66話
ふと、微睡みから意識が浮上する。
手も足もまだ眠りの中のように暖かったが、意識はしっかりと覚醒しており、まるで頭を覆っていた濃い霧が晴れたような妙にスッキリとした目覚めだった。
むくりとベッドから上体を起こす。辺りは窓から差し込む夕日により、茜色に染まっていた。どうやら、泣き疲れて寝てしまっていたようだ。
「…。」
何か、夢をみていたような気がする。だが、よく思い出せない。
頭の片隅にチラつくのは、白い花。あれは…
何とか夢の内容を思い出そうと頭を捻っていると、廊下から何やら慌ただしい足音が聞こえてきた。何事かと扉の方へ視線を向ければ突然、ドンドンッ!と強く扉を叩かれる。
「ひぇ!?」
その大きな音に、淑女らしからぬ情けない悲鳴を上げてしまった。
「姉上!中に居ますか!?」
「…ユーリ?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、珍しく焦りを滲ませた義弟の声だった。
彼らしくない、その張り上げた声に目を見張る。
「あぁ、良かった。中に居るんですね。」
その心底安心したような声に、義弟に何も言わずに邸に帰ってきてしまったことを思い出した。
「今開けるからちょっと待ってて。」
慌ててベッドから降りようとすると、目の前にあるドレッサーの鏡の自分と目が合った。
髪はボサボサ、制服は皺だらけ、目元は赤く腫れ上がり、ゴム風船のようにパンパンにむくんだ顔…。
なんて酷い顔なのだろう!!
自身の顔に驚愕した私は、片足をベッドに残したまの中途半端な状態で固まってしまった。
「…姉上?どうしましたか?」
なかなか出てこない私に痺れを切らしたのだろう。義弟が再度私に呼び掛ける。
早く扉を開けてあげなければと思うのだが、いくら義弟とはいえ、このおぞましい顔を晒したくない。
「まさか倒れて…っ、姉上!開けますよ!!」
黙ったままの私に、心配を加速させた義弟は扉を開けようとドアノブを回す。
心の中で悲鳴を上げた私は、咄嗟にベッドの上に転がっているぬいぐるみに手を伸ばし掴み上げた。それと同時にガチャリと扉が開かれ、義弟が部屋の中へと飛び込んで来た。
「姉上!だいじょう…」
「ユーリ。許可もなくレディの部屋に入るだなんて、紳士のすることではないわ。」
正直どの口が言っているのだと思いながら、私はベッドから降り身体を扉の方へと向けた。
昨夜、許可もなく義弟の寝室の扉を開けた自分を棚に上げる。
「あ、すみません…。姉上が心配でつい…。」
視界が遮られているため義弟の顔を見ることは出来ないが、きっと申し訳なさそうに目を伏せているのだろう。
「…あの、姉上。」
「なに?」
「どうして顔を隠しているのですか?」
義弟の言う通り、私は猫のぬいぐるみに顔を埋め、寝起きのおぞましい顔を完璧に隠している。
ぬいぐるみは胴体が無く、顔の部分だけであるが私の顔を余裕で覆えるほど大きい。
ちなみに、このぬいぐるみはデューデン国に行っていた義弟からのお土産だ。
『姉上にそっくりだったので、思わず買っちゃいました。』と可愛らしく笑って私に差し出してきた。栗色の毛並みに、エメラルドの瞳。確かに色合いは同じだが、それが私に似ているのかどうかは今でもよく分かっていない。
「淑女として、寝起きの顔を晒すわけにはいかないからよ。」
「そんな…、いつも見せてくれていたじゃないですか。お願いします、姉上。お顔を見せて下さい。」
その切なげな声に思わずぬいぐるみから顔を離そうとしたが、先程の鏡に映った自分の顔を思い出し、ぬいぐるみに顔を埋めたままイヤイヤと首を振った。
「絶対に嫌!」
「―っ、」
義弟の息を呑む気配が感じられた。はっきりとした拒絶に戸惑っているのだろう。
「…わかりました。姉上の嫌がることはしたくありませんから。」
「…。」
義弟と私の間に気まずい沈黙が訪れる。今まで義弟に対し、居心地が悪く感じることなんて殆ど無かった。
沈黙に耐えられなくなったのであろう義弟が、恐る恐る口を開く。
「…あ、あの、姉上。今日はどうして先に帰られてしまったのですか?」
その言葉にぎくりと身体が強ばる。
義弟と一緒に居る聖女を見て嫉妬したから、だなんて口が裂けても言えない。
「放課後、図書室に姉上を迎えに行ったら姿が見えなかったので、とても驚きました。学校中探し回って、残っている生徒にも姉上のことを聞きました。そうしたら、姉上が辻馬車に乗ったのを見たって言う人が居たんです。」
どんどん声量が小さくなっていく。どことなく、その話し方はいつもよりも幼く感じられた。
「最近、辻馬車の振りをした強盗が多発している噂を聞いていたので、もしかしてと思って…。すぐに邸に連絡をとってみれば、姉上は先に帰ってきているって言うじゃないですか。慌てて帰ってきましたよ。…僕がどれほど貴女を心配したのかわかりますか?心臓が止まるぐらいに心配しました。」
義弟の声は、今にも泣き出してしまいそうなほど震えていた。
義弟の話しを聞けば聞くほど、私はだんだん罪悪感にさいなまれる。
―――だが、
「…心配かけて、ごめんなさい。」
「いえ…。姉上が無事ならそれでいいです。ですが、今後は黙って帰るのは止めて下さいね。」
「えぇ。」
優しい、優しい、いつも通りの義弟。
その言葉が時折、白々しく聞こえてしまうのは何故だろう。
「…論文で忙しいのに、迷惑かけてごめんね。」
「迷惑だなんて、そんな…。」
「今日の論文の進み具合はどう?」
「え?あぁ、順調ですよ。今日もいいデータがとれました。」
「…そう、良かったわね。」
無意識に、ぬいぐるみを掴む指に力が入る。
「僕のことよりも…、先程ベル達から姉上の体調が優れないと聞きました。お身体は大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。寝たら少し良くなったわ。」
「そうでしたか。…でも、念の為医者に診てもらったほうが…」
「そんなに大袈裟にしなくても大丈夫よ。」
「ですが…」
これは医者に診せて、どうにかなることではない。
いつものように心配してくる義弟にため息をつく。
「自分のことは自分で分かっているつもりよ。だから心配しないで。」
「………姉上がそう言うのであれば…。」
そう言いながらも全く納得していない様子の義弟に内心苦笑いをした。はたしてこれは嘘なのか、本当なのかと。
これ以上話すことは無いと思った私は扉のに近づき、ドアノブを掴んだ。
「夕食まで少し眠るわ。」
「え、あ、はい。わかりました。えっと、何かあったらすぐに呼んでくださいね。」
「えぇ、ありがとう。」
「…あの、姉上。」
「なぁに?」
「…いえ、何でもありません。失礼しました。」
何か言いたげな義弟の足音がどんどん私から離れていった。私は扉を静かに閉じ、その足音に耳を澄ます。
コツ、コツ、コツ…
しばらくして、その足音も完全に聞こえなくなり、再び寝室に静寂が戻った。
「…嘘つき。」
そう呟く私の頭には、放課後の女生徒たちの言葉が過ぎる。
『最近、放課後を一緒に過ごしているところをお見かけしますわ。』
『お互いお忙しいですからね、放課後しかゆっくりと過ごせないのでしょう。』
『あぁ、なんて可哀想な恋人同士なの…!』
ぬいぐるみを胸に抱き、ぎゅっと力を込める。
―私、邪魔者だったのね。
毎日実験と言って帰りが遅くなっていたのは、きっと聖女との逢瀬を楽しんでいたからだ。
私に先に帰って下さいと言ったのも、聖女と過ごすための口実だったのだろう。自分自身の目でも見たのだ。これは紛れもない事実。
そのことに気付いてしまった私の胸には仄暗い炎が宿る。
聖女と一緒に過ごしたいのなら、嘘をつかずにそう言って欲しかった。何故、義弟は私に嘘をついたのだろう。
前世の記憶がある私が、聖女と過ごすことを咎めるとでも思ったのか。それとも、論文のためだと言っていた方が聞こえが良いから?
どちらにしても義弟がやっていることは不誠実であり、残酷だ。
心の奥底にしまい込んでいた箱の中身が溢れ出した。その小さな違和感の欠片は1つになり、黒い種へと変貌する。
そして、私の中で疑惑の花が咲いた。
再び、鏡の中の自分と目が合う。
鏡に映る少女の瞳はひどく濁ってみえた。




