182話
「殿下!!」
聖女を突き飛ばし、椅子から転げ落ちた私は、祭壇の上に横たわる殿下の元に這いよった。
「殿下!殿下っ!!」
祭壇の上に身を乗り上げ、呼び声を上げながら殿下の身体を抱き起した瞬間、思わず息を吞む。
冷たい。
まるで一晩中雪の中にでも埋まっていたかのように、殿下の身体は冷え切っていた。
まさか…いや、そんなはずはない。
私は殿下の名を呼びながら、ぐったりとした身体を揺さぶった。だが彼は起きない。ピクリとも動かない。
今は寝ている場合じゃないのに、どうして起きてくれないのだろうか。
これではまるでしーーーー
「死んでいますよ。」
あっさりと肯定され、私の身体と口はぴたりと停止した。
殿下を胸に抱いたまま視線を上げれば、いつのまにか祭壇の前に来ていた聖女に、にこりと微笑みかけられた。それにつられて、私の口元には歪な笑みが浮かぶ。
「嘘でしょ…?」
情けない声で拒絶を放つ。聖女に「冗談ですよ。驚かせてごめんなさい。」と言ってほしくて。
けれど聖女は残酷だった。
「嘘じゃありませんよ。私がエリザベータ様に嘘をつくなんて、天地がひっくり返ってもあり得ません。」
満面の笑みで無邪気に告げられた言葉に、目の前が真っ暗になった。
そんな、馬鹿な。あり得ない。そう思うのに、五感で感じるもの全てが急激に遠ざかってゆく。
そう、これは悪い夢だ。私はまだ悪夢の中にいるんだ。でなければおかしい。だって殿下は言っていた「またな!」って。笑顔で。そんな彼が死ぬはずがない。あんな優しい人が死んでいいはずがない。だからこれは誰かのつまらない冗談だ出鱈目だ作り話だ妄想だ虚言だそんな趣味の悪い話なんてもう聞きたくない聞きたくない聞きたくないから誰か早く嘘だと言って冗談だよって笑って早くほら早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早くそうじゃないと私はーーーー
「さ、エリザベータ様。はやくソレを手放して下さい。」
…ソレ?
「血は乾いているようですが、そんなモノに触っていたら汚れてしまいますよ。」
モノ…?
じっと動かないままの私に痺れを切らしたのか、聖女は殿下の髪を鷲掴み、私から引き剝がそうとした。
まるで殿下を人としてではなくモノとして扱う聖女に、頭の中がかっと熱くなって―――
次の瞬間には、聖女の白い頬に思いっ切り平手打ちを放っていた。
パァンッ、と派手な音が聖堂の中に響き渡り、聖女の華奢な身体が大きくよろめく。その姿にフードを被った大勢の人々が息を吞み殺気立つが、今の私に気にしている余裕なんてなかった。
「エリザベータ様…?」
叩かれた頬に手を添え、呆然と見下ろしてくる聖女を鋭く睨み付ける。
「どうしてこんなことをしたのよ!!」
聖女として、いや。人としての道理を大きく外れた聖女に対しての敬語を殴り捨てた私は感情の赴くまま、怒声を上げた。聖女はびくりと肩を震わす。たいへん庇護欲を掻き立てられる仕草ではあるが、もう惑わされない。
「ど、どうしてって、私はエリザベータ様を為に…」
その言葉にカッと頭に血が上る。どいつもこいつも…
「私はこんなこと望んでいないわっ!!」
勝手に他人の気持ちを考えて、分かった気になって。そして自己陶酔な正義感を私に押し付ける。
私は“彼ら”の自己満足を満たす為の人形ではないのだ。
「どうしてそんなことを言うんですか…!」
酷く戸惑った様子の聖女は、信じられない面持ちで悲痛の声を上げた。
「だって、ソイツは300年前、エリザベータ様を散々苦しめて処刑した男ですよ!!どうして今更そんな奴を庇うんですか!!」
「違うわ!殿下は…ーー」
そこまで言って、はたと気づく。
―――なぜ、聖女の口から”300年前”という単語が出てきたのだろうか。
怒りで煮えくり返っていた身体から、すぅーと熱が引いていく。
300年前のことを知っているのは、私とユリウス、そしてどういうわけだがモニカの記憶を持っている殿下の3人だけだ。
ならば彼女は...?
「…貴女、いったい誰なの…?」
恐る恐る尋ねると、聖女は頬に手を添えたまま、へらりと笑った。
「私が誰だっていいじゃないですか。」
「よくないわよ!」
自分の知らない所で、自分の秘密が知られている。それが落ち着かなくて、恐ろしくて、聖女に対する恐怖心が、膨れ上がっていくのを感じた。
「マリーといい貴女といい…聖女達の目的は一体なんなーー」
「あんな阿婆擦れと一緒にしないで下さい。」
食い気味に遮った聖女の纏う雰囲気がガラリと変わり、思わず息を吞む。口調も口元の笑みも変わっていないが、目が一切笑っていない。宝石のように煌めいていた瞳から完全に光が失われ、まるで底知れぬ深淵のようだった。
聖女から発せられる異様な威圧感に、肌がひりつくような緊張感を覚える。
私は聖女の琴線に触れてしまったのだ。
「アイツは聖女の役目を放棄し、自分の欲だけを満たそうとした身勝手で幼稚な女です。」
聖女に見下ろされ、蛇に睨まれた蛙のように身体がすくんで動けない。
そんな私の様子にハッと気が付いた聖女は、慌てた様子で笑みを張り付けた。
「ご、ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったんです。本当です!」
再びへりくだった口調に戻ったが、先程の話が尾を引いている聖女の唇は僅かに歪んでいる。どう取り繕ったところで、聖女に対する恐怖心は変わらない。
隠しきれない恐れを顔に張り付けたままの私に、聖女は困ったように眉を下げた。
「えっと…そ、そうです!私の話を聞けば、きっと全て納得できると思います。」
何やら意気込んだ様子の聖女は、ごほんとひとつ咳払いをした。そしてーーー
「お教えします。この世界の真実を。」
まるで絵本の読み聞かせをするような口調で、聖女はゆっくりと語り始めた。
*****
「これは、ずっと昔のお話です。
この世界に、果てしなく続く広大な海と、人々が暮らす小さな島しかなかった頃。
島には”神蟲”と呼ばれていた虫がいました。
まるで深い海のような美しい姿から、人々からは神の使いだと言われ、大切に崇められていました。
そんなある日。
神蟲の一匹が、大罪を犯してしまいました。
なんと、神蟲は恐れ多くも丘の上で休息していた神様から”神の力”を盗んでしまったのです。
どうして神の使いである神蟲が、神様に対してそんな酷いことをしたのでしょうか。
いえいえ。
そもそも神蟲は神の使いでも何でもありません。
神蟲の正体は、何の力も持たない、醜くて卑しいただの“ゴキブリ”でした。
そんな身の程知らずの虫けらは、長年人々から崇められていたことによりのぼせ上がって、ついに暴挙に出てしまったのです。
そして、悲劇はこれだけでは終わりません。
運悪く、その一部始終を見ていた人間が居たのです。
その人間はこう思いました。「あの神蟲を食べれば神の力が手に入るかもしれない。」と。
欲深き人間は躊躇うことなく、神蟲を食らいました。
神蟲の正体はただのひ弱なゴキブリです。
神の力を使いこなせることもなく、図に乗っていただけの神蟲は、呆気なく人間に食われました。
こうして神の力を手に入れた人間は、さっそく世界を自分のものにしようと魔法を使いました。
しかし、神の力は強大で、ただの人間が扱えるものではありません。
当然のように神の力を制御できずに暴走させてしまった人間は、あろうことか島で1番大きい山を噴火させて、世界を滅ぼしてしまったのです。
青々としていた世界は、作物が育たない、草も生えない、ゴツゴツとした岩場に成り果てました。
過酷な環境下では人々は飢え、争いが争いを呼び、そしてとうとう殺し合いまでに発展してしまいました。
そんな混沌とする世界を見ていた神様は、たいへん嘆き悲しみました。
愛しいわが子たちが、争う姿はもう見たくない。
そう思った神様は僅かに残っていた力を振り絞り、大地に緑を与え、人々が安心して暮らしていけるよう4つの国をつくり、争いを終結させたのです。
こうして、世界をお救いした神様は、全ての力を使い果たしてしまい、永い永い眠りにつくことになりました。
ですが、話はここで終わりではありません。
平和になった世界で、一人の人間が声を上げました。
「この世界を救ったのは、神の力を授かった私だ。」と。
それは、神の力を横取りにしたあの欲深い人間でした。
争いの中、ずっと隠れていた人間は、世界が平和になった途端のこのこと顔を出したのです。
自分で世界を滅ぼしたくせに、なんて調子がいいのでしょう。
ですが人々の中に真実を知る者は誰も居ません。
欲深き人間の話を信じ切った人々は、その人間を救世主様と崇め、そして国の長として持ち上げ始めました。
その人間の名前は、ユリウス=ブランシュネージュ=ノルデン。
このノルデン帝国の初代皇帝。」
*****
そこまで語って、聖女は小さく息を吐いた。
「今まで皆が敬ってきた、皇族の青い血の中には、醜くて卑しいゴキブリの血が流れているんです。端的に言ってしまえば、皇族はゴキブリなんです。」
酷く冷ややかな声が、私の耳に突き刺さり、熱を奪う。
「エリザベータ様。」
先程と打って変わって、甘やかな声が私の耳に絡み付き、誘惑する。
「この世界は、全て嘘で塗り固められた虚像なんですよ。」




