169話
アルベルトside
彼女の香りが残る小さな部屋で、頭を抱えた僕は床に向かって、血を吐くような叫び声を上げていた。
あぁ、理解できない…!
彼女の意図を何度も読み取ろうとするのだが、その度に頭の中で拒否反応が起こり、うまく咀嚼できなかった日記の文字がまるで劇薬のように僕の身体の中を暴れ回る。
嬉しいとは?
悲しいとは?
尊敬って?心配って?心って?
彼女が書いている〝幸せ〟とは、どんな感情?
わからない。
わからないよ…!
黙って見てないで、僕に教えてよ…!!!
どうせ苦しんでいる僕を見て嘲笑っているんだろう!?
髪を振り乱し、身悶え、肺が空っぽになっても尚、身体中に溜まるありとあらゆるモノを嘔吐するかの如く、叫び続ける。
けれど、どれだけ声を上げようようとも、音を響かせようとも、血を吐いても、僕の元には何も返ってこない。
何も。
本当は分かっている。
この世界にはもうーーー
「君は、どうしてこんな呪いを残していったんだ…!」
彼女の居ない世界で、僕は嗚咽とも怒号ともつかぬ声を上げ続けた。
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一体どれぐらい、その場に蹲って声を上げていたのだろうか。
僕の灰色の視界には、いつの間にか暗闇が侵食しており、窓の外はすっかり暮れなずんでいた。
「…、…、」
喉が、痛い、熱い。口の中には不快な鉄の味が広がっている。
ぜぇぜぇと肩で息をいながら、僕は彼女の日記の意図を考える。考える。考える。考える。
考えるのをやめてしまったら、何かが壊れてしまいそうだったから。だから考えることを放棄してはいけない。
けれど、考えれば考えるほど思考の糸は身動きがとれないほど複雑に絡み合ってゆき、何処からか「どうして?」「どうして?」と、囁く声がその糸を更に搔き回していた。
〝どうして〟?
どんどん視野が狭まる。
そんなの、僕が知りたい。
どんどん視界が闇に侵食される。
どうしてこうなってしまったのか。どうして僕はこんなところで苦しんでいるのか。どうして、どうして、どうして…
何が悪かった?
誰が悪かった?
彼女?それとも僕?
僕?僕が悪かったって?この僕が?そんな馬鹿な。僕はこの世界で最も神に近い存在だ。そんな僕が悪いなんて、あり得ない。あり得ない…!僕はいつでも正しかった。僕が間違いを犯したことなんて一度もない。だから僕は悪くない、何にも悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くないーーーーー
ーーーーー悪いのは、
「ーーーー世界だ。」
考えに考え抜いた答えが、僕の中にストンと当てはまる。
「そうだ、悪いのは全部、この世界だ。」
だって、おかしいじゃないか。どうして僕だけがこんなにも苦しい思いしなくてはならない?
生まれた時からそうだ。いつだって世界は僕に冷たかった。
そもそも、どうして神は、僕を助けて下さらない?どうして見て見ぬふりをする?いつだって神は僕の境遇を憂いて……………
…あれ、ちょっと待て。今まで神が僕に手を差し伸べてくれた事なんてあっただろうか。
あぁ、あぁ、あぁ…!!
ない!今まで1度だって!
神が僕を救ってくれたことなんてないじゃないか…!!
それなのに僕は神の存在を盲目的に信じていた。それは世界が意図的に僕に植え付けた概念。刷り込み。全ては世界の都合のため。
あぁぁぁっっ、なんということだ…!!
僕が信じていた神は初めから存在していない虚像で、この世界は神という管理者の居ない、無法地帯の腐った世界だったのだ…!!!!
救いも祝福もない。
そんな世界に、僕は生まれ落ちた。
膨大な力を持って。
一体何故?
こんな世界に存在することに、なんの意味がある?
ワナワナと震えている自身の両手に視線を落とした僕はハッとした。
あぁ、そうか、そうか…!!!
やっとわかった!何故僕が、ゴミ虫どもが蠢く腐った世界に産み落とされたのか!
この力は、世界をあるべき姿に変えるためだったんだ…!!!
どうしてもっと早く気づかなかったのだろう!
この僕が、あんなゴミ虫共の為に、身を削って財政を建て直すなんて馬鹿馬鹿しい!!
全て作り替えてしまえばいい。
理想の世界に。
そしてこの僕が世界の管理者となるのだ…!
「…ハハハ…」
初めて立ち方を覚えた泥人形のようによろよろと立ち上がった僕は、傍に置いてある彼女の机に両手をついた。
乱れた自身の魔力の粒子を落ち着かせるよう深く呼吸をする。そして、僕は魔法をかけた。
状態保存、および転移魔法を。
淡い青い光を帯びる机、ベッド、本棚、ソファ、日記…この部屋にある全ての家具を、皇宮の開かずの間ーーー地下倉庫に転移した。
ここにくる前は、エリザベータ=コーエンという存在を、この世界から消したくて消したくて堪らなかった。だから、わざわざコーエン邸に足を運び、呪いもろとも燃やし尽くそうとしていた。
だが今は…。
世界に残っている彼女の残骸こそが、今も尚僕の心臓を蝕んでいる呪いを解く唯一の鍵。
どれだけ力があったとしても、理解できない呪いを解くことは出来ない。
世界に残された彼女の意図を紐解けば、この雁字搦めの呪いが解ける…はずだ。
だが、その前に、僕には確かめなければならないことが1つだけある。
◈◈◈◈◈
彼女の部屋を出た僕は、コーエン邸を燃やすべく、玄関ホールへと向かう。あちらこちらに毒虫の痕跡がこびりつく邸など、僕の理想とする世界に必要ない。
玄関に続く階段を降りてると、僕の耳にひどく聞き慣れた声が聞こえてきた。
「とある小さな町で、小さな猫と大きな猫が一緒に暮らしていました。」
とても懐かしい。それは、とある童話の冒頭の一節であった。
「大きな猫は、小さな猫を大切に育てていました。
『こんな下品なモノは、君に見せられない。』
『こんな馬鹿なモノを見たら、馬鹿がうつる。』
『こんな悪いモノを見たら、真似をしてしまう。』
そう言って、大きな猫は小さな猫を『悪いもの』から遠ざけました。小さな猫がとても、とても、大切だったから。」
声の主は無機質な口調で、物語を紡いでゆく。
「しかし……。
小さな猫は、何が『悪いもの』なのか、わからないまま大きな猫になってしまいました。」
幼い頃、僕はこの物語を何度も読み聞かせられた。
何度も、何度も。
内容を暗記してしまうほどに。
「何も知らない大きな猫は、ある日、悪魔と出会いました。
悪魔は、大きな猫を悪い遊びに誘います。
大きな猫は、その誘いに乗りました。
何も知らない大きな猫にとって、それがとても魅力的に見えたからです。
善悪の判断がつかない大きな猫は、悪行を繰り返していくうちに、いつの間にか悪魔になってしまいました。
そして、」
物語を聞き流しながら、玄関ホールに降り立った僕は、薄く開いていた外へと続く扉を開けた。
「悪魔はかつて自分を育ててくれた大きな猫を喰らってしまいましたとさ。」
コーエン邸の玄関前には、石畳に静かに佇む見慣れた後ろ姿が。
その人物の足元にはボロを纏った2人の男性が力無く転がっている。
身体の下から溢れている黒い液体の量を見るかぎり、この2人は既にこの世のモノではないのだろう。
「さて、アルベルト。この物語を聞いて、貴方はどう思いましたか?」
その問いに、僕は20年前と同じく答えてやった。
「実につまらない。二度と聞きたくないね。」
「…貴方は昔から変わりませんね。」
そう言ってこちらを振り返った叔父は、呆れたように眼鏡を中指で押し上げた。




