178話
エリザベータside
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ぽた…ぽた…と、水面に雫が落ちる音がした。
とても近い。
重い瞼を上げると、背後に聳え立つ大樹に寄りかかるようにして座っていた私は、白いワンピースを着たまま、果ての見えない泉に浸かっていた。
そして、胸の位置まで満たされた水面には、一つ、二つ、三つ…と波紋が描かれている。
まるで夢のような非現実的な光景。
けれど不思議なことに、私はこの眼前に広がる光景に違和感を覚えない。
たった一本しかない大樹も、ぬるま湯のような泉も、何処までも続く底なし沼のような星空も、今の私にとっては至極当たり前な風景であった。
たった一つ。
当たり前ではないのが、この波紋。
一つ、また一つと増えては広がり、泉の果てへと消えてゆく。
私は大樹を見上げた。
太い幹は何度か枝分かれしつつも、上に、そして横に横にと、泉を覆うように伸びている。
私は、その枝に寛ぐようにして腰掛ける若い男を見つけた。
まるで悠々と靡く金色のマントのような長い髪を無造作に垂らしている彼は、木々のあちらこちらに実っている赤い果実を頬張りながら、ぼんやりと遠くを眺めている。
この不可解な波紋は彼が果実を頬張った際に果汁が垂れて生じたものか。
...いや、違う。彼はきっと―――
「どうして泣いているの?」
声を掛けられた男は、ゆるりとこちらを見下ろした。
宝石のように煌めく青い瞳は、私の姿を捕らえると、猫のように細くなる。
「おはよう、人の子。」
悠然とした笑みを浮かべる若い男。
彼はたった一枚の白い布を身体に巻き付け、長い腕と足を惜しみなく晒した破廉恥極まりない出で立ちであったが、神々しい威厳と人間のものならぬ美しさから、まるで神話の世界から飛び出してきたような男だった。
「残念ながら朕は泣いていない。朕の涙は世界に置いて来てしまった。」
「でも泣いているように見えたわ。」
「はははっ、相変わらず君は可笑しなことを言う。」
喉の奥でクツクツと笑う男は手元の果実に噛り付き、空を見上げた。
「朕にそんな資格はないさ。」
軽い口調に滲む、微かな哀情。
そして、時折感じられる男の人間らしさ。
「…泣くことにわざわざ資格が必要なんて、それこそ可笑しな話だわ。」
男は何も答えない。
ただクツクツと笑い、木登りを楽しむ子供のように足を揺らす。
「…。」
男が足を揺らすたびに、鉄の鎖がシャラシャラと冷たい音を奏でる。
どういうわけか、男は泉から伸びる鎖に片足首を拘束されていた。
今の私にとって、これも毎度おなじみな光景ではあるが、慣れるものでもない。
見るたびにドキリとして、結局何も言えなくなってしまう。
だから私は、男が泉に縛られている理由を知らない。
鎖から視線を逸らそうと、私は男と同じように上を見上げた。
木々の隙間から覗く満点の星空と、男の瞳と同じ青い星。
以前、男は私に青い星のことを教えてくれた。
君もよく知っている星だと。
あの大きくて美しい星はーーー
「そろそろ眠りなさい。」
ドクリと、意識と視線が星から男に戻る。
私は知っているのだ。
こちらを愉快そうに見下ろす男が、眠りを促したあとに、何を言い出すのかを。
「虫の子がやって来る。」
あぁ、やっぱり。
そう分かっていても、自分の身体から、すうっと血の気がひいていくのを感じた。
私は虫の子が怖い。
会ったことも、話したこともなく、それ以前に“虫の子”がどういった存在なのかも分かっていないのに。
きっと私の深いところ、本能が、その存在を酷く恐れているのだろう。
寝てしまえば、虫の子に会うことはない。
だが厄介なことに、私は眠ることも怖い。
眠りから覚めるたび、何か大切なものが泉に溶けてしまったような、そんな漠然とした喪失感に襲われるのだ。
以前、男にそのことについて話したことがある。
けれど男は「それでいいのさ。」とだけ言って笑った。
面倒で適当に流したとかではなく、少し分かりにくいがそれは男の優しさであった。
私は恐る恐る瞼を閉じる。
すると待ち構えていたかのように睡魔がするりと寄り添ってきた。
暗くて、温かい。
きっと、羊水で満たされたお腹の中と同じ。
私は安寧を祈りながら再び永い眠りに堕ちた。
寝ている間に、怖いことが全て終わっていますように。
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ーーー突然鳴り響いた、心臓を撃ち抜くようなパイプオルガンの響きに、私は深い眠りから叩き起こされた。




