208話
・ここまで読んでくださってありがとうございます!
・11章は基本的にユリウス視点で物語が進みます。
・この章はネタバレを大いに含みます。
・予告なしに残酷描写が出てきますので、苦手な方はご注意下さい。
■■は呪いだ。
腐った林檎が樽の中の全ての林檎を腐らせるように、■■は周囲を腐らせる。
そんな腐敗した樽の中に僕は生まれ落ちた。
❖❖❖❖❖
物心ついたときから、僕は馬小屋の中にいた。
いつからそこに居たかは分からない。
ただ湿った干し草の中で、馬と共に寝て起きるだけの灰色の日々を送っていた。
―――灰色の日々。
それは決して比喩ではない。
馬も、干し草も、自分の肌さえも。
目に映るもの全てが灰色で、影の濃淡だけが僕にモノの形を教えてくれていた。
そんな世界でも雪の日だけは少し特別だった。
灰色の世界に突然降ってきた白い結晶。
それが心底不思議で、馬小屋の小さい窓からその静かな光景を、僕は干し草の中から飽きもせずに見上げていた。
馬小屋の外は音のない白い世界が広がっているのだろうか。
灰色の世界しか知らない僕にとって、そこは手が届かない神聖な場所のように思えた。
「おう、馬ども。餌の時間だ。」
この馬小屋には時折、年老いた馬丁がやってきた。
馬丁は来るたびに酒の匂いを纏わせながら馬の世話をしていた。
そして気まぐれに、僕にも餌を投げる。腐った人参、芽の出たジャガイモ、石のように固い黒パン。この時の僕にとって、くれるもの全てがご馳走だった。
「まるでネズミか何かだな。」
食べ物に噛り付く僕を見て馬丁は薄ら笑う。
「半分貴族の血が流れていても、その扱いは平民以下ってきたもんだ。」
唾を飛ばしながら馬丁は「ガハハハッ」と心底愉快そうに笑った。
この馬丁は醜聞好きで実におしゃべりな男だった。
だがそのおかげで、僕は馬小屋に居ながらも自分の出生のことだけは何とか理解できていた。
僕の母親、ガリーナ=フェルシュングは伯爵夫人だった。
夫である年の離れた伯爵から寵愛を受け、幼い娘が居るにも関わらず、ガリーナはとある男に熱を上げていた。
その男というのが、旅劇団の名も無き若手役者であった。
馬丁いわく、男でも見惚れてしまうほどの美青年だったらしい。
役者の顔を大変気に入ったガリーナは、役者が出演する舞台に足繁く通い、いつしか男の愛の台詞は全て自分に向けられたものだと思い込むまでになった。
やがて、ガリーナの情熱は、誰の目にも明らかなものとなった。
彼女は伯爵夫人という立場をわきまえることなく、舞台のたびに最前列に席を取り、芝居が終わると役者のもとへ花束を届けに裏口へと急いだ。
そんな彼女の行動を周囲はもちろん噂していた。伯爵家の使用人たち、劇団の座員たち、そして貴族社会の夫人たちまでもが、彼女の「愚かな恋」について囁き合っていた。しかし、当のガリーナ本人は意に介さなかった。むしろ、その噂さえも彼との「愛の障害」として甘美に受け入れていた。
役者は貴族の夫人から向けられる情熱に戸惑いながらも、内心では冷静だった。こうしたことは、これが初めてではなかったからだ。
自分は旅劇団――いずれこの帝都を発ち、次の土地へ向かう。
帝都を離れれば、あの伯爵夫人も現実に気づき、夢から醒めるだろう。
そう考えた彼は、特に干渉もせず、婦人の熱い視線を受けながら淡々と舞台に立ち続けていた。
そして、最終公演が終わり、旅劇団が翌日に出発を控えていた日の晩――事件は起きた。
役者を自分のものにしようとしたガリーナが、劇団のテントに忍び込み、眠る役者に薬を盛って無理やり関係を持ってしまったのだ。
そして、その一夜の過ちよって生まれ落ちたのが僕だった。
伯爵は、生まれたばかりの僕の顔を見て、怒り狂った。
「なんだ、この目の色は……!!」
僕の瞳は、伯爵とガリーナが持つ琥珀色ではなく、ここら辺ではあまり見かけない、あの役者と同じシトリンの色をしていたからだ。
伯爵はすぐに、妻が裏切ったことを察した。しかし、ガリーナは涙を流しながらこう言い放った。
「酔った役者に、無理やり襲われたのです……」
それはあまりにも稚拙で見え透いた嘘だった。だが、ガリーナを盲目的に愛していた伯爵だけはそれを信じた。
緩やかなミルクティー色の髪とおっとりとした垂れ目のガリーナは、可憐さと妖艶さを併せ持った美女だった。その見た目とは裏腹に、望むものを手に入れるためには平然と嘘も涙も操る毒婦だということを、伯爵は知らなかったのだ。
ガリーナが涙ながらに語った壮大な物語をすっかり信じ込んだ伯爵は、帝都を発っていた役者を捕え、罪人たちを収監する地下牢へ送り込んだ。
「私は襲ってなどいない!逆だ!私が襲われたのだ!」
無実を訴える役者に、伯爵は自分が抱えていたいくつかの罪を擦り付け、役者を死刑まで追い込んだ。
ガリーナだけでなく伯爵も立派な悪人だったのだ。
それから伯爵に存在を認められなかった僕は伯爵家の片隅にあった馬小屋へ放り込まれた。
名前も、戸籍も与えられぬまま。人として生まれてこなかったかのように。
「今年の冬は大寒波ってやつが来るらしいぞ。今年こそは死ぬかもな、お前。」
酒臭い息を吐きながら、馬丁はそんな言葉を残し、よろめく足取りで馬小屋を去っていった。
背を向けたその姿は、どこか影のように頼りなく、寒空の下へ溶け込むようだった。
それきり、馬丁がこの馬小屋に戻ってくることはなかった。
❖❖❖❖❖
あの馬丁が言ってた通り、厳しい冬がやってきた。
ちらついていた雪はすぐに本格的な吹雪へと変わり、風は荒れ狂いながら馬小屋の壁の隙間を突き破って、氷のような冷気が雪とともに吹き込んできた。
その冷たさはまるで鉄の爪のように肌を裂き、干し草の中で丸くなって身を縮めるだけでは、とても防げるものではなかった。それは馬たちも同じだった。僕は身を寄せ合う馬たちのあいだに身体を押し込み、じっと熱を分けてもらっていた。
だが、そんな日々も長くは続かなかった。
飲まず食わずで弱り切った馬たちは、一頭、また一頭と静かに冷たくなっていき――
とうとう、生きているのは僕ひとりになった。
雪に濡れて冷たくなった干し草と冷たい馬の死体に囲まれ、まるで、生きたまま雪の底に埋められていくようだった。
それでも僕は、耐えるしかなかった。
僕は何としてでも生きなければならない。
その気力だけが僕の生命を世界に繋ぎ止めていた。
「おぉい!生きてるかぁ!」
外から、誰かの怒鳴るような声がした。
意識は薄靄の中に沈み、まぶたは氷の膜でも張ったように重たかったが、それでもどうにかこじ開けた。
視界の端で、雪を踏みしめる足音が近づいてくる。
ずんぐりとした影がこちらを覗き込み、ぼんやりとした輪郭が徐々に焦点を結ぶ。
質のいいコートを身にまとった、でっぷりと太った中年の男――
その男は白い息を吐きながら、馬の死体に半ば埋もれた僕を見下ろし、満足げにうなずいた。
「おぉ、生きてたか。やはり私は運がいい。」
そう言って、唇の端をぬらりと持ち上げ男は小さな瞳を細め、卑しい笑みを浮かべた。
外の雪は人間の都合などお構い無しに吹き荒れる。
何もかもが白に塗り潰されていく中、その笑みだけが、どうしようもなく穢れて見えた。




