192話
テオドールside
「その威勢がどこまで続くのか試してやろうか?」
「…」
聖女は鮮血に濡れた口元を舌なめずりしながら、傷口を押さえ横たわる俺の身体に手を伸ばす。
「まずは右腕、次に左足、右足…あはっ、胴体は勿体ないから少しずつ削っていこう。」
まるで誕生日プレゼントを開封する前の子供のような表情を浮かべた聖女は、俺の右腕を力強く握った。
「今度はゆっくり引き裂いて…」
「お前の悪いところは、勝利を確信するとすぐに調子に乗ることだな。」
「は?」
「俺と一緒だ。」
「はっ、んなわけ…」
俺は鼻で笑っている聖女の腕を、手負いの獣が最後の力を振り絞って狩人に一矢報いるが如く、真っ赤に濡れた左手でしっかりと掴んだ。すぐさま振りほどこうとする聖女の腕に両足を絡め、しっかりと固定する。
「エリザの所に行きたいんだろ?俺が連れてってやるよ。」
目を見開く聖女に、にやりと笑いかけた俺は、残りカスのような魔力を搔き集め、辛うじて残っていた足場を破壊した。
「くそっ、離せっ!死にぞこない害虫野郎!!」
「ははっ、例え世界が滅んでもこの手だけは離さねーぜ!ムカデちゃん!」
「口説き文句みてーなこと言ってんじゃねーぞクソガキャアアアアアアアア!!!」
あとは重力と自分の悪運に任せよう。
聖女の叫び声と共に、俺たちは奈落に吸い込まれていった。
エリザベータside
ゴオオオオオッと風を切りながら、私とユリウスは恐ろしい速さで奈落の底へ落ちていく。
黒い奈落の底から吹き上げる冷たく湿った風が容赦なく顔面を殴り、ほとんど息ができない。
すぐにでも気を失ってしまいそうな悪夢のような現実であるが、私はしっかり意識を保っていた。
私の身体を抱きしめるユリウスが耳元で何か叫んでいる。けれど風の音が大きすぎて上手く聞き取れない。だが、何となく彼が言いたいことは分かった。おそらく彼は「やめろ」と言っているのだろう。私が魔法を使おうとしていることを。
前世でも今世でも魔力を持たずに生まれてきた私には、魔法の使い方なんて分からない。けれど、ユリウスが私に忍ばせた青の魔力は、いつも私の強い意志に反応してくれていた。そして、今も私の意思に応えるかのように、全身を巡る血液がグツグツと熱く脈打ち始めている。
あと少し、あと少しなのだ。
口の中で鉄の味がじわりと広がり、鼻からは生暖かい液体が零れる。どこかの血管が切れてしまったのだろうか。何だが目の奥が熱くなってきた。
ふと、カモミールの少女の言葉を思い出す。あの時、彼女はこう言っていた。『魔力保持者と非魔力保持者とでは、そもそも身体のつくりが違うの。非魔力保持者が魔法を使えば、必ず強烈な反動を受けるわ。』と。
きっとこれが強烈な反動というものなのだろう。リスクなくして成功なし。これが世界の理だ。
お願い。もう少し耐えて。本当にあと少しなの。
切に願いながら、奈落の底に手を伸ばす。
けれど私の願いを聞き入れてくれる者は存在しない。彼が言ってしまったから。この世界に神様は居ない、と。ならば、私は誰に願えば良いのだろうか?
何だか急激に心細くなってしまった。それがいけなかった。
私の心と同調するかのように、荒々しく燃えていた青の魔力の勢いが衰えはじめる。
だめ…だめ…!!!
焦る気持ちとは裏腹に、どんどん魔力の気配が消えていく。
待って、行かないで。
縋るように手を必死に伸ばす。しかし、そんな手を制するかのように、冷たい手が重なった。
はっと視線を横に向ければ、ユリウスのシトリンの瞳と目が合う。そして、彼は私を安心させるような眼差しを向けながら、口を動かした。相変わらず風の音が大きすぎて、言葉を拾うことはできない。けれど口の形で理解した。理解してガツンと頭を殴られたような感覚を覚えた。何故そんな…「もうやめよう。」だなんて。まだ生きているのにどうして諦めてしまうのだろうか。私は泣き出す寸前の子供のように首を小さく横に振る。するとユリウスは小さく笑って、また口を動かした。
その言葉を理解する前に、突然、なんの前触れもなく。
みぞおち周辺に締め付けられるような打撃を受けた。
「ぐぇあっ!?」
ドォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
まるで天が落ちてきたかと思うほどの轟音がすぐ近くから響いたのと当時に、口から…気持ち的には胃から淑女らしからぬ呻き声が漏れ出た。
私は思わず両手で口元を覆った。
口から何も出ていない?粗相していない??あら?なんで動けているの??
打撃を受けたのは腹部のみ。その腹部も多少痛むが死ぬほどではない。あと少し苦しい。
私は固く閉じた瞼を恐るおそる持ち上げた。ぼんやりとした視界が徐々に鮮明になってくる。私の視界に写るのは土埃が舞う黒い地面と、地面から約数センチ浮いている自身の両足と…自分の倍はあるだろう巨人のような誰かの足。視界から入り込む情報の処理を脳が拒み、私はただパチパチと瞬きをすることしかできなかった。
「…ケホッ…。姉上。先程も言いましたが、この世界に神様は存在しません。」
隣からユリウスの声が聞こえ、私ははっとそちらに首を回した。視線の先には、やや苦しそうな表情ではあるが、五体満足のユリウスの姿が。…だが何だか不思議な体勢をしている。腹部には太い筋肉の塊のような腕が回されており、足は宙ぶらりん。…。私と同じ大勢だ。
「ですが貴女を救ってくれる人は居るんですよ。例えばーーー彼女のように。」
彼女?
そう思って、ふと気付く。
私とユリウスを脇に抱えるようにして巻き付いている筋肉の塊のような太い腕と、葉巻のように太い指。そして何処かで嗅いだことのある女物の香水…
まさか…
顔を見上げ、視界に飛び込んできた人物に目を見開いた。
「…5分遅刻ですよ。ビアンコ=ベック卿」
そうユリウスに呼ばれた彼女は、バチン☆と音が聞こえそうなほど力強くウインクした。
「いい女は遅れてくるものなのよ。ミルクちゃん♡」
相変わらず立派な胸筋を惜しげも無く晒した、奇抜な騎士服を身にまとった筋肉の塊のような金髪の…女性。
その月明かりに照らされた姿は紛れもなく、私がよく知るビアンカであった。




