弟を守るため、私は咄嗟に義弟に覆い被さったはずだ。すぐにナイフの衝撃が背中にやってくると思っていたのだが、一向にその痛みは訪れない。
今、わかることといえば、自身の乱れた呼吸音と心音。それと、右耳から聞こえてくる、激しく脈打つ誰かの心臓の音と、噎せ返るような鉄の匂い。
「…はは、」
殿下の乾いた笑い声が、静かな部屋に響く。
「エリザ、顔上げてみ?んで、眼ん玉ひん剥いてよく見てみろ。お前の可愛い弟の化けの皮が剥がれたぞ。」
殿下の言葉が理解出来ないまま、私は言われた通りに顔を上げる。
どうやら私は、義弟の胸に顔を埋めていたのだと、今更ながら気が付いた。
そのまま、視線を上に上にと上げていく。
記憶通りの幼さが残る顎と形の良い官能的な唇。
すんなりととおった高い鼻梁に、長い睫毛に縁どられた美しいシトリンの瞳が……
「え?」
ない。
あの甘い蜂蜜のようなシトリンの瞳が、ない。
そこにあるのは、深い海を思わせるような美しいサファイアの瞳。
その瞳が、淡く煌めいていた。
私は息を呑み、義弟の瞳を見つめる。
口の中がカラカラに乾き、激しい口渇感を訴えてきた。
「…あ、なんで…」
口から零れたのは、笑ってしまうほどの情けない声。
なんで、どうして、そんな言葉ばかりが私の頭の中を行き交っている。
「サファイアの瞳は〝青の魔力〟を持って生まれてくる皇族にしか与えられないもんだ。」
殿下の言う通り、サファイアの瞳は尊き血筋である皇族にしか与えられない。
だから、皇族ではない義弟がそれを持っているだなんて、有り得ないのだ。そう、有り得ない。これは、何かの間違いだ。そうだ、そうに違いない。だって、そうじゃないと…
「それを、どうしてお前が持ってるんだ?ユリウス。…いや、アルベルト。」
〝アルベルト〟
その名前に、心臓がドクリと反応する。
「……アル…ベルト…さま?」
義弟の煌めくサファイアの瞳を見つめ、か細い声であの人の名を呼ぶ。
義弟は否定も肯定もせずに、ただ穏やかな笑みを浮べた。
「―っ!!」
行き着いた答えがあまりにも恐ろしく、私は声にならない悲鳴を上げ、義弟の身体から仰け反った。
その刹那、ゴンッ!と後頭部に鈍い衝撃が走る。背後にある壁に頭を打ちつけてしまったのだ。
「った、」
何故こんな所に壁が……と思いながら、じんじんと痛む後頭部を押さえつつ後ろを振り向いて、固まった。確かに、そこには壁があった。だが、私が思っていたのとは全くの別物の、異質で歪な壁がそこにあった。
例えるなら、ステンドグラスだろうか。透明度のやや低い暗褐色のおどろおどろしい壁が、私と義弟を覆うように背後に存在していた。
その壁の向こう側には、顔を歪ませている殿下と、彼の足元に落ちている鋭利なナイフが見えた。
先程のけたたましい金属音は、もしやこの壁のせい?
義弟から早く逃げたくて、その壁に触れると突然、壁がドロドロ溶けだした。
「あっ、」
本能的に危機を察して逃げようとしたが、時すでに遅し。赤い液体が私に襲いかかる。まるでバケツの中の水をひっくり返したような激しい衝撃に、私は咄嗟に目を瞑った。
たが、それは一瞬の出来事。
「…?」
気付けば、顔や腕などに不快な液体がまとわりついていた。
顔を濡らす液体を腕で拭い、恐る恐る目を開ける。
そして、自身の姿に唖然とした。
髪も、手も、制服も、腕も足も全て、真っ赤に染まっていたのだ。
「…うっ、」
その液体は鳥肌が立つほどに生暖かく、噎せ返るほどに鉄臭かった。その匂いに刺激され、悪心が喉元にせり上がってくる。
何とか飲み込もうと口を両手で抑え、荒い呼吸を繰り返す。
あぁ、これは、血だ。
きっと…先程、義弟の身体から流れ出た血液。
「すみません、姉上。僕のせいで、姉上が汚れてしまいました。大丈夫ですか?」
いつの間にか身体を起こしていた義弟が、私に手を伸ばす。
いつもと変わらない声と表情で、私を心配する義弟。その変わらない態度が堪らなく恐ろしい。
「さ、触らないで…!」
震える手で義弟の手を払い除ける。すると、義弟はわかりやすく傷付いた表情を見せた。
「…大丈夫ですよ。すぐに綺麗になりますから。」
義弟がそう言うのと同時に、辺りに撒かれていた血液が淡いブルーに煌めき出す。
私の身体にまとわりついていた血液も淡く光り、ズルズルと滑り落ちていった。
ズルズル…ズルズル…
血液は、まるで何かの生き物のように義弟の背後に向かっていく。きっと、刺された背中に向かっているのだ。
呆然と眺めている間に、辺りには血液の一滴も残されていないほどに綺麗になっていた。つい先程までベッドの上が血の海だったのが、嘘のよう。
「…ほら、綺麗になりましたよ。もう怖くないでしょう?」
義弟はまた私に手を伸ばしてくる。
その美しいサファイアの瞳に魅入られたかのように、身体が石のように動かなくなっていた。




