63話
「―うえ、姉上。起きて下さい。」
誰かが私の耳元で囁きながら、身体を優しく揺さぶる。
目覚めたくない。まだもう少し、柔らかな羽毛布団に包まれて、微睡んでいたい。
「姉上、朝ですよ。」
…朝?
その言葉に小さく身動ぎして、睫毛を震わせた。
「……う……ん……?」
重い瞼を開くと、朝日に照らされてキラキラと輝いている天使が私を穏やかな表情で見下ろしていた。
「…ユーリ?」
「はい。姉上、おはようございます。」
頭を撫でられて、その心地の良さにもう一度微睡みの中に旅立ちそうになったが、何とか堪える。
「…あなた、どうして私の部屋にいるの?」
ぼんやりと義弟を見上げると、義弟は可笑しそうにクスクスと笑った。
「ここは僕の部屋ですよ。昨日のこと忘れてしまいましたか?」
昨日?昨日…。
半分夢の中いる頭で昨日のことを考える。
―…えっと、確か…。怖い夢をみたから…怖くて…、ユーリの所に来たんだっけ…。
…あら?
「…姉上?大丈夫ですか?」
考え込む私を義弟が不思議そうに見下ろす。私はむくりと上体を起こし、頭を支える。
「ユーリ、私はどんな夢を見ていたのかしら?思い出せないの…。」
怖い夢を見たということは覚えている。だがその夢の内容が思い出せない。
「僕もそういうこと、ありますよ。夢って不思議ですよね。夢を見ていたということは覚えているのに、その内容は覚えていない。きっと、微睡みの世界に置いてきてしまっているのでしょうね。」
義弟の言葉に妙に納得した私は「なるほど…。」と呟いた。
「さ、姉上。身支度を整えましょう。遅刻してしまいますよ。」
そう言う義弟は、すでに学校の制服である燕尾服をきっちり着込んでいた。
義弟に着替えを手伝ってもらうことに、すっかり慣れてしまった私は、特に違和感を感じることなく義弟に身を任せた。
「姉上、今日はサイドを編み込んでみませんか?」
「任せるわ。」
「ふふ、わかりました。」
鏡に映る義弟は、楽しそうに慣れた手つきで私の髪を編み込んでいく。
私はそれをぼんやりと眺めていた。
※※※※※
「あ、エリザベータ様!!」
穏やかな午後の昼下がり、植物園でいつものように義弟との食後のティータイムを過ごしていると、遠くから聖女ベティが駆け寄ってきた。その姿がまるで飼い主を見つけた子犬のようで、私の心臓がキュンとないた。
「…ごきげんよう、聖女様。」
「はい!こんにちは、エリザベータ様。久々にお会いできて嬉しいです!」
ニコニコと嬉しそうに話す聖女は嘘をついているように見えない。私に対する純粋な好意が伝わってきた。
聖女は年末の式典の準備に追われ、忙しい日々を送っているらしい。いつものように明るい彼女の顔からは、微かな疲れが滲み出ていた。
「聖女様、最近お忙しそうですが大丈夫ですか?」
彼女は警戒すべき相手であるが、何故か放っておけない。
どうして私は、彼女のことをこんなにも心配しているのだろう。脳裏に「またお前は…!」と憤慨している殿下の顔が浮かび上がった。私はそれを手で払い除ける。
「大丈夫ですよ!心配して下さって、ありがとうございます。やっと式典の準備が落ち着いてきたので、こうして学校にも来ることが出来ました。」
「それなら、良かったです。」
元気そうな聖女に、私は安堵の息を漏らした。
彼女にもしものことがあったら、私は…
「ベティ嬢、お疲れ様です。もしよろしかったら、ご一緒にいかかですか?」
にこやかに義弟は聖女をお茶に誘う。他の人を誘うだなんて、義弟にしては珍しい。
「え、良いんですか?」
義弟のお誘いに聖女は窺うように、私と義弟を交互に見た。
「えぇ、構わないですよ。」
これで聖女の疲れが少しでも取れればと、私は頷いてみせた。それを見た聖女はまるで花が咲いたように可愛らしい笑みを浮かべ「ありがとうございます!」と言いながら、私の隣に座る。
「エリザベータ様と一緒にお茶が出来るだなんて、すごく嬉しいです!」
「ぐっ…。」
手を組み、こちらを上目遣いで見つめる聖女の可愛らしさに心臓を撃ち抜かれた私は思わず胸を押さえる。
「ユリウス様も、ありがとうございます。なんだか、いつも気を使ってくださって…」
「気にしないで下さい。今、ベティ嬢のお茶をいれますね。」
「はい、お願いします。」
義弟と聖女の穏やかなやり取りから、言葉では言い表せないような親密さが窺えた。ただの顔見知りでは無さそうだ。
「お2人には交流がおありで?」
「えぇ、僕たちはクラスが一緒なんです。」
「あら、そうだったの。」
それは初耳だ。
「私、突然聖女に目覚めたせいで、全く魔法の知識が無かったのですが…ユリウス様が色々と教えてくださっているので、何とかやっていけているんです。」
「僕は何も…。全てベティ嬢の努力の賜物です。」
「そんなことないですよ。ユリウス様には本当に助けられていて…」
「ふふ、聖女様のお力になれているのであれば、光栄ですね。…お待たせしました、カモミールティーです。」
「わー!ありがとうございます!」
「熱いので気を付けてくださいね。」
「はい!」
2人の穏やかな雰囲気の中に、私は入ることが出来なかった。2人の邪魔をしてはいけないと、理性が訴えている。
義弟がクラスメイトと親交を深めていることは、姉としてとても喜ばしいことだ。
「…。」
心に何か嫌なものが渦巻いている。
どろどろどしたものがお腹に蓄積し、聖女に向いているその真摯な視線を私に戻したくて堪らなくなった。
何故、こんなにも胸がザワつくのだろう。
―この感覚は…、〝あの時〟と一緒だわ。
「…うっ!?ゴホッ、」
カモミールティーを飲んだ聖女が突然、噎せはじめた。
「だ、大丈夫ですか?」
気管にでも入ったのだろうか。私は慌てて聖女の背中を摩る。たが、聖女の顔はみるみる青くなり、呼吸が浅くなっていった。
焦った頭で医者を呼ぼうと立ち上がろうとしたが、先に聖女が立ち上がった。
「ご、ごめんなさい!私、ハーブティーが苦手だったみたいで…!その、えっと、失礼します…!」
涙目になっている聖女は口を押さえながら、植物園を走り去った。
思わず唖然と見送ってしまったが、あの様子は尋常ではない。
「ユーリ。私、聖女様を追いかけてくるわ!」
彼女をあのままにしておけない。
私は芝生から立ち上がり、彼女を追いかけようとしたが、義弟に手を掴まれてしまった。
「ちょっと、手を離して。早く追いかけないと…」
「僕が追いかけますよ。」
「…え?」
その思いがけない言葉に思わずキョトンと義弟を見つめる。
「僕が入れたカモミールティーですしね。ベティ嬢のことは、僕に任せてください。」
私を安心させるかのように微笑んでから義弟は、聖女を追いかけていった。
私は芝生にペタンと座り込む。
無意識に伸ばしていた手を引っ込めて、俯いた。
あぁ、まただ。黒い靄のようなものが心中を蠢いている。義弟が私よりも聖女を優先したから?これでは、まるで……
次の授業が始まるまでギリギリ待ったが、義弟は植物園に戻ってくることは無かった。




