190話
エリザベータside
聖女の頭から流れ出る青い液体は頬を伝い、ぽたりと地面に落ちる。鬱陶しそうに額を服の袖で拭った聖女は、その青く染まる袖を見て「あぁ、これのことですか。」と言って、クスリと笑った。
「これは私が聖女になる際に、神様から頂いた神様の血液です。」
先程まで取り乱していた姿が嘘のように、聖女はうっとりとした表情で青く染まった自身の袖に頬ずりをした。
「ふふふ…美しいでしょう?皆さんの穢れた赤い血と違って。この高潔の色は、私が神様に愛されている証拠なんです。」
恍惚の表情を浮かべながら、白い頬に青い液体を擦り付ける聖女の姿に、私はもう何度目か分からない狂気を感じ、乗り物酔いにも似た悪心を覚えた。
「ユリウス様ったら、私の血液が赤じゃなくて青だから死んでると思ったんですよね。その考えは分からなくはないのですが、些か安直では?」
再び聖女は笑い声を上げた。彼女の声は広い聖堂の壁に反響し、何重にも重なって皆の耳にこだまする。まるで、無数の聖女に周囲をぐるりと囲まれているようだ。
「うふふ、あはは、クスクス…」「うふふ、あはは、クスクス…」「うふふ、あはは、クスクス…」
終わりの見えない聖女の笑い声に気が狂いそうになる。その証拠に段々と目の前の視野が狭くなり、足元もおぼつかなくなってきた。気持ち悪い。一瞬でも気を抜けば、そのまま昏倒してしまいそうだ。だが、ここで倒れるわけにはいかない。
よろけそうになる身体を必死に踏ん張っていると、不意に右腕を掴まれた。
反射的にハッと顔を上げると、私の腕を掴むユリウスのサファイア瞳と目が合う。
急にどうしたのだろうか。彼の行動の意図が分からず困惑する中、ふと気付く。
先程まで感じていた吐き気などの不調が、綺麗さっぱり消えている。
そして、私はこの感覚に覚えがあった。一度や二度ではない。何度も何度も…。
するりと私の腕から手を離したユリウスは、静かに瞼を閉じた。そして、ほんの一瞬、何かに耐えるかのように眉をしかめる。例えば…そう。先程まで私が感じていたような吐き気を堪えるかのように。
この人は…
私の中でわだかまっていたモノが確信に変わったその時、突如鳴り響いた「パンッ!」という破裂音が私の思考、聖女の笑い声、全てのモノを遮った。
「茶番はここまでだ。」
やれやれと呆れたような声でそう言ったのは殿下だ。そして先程の破裂音は、彼が両手を打ち鳴らした音だった。
「おい、クソベルト。もういいだろ。」
「…。」
もう…?
殿下の言葉にゆっくりと瞼を上げたユリウスは、その長い睫毛の隙間からシトリンの瞳を覗かせた。
「…そうですね。」
ぽつりと独り言のように呟いたユリウスは、懐に手を入れ、そこから手の平サイズの透明な瓶を取り出した。
「この世界に神様は存在しません。」
無機質な声でそう告げるユリウスは手にした瓶を聖女に突き出す。私はその瓶の中で蠢くものを見て、悲鳴を呑み込んだ。初めて見るものではない。外で見かけるたびに、あの無数の足で地面を這う不気味な姿に慄いていた。だが、あのような…目が覚めるようなピンクは初めて見る。
「貴女が神様と呼んでいるものの正体は、この”女王ムカデ”。そして、聖女という存在はこのムカデに寄生された哀れな屍。これが、この世界の真実です。」
ユリウスの言葉に、聖堂内は沈黙の世界に包まれた。
神様が…ムカデ?寄生?屍?これが、真実?
ユリウスの言葉を上手く呑み込めない。何とか必死に呑み込もうとしても、脳が理解することを拒絶する。
だって、あり得ないじゃないか。手の平ほどの大きさの1匹の虫が、人を支配し、世界に戦争を招いただなんて。
瓶の中で元気に蠢く1匹の桃色ムカデに眩暈を覚える。
納得いく答えを求めて、私は殿下を見た。しかし彼は何も答えず、ただ黙って聞いてろと言わんばかりに、ユリウスに向かって顎をしゃくってみせる。
「この毒々しい彩色が特徴の女王ムカデは、温暖な気候のデューデン国に生息するムカデの一種です。世界最古の肉食動物といわれ、警戒心が強く人前には滅多に現れません。昔からデューデン国では媚薬の材料として用いられておりまして、少量であれば問題ないのですが多量に摂取してしまうと脳がやられて廃人と化し、最終的には死に至ります。」
淡々と、けれど口元に笑みを浮かべ、こんな話を何処か楽し気に語るユリウスに、私は驚愕を通り越して恐怖に近い感情を抱く。ユリウスと同様にすべてを知っているのであろう殿下は静かにユリウスの話に耳を傾けていた。
「また、このムカデは寒さに弱く雪国のノルデンでは、この保温魔法がかけられた瓶の中でしか生きることができません。ーーですが、面白いことに、このノルデンでも瓶の中以外に生息できる場所があるんです。」
ユリウスは瓶を持っていない方の手で、自身の頭を指差した。
「女王ムカデは、人間の体内でならノルデンでも生きることができます。そして、ここ。脳に寄生し、宿主を操るのです。今の貴女のように。」
「違うっ!!!」
聖女は金切り声を上げた。両手で頭部のストロベリーブロンドの髪をくしゃりと握り、ユリウスを鬼の形相で睨みつける。だがユリウスは、そんな聖女のことなど見えていないかのように言葉を紡ぎ続けた。
「人に寄生した女王ムカデは、宿主の体内に大量の卵を産み付け孵化させます。そして、宿主の細胞を貪って成長した微生物ほどの大きさの子供たちを、新たな宿主の元に移します。」
ユリウスは、ぐるりと見渡し、にこりと場違いな笑みを浮かべた。
「ここに集まった全員が、ムカデに寄生されているんですよ。」
再び訪れた沈黙。
だがすぐに小さな戸惑いが生まれ、その戸惑いは伝染するかのように広がり、聖堂は瞬く間に混乱の渦に陥った。
いたるところから叫び声が上がり、それぞれが体内のムカデを取り出そうと頭を振ったり、床に打ち付けたり、吐き出そうと口の中に指を突っ込んでえずいている。
眼前に広がる地獄絵図のような光景に、私はただ固まっていることしかできなかった。
「皆様の体内に入り込んだ女王ムカデの子供は精神に干渉し、催淫作用…魅了効果のような作用をもたらします。あぁ、ですが安心してください。女王ムカデと違って子供ムカデは卵を産み付けることはできません。なので細胞を食い尽くされ、聖女のように屍になる心配もありませんよ。ハーブなどで調合した虫下しの薬を飲めば、すぐに体内のムカデを除去することができるでーーー」
「それ以上神様を侮辱しないでください!」
聖女の怒りの叫びがユリウスの言葉を遮り、聖堂の混乱もピタリと鎮めた。
「先程から黙って聞いていればデタラメなことばっかり。全部、ユリウスの妄想話じゃないですか!私は寄生なんかされていません!!支配もされていません!!全ては神様の導きで、私の意思です!!!」
聖女はキッとユリウスを睨みつけた。その姿なのかはたまた言葉なのか、聖女の存在に反応した人々は、かちりとスイッチでも押したかのように戸惑いを消し去り、元の盲信者に戻った。そして、彼らは聖女を援護するような声を上げる。その声に殿下はやれやれと溜息を吐き、ユリウスは小さく肩をすくめてみせた。飛び交う野次の中、ユリウスは再び口を開く。
「残念ながら、妄想話ではありませんよ。女王ムカデの寄生虫説は僕の友人が実験マウスで実証してくれました。あとは、貴女の血液と女王ムカデの血液データが合致すれば、僕たちがたてた仮説が成り立ちます。」
そう言ってユリウスは、聖女に向かって手にしたムカデ入りの瓶を軽く振り、目を眇めてみせた。
「この女王ムカデの血液も貴女と同じ、目が覚めるような青色なんですよ。」
「ーーーー」
ピンクダイアモンドの瞳を大きく見開いた聖女は、糸が切れた操り人形のようにガクンと俯いた。腕も力が抜けたかのようにだらんと肩から落ちている。あんなにも騒がしかった野次も、いつの間にか止んでいた。
「…世界にとって貴女は毒です。今後、貴女のような存在が生まれないよう僕はーー」
「そレ、お母サンに言われたノ?」
突然、聖女の口調がやや幼げな舌っ足らずなものに変わった。それに何故か得体の知れない不気味さを感じ、背筋に悪寒が走る。
「お母さん、だ…?」
殿下が訝しげに呟くと、聖女は「そウ!」と言って、勢いよく顔を上げた。
「コノ世界ノことだヨ!」
ピンクダイアモンドの瞳を爛々と輝かせ、不気味な笑みを浮かべる聖女を前に、私たちは言葉を失った。
聖女…いや、彼女は本当に聖女ベティなのだろうか。確かに先程までの聖女もコロコロと口調と情緒が変わっていたが、目の前に居る聖女は明らかに様子がおかしい。まるで別の人格にでも入れ替わっているような…
「クソ聖女。なにふざけたことを言っているんだ?」
「黙レ。出来損ナイの残りカス。」
「残りカス…だと?」
額に青筋を立て身を乗り出す殿下を、ユリウスが片手で制する。
「貴女は一体…」
「お母サン、お母サン、おかあサン!!!」
聖女はぽっかりと開いた天井に向かって両手を広げ、母を呼ぶ。
「ワタシ、毒じゃナイよ!!コンなに強クなったンダヨ!お母サンの失敗作、外デいっぱい、いっぽい、死んでるヨ!ワタシ、凄いデショ?ワタシ、やっぱり強いデショ?失敗作に無様に喰わレタ出来損ナイのアイツとは、違うデショ?ワタシが、1番、デショ?ねェ、お母サン…ワタシの声、聞こえているんでショ?ねェ、無視しないデ、お母サンお母サンお母サンおかあサン!!!…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あァ、そうカ。」
まるで子供のように地団駄を踏んでいた聖女は、生きている人間ではあり得ないぐらいグルリと首を回し、私たちを見てにんまりと笑ってみせた。
「失敗作がマダこんなにいっぱい居ルから、ワタシを見つけるコトが出来ないんダネ。」
その言葉の意味を理解する間もなく、聖女は足元に転がっていた自分の身長の何倍もある巨大なパイプを易々と持ち上げた。あんぐりと口を開けた私たちはの身体は、聖女がパイプを持ち上げた際に生まれた暴風に煽られ、よろける。
「おいおいおいおい!んだよ、あの怪力は!アイツ、ゴリラにでも育てられたのかよ!!」
「本来の生きている人間であれば力を出す際、筋骨を痛めたいよう本能的に脳の抑制作用が働きーー」
「あーっ長い長い!つまり何だって!?」
「今の彼女はリミッターが解除された怪力の化け物です。」
「つまりゴリラじゃねーか!」
「みんな、死ンじゃエ。」
聖女は持ち上げたパイプを思いっきり地面に叩きつけた。
ドカンッ!!と耳をつんざく轟音とともに、ガラガラと地面が崩れ、奈落へと続く巨大な穴が出現する。
あっと思った時には既に足場は崩れており、私の身体は奈落に投げ出されていた。視界いっぱい広がる底の見えない闇と、全身に受ける風の抵抗、内臓が浮き上がるような浮遊感。
「絶対に助からない。」本能でそう悟った瞬間、ぐいっと右手首が何かに引き寄せられた。ハッとそちらを見れば、まだぎりぎり崩れていない足場に居るユリウスが。彼の名を呼び暇もなく、私の身体は繋いだ手を軸に半回転した。視界がぐるりと回り、浮遊していた足が地面を捉える。そして、ズザザッと滑るようにして地面に膝をついた私は、ハッと顔を上げて固まった。
ナ ゼ ア ナ タ ガ ソ コ ニ
足場に居たはずのユリウスの身体が、奈落に投げ出されていた。先程、彼が私の身体を引き寄せた際、遠心力が働き、私と彼の位置が入れ替わってしまったのだ。一瞬で事態を把握した私の身体から血の気が引く。だが、ユリウスの方は何故か安堵してような表情を浮かべていてーーーーー
「ーーー姉上…?」
「…っ、」
間一髪。
私は奈落に吸い込まれるユリウスの左手を掴むことに成功した。
あとは引き上げるだけなのだが、これ以上腕が上がらない。彼の手を掴んでいることと、もう片方の腕で自身の身体を支えているだけで精一杯だ。
宙ぶらりんな状態のユリウスは「どうして…」と呟き、大きく見開いたシトリンの瞳に私を映した。
「反射的なものに理由を求められても困るわ。」
「そ、そうですよね……あ、いや、そうではなく。姉上、手を放してください。このままでは貴女も…」
「そんなこと言える暇があるなら、魔法でもなんでも使って、早くそこから上がってきなさいよ…!」
「魔法は…先程の魔法で、魔力がほとんど残っていないんです。」
「無駄にかっこつけて登場するからよ!このお馬鹿…!」
「…すみません。」
こんな実のない話をしている間にも、私の限界は着々と近づいている。
私はギリッと唇を嚙み締めた。
「…姉上、そろそろ手を…」
「黙って。」
「……。」
ユリウスは何やら考え込むかのように視線を伏せた後、懐に手を差し込んだ。またムカデの入った瓶を取り出すのかと身構えたが、意外なことに彼が取り出したものはなんの変哲もない万年筆だった。
「すみません。」
ポツリと謝罪を呟いたユリウスは親指でカバーを外し、そのまま躊躇なく鋭い万年筆の先端を私の手の甲に突き刺した。
ぐさりと鋭い痛みが手の甲を襲うのと同時に、私は思い出す。
それ私が贈った万年筆じゃない…!と。
テオドールside
「いててて…あんの怪力ゴリラ。」
奈落に落ちた俺は、奈落の壁に沿うようして作られていた螺旋階段に運良く掴まることができた。この大聖堂の下に地下墓所あるとは聞いていたが、まさかこんなにも底が見えないくらいに深く掘っていたとは。
俺は階段に這い上がり、状況確認の為、辺りを見渡した。数名は俺と同じように階段に居るが、その他大勢は…。俺は奈落の底を見て、やるせない気持ちになる。
「エリザベータ様っ!」
その声にハッとし前方を見れば、地上に向かって走る聖女の後ろ姿が。そしてその先には宙に投げ出されたクソベルトと、それを引き上げようとするエリザベータの姿が見えた。
「あのバカッ。」
俺は階段を駆けだした。
クソベルトなんか奈落に放り投げてしまえばいいものの。あのままでは二人仲良く奈落の底だ。
だが、まずは。
「止まれ、クソ聖女!」
10段ほど先に居る聖女に俺は叫んだ。聖女はピタリと止まり、まるで汚物でも見るかのような視線で俺を見下ろす。3段飛ばしで駆け上げれば、すぐに追いつけるだろう。だが、
「失せろ、クソガキ。」
低くどすの利いた声でそう言い放った聖女は片足を上げた。おいおいまさか…。俺の予想は的中。怪力馬鹿の聖女は階段に向かって足を踏み下ろし、石でできた階段を破壊した。
「馬鹿野郎!」
俺は走った。上から崩れてゆく階段を必死に走った。走ったというより階段から階段に飛んだ。魔力さえあれば、これぐらい余裕だというのに。日頃、自分がいかに魔力に頼っていたのかを痛感する。
崩れた階段を飛び越えながら聖女の前まで迫った俺は、その勢いのまま聖女に蹴りを入れた。だが、聖女は涼しい顔でそれを避ける。そして聖女は、地面に直地した俺目掛けて足を振り落とした。
「あっぶね!」
間一髪よける。だが、貴重な足場は犠牲となった。ほんの数秒反応が遅れていたら、自分もこの階段のように粉々になっていたかと思うとゾッとする。
「ちょこまかと…」
聖女は忌々しく舌打ちをする。どうやら猫を被ることを完全に放棄したらしい。いや、猫を被るぐらい余裕がないのかもしれない。だが先程の不気味な子供のような聖女より、こっちの方がやりやすい。なんとなく、行動パターンが読めるのだ。魔力がなくとも、時間稼ぎぐらいはできるだろう。
俺は露骨に不快感をあらわにしている聖女に向かって、不敵に笑って見せた。
「そう急ぐなよ。俺と遊ぼうぜ、ムカデちゃん。」
アイツらの元には行かせない。
エリザベータside
「……どうして、」
「……。」
「どうして手を離してくれないのですか…」
私の手の甲から溢れた鮮血が、ユリウスの白い頬にポタリと垂れる。
どうして、甲を突き立てられた私より彼の方が泣き出しそうな表情を浮かべているのだろうか。
「…前にも言ったでしょう。」
痛みを堪え、彼の手を強く握る。
「何でも貴方の思い通りになると思わないでって。」
「……、」
「絶対に離してあげない。」
そう言って鋭く睨みつけると、ユリウスは顔をくしゃりと歪めた。
泣きたいのはこっちだと言ってやりたい。けれど、言えるだけの体力はもう残っていない。ずるずると上半身が傾く。落ちまいと踏ん張ってみたが抵抗むなしく。
私とユリウスの身体は底が見えない奈落へ吸い込まれるかのように落ちていった。




