209話
馬小屋に現れた男の名は、フリッツ=フェルシュング。
かつて僕を馬小屋に放り込んだあの伯爵であった。
フリッツは馬に埋もれていた僕の腕を乱暴に引っ張り上げ、そのままズルズルと雪の上を引き摺って伯爵邸へと連れ帰った。
雪に晒されて続けていた足は既に感覚を失っていた。だから、廊下の床から飛び出していた釘や木片が皮膚を裂いても、痛みはただ鈍く、遠かった。
ドタドタとした足取りで連れて行かれたのは、冷えきった浴室だった。石造りの浴室は外のように寒く、息をするたびに白い吐息が宙に溶けた。
フリッツはその冷たい床に僕の体を乱暴に放り投げた。
悲鳴を上げる暇もなく、フリッツは辛うじて身にまとっていたボロきれのような服を剥ぎ取り、そして桶に張られた冷水を容赦なく僕に浴びせ始めた。
氷の刃で全身を貫かれたようだった。肺が締め付けられ、心臓が止まりそうになる。だが、そんな僕のことなどお構いなしに、今度は手にしたデッキブラシで僕の身体を擦り始めた。
「くっそ……馬糞の臭いがこびりついていやがる。」
苛立った様子のフリッツは、何かの洗剤のような液体を僕の身体に浴びせ、さらに強くブラシで肌を擦った。
「ったく、手間かけさせやがって……!」
硬い毛が身体の上を往復するたび、弱った肌が悲鳴をあげた。目や傷口に洗剤が入り、激痛が走る。
果てしない拷問のような時間は、ようやく終わりをむかえた。
汗だくで僕を洗い終えたフリッツは、濡れ雑巾のような僕の身体を脱衣場へと放り投げた。
ぐしゃりと床に倒れた視界の端に、誰かの足が映った。
「そんな乱暴になさらないで、伯爵様。これ以上痣が増えたら、商品にならないでしょう?」
「おぉ、すまんすまん。ガリーナ。」
その名に、思わず顔を上げた。そこにいたのは、タオルを手にした一人の女――ガリーナ=フェルシュング、僕の実の母だった。
ガリーナは僕の姿を見下ろしながら、どこか卑しげな笑みを浮かべていた。
「あら、思っていたより整った顔をしているじゃない」
そう言って、僕の身体をタオルで吹き始めたガリーナは、僕の耳元にそっと顔を寄せた。
「あの人に、よく似てる。」
その囁きはフリッツには届かなかった。
僕から顔を離し、ガリーナはうっそりと微笑む。
僕の瞳のさらに奥を見つめているような眼差しに、ぞくりと背筋が震えた。
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身体を乱暴に清められた後、ガリーナの手によって僕は真っ白なドレスを着させられた。
「昔ペティーナが着ていたドレスがピッタリだわ。」
絡まり、汚れてバラバラだった髪の毛を肩ぐらいに切り揃えたガリーナは僕をひとりがけの椅子に座られた。
目の前には鏡。
そこに映っていたのは、やせ細って虚ろな目をした一体の人形だった。
知らない誰かの顔。
この時、僕は初めて自分の顔を見た。
着飾った僕を、フリッツとガリーナは満足げに見下ろしていた。そして手にしていたパンの欠片と水を無理やり僕の口に押し込み、「これで十分だろう」と言わんばかりの態度で部屋を後にした。
先ほどまでの時間は、ただただ押し寄せる出来事に身を任せることで精一杯だった。抗う余地も、考える隙もなかった。ただ、されるがまま。
だが、静寂が訪れたことで、ようやく思考が自分の中に戻ってきた。すると、途端にあらゆる疑問と恐怖が堰を切ったように胸の奥から湧き上がってきた。
――これは、何だ?
――なぜ、こんな格好を……なぜ、こんな目に?
――あの二人の目的は...?
どれも答えの見つからない問いばかり。
狭い世界しか知らない頭の中は混乱しきっていた。
そのときだった。
ギィ――と、鉄の軋むような音が静寂を引き裂いた。
その音とともに現れたのは、分厚い脂肪に覆われた見知らぬ男だった。
巨体がぬっと狭い部屋に入り込み、その背後で扉がバタン、と重たく閉まる音が響いた。
口元に気味の悪い笑みを浮かべ、顔面を脂で光らせた男は僕を見た瞬間、目を見開いた。
まるで獲物を見つけた猛獣のように、男は息を荒くしながら、うっとりとした声を漏らした。
「あぁ、なんて可愛らしい……まるで天使だぁ……」
その声には、飢えたような欲望の渇きが滲んでいた。
男は脂肪に埋もれた目を爛々と輝かせながら、獲物に狙いを定めるように、まるまると肥えた芋虫のような指を僕の頬にゆっくり伸ばした。
冷たい恐怖が、喉の奥に貼りついた。
動けない。
声も出せない。
僕は―――
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窓の外では、弱まった雪がしんしんと降り続けていた。
外は音のない白い世界が広がっているのだろうか。
そんな事を考えながら、飽きずにずっと馬小屋の小窓から雪を眺めていた少年に、僕はこう言った。
「外の世界も馬小屋と同じ灰色の世界だったよ。」
揺れる視界の中、鏡の中の人形が、助けを求めるように僕をじっと見続けていた。




