158話
アルベルトside
―――どろり、どろりと。
何かが身体に纏わりつきながら、身体がゆっくりと沈み込んでゆく。まるで、泥沼の中にいるような不快な感触に堪らず目を開ければ、眼前には黒よりも濃い暗闇が無限に広がっていた。
色もなく、光もなく、微かな物音さえも聞こえない。完全に暗闇が支配した世界で、僕は静かに、そして確実に沈んでいた。
一体僕は何処まで沈んでゆくのだろうか。
そう思い、足元を覗き込んだ―――その瞬間、ぶわりとうなじの産毛が逆立ち、僕は思わず息を吞んだ。
僕が沈みゆく先には、まるで泥沼の悪魔のような禍々しい深淵が、大きな口を開けて僕が落ちるのを今か今かとと待ち構えていたのだ。
それを本能的に理解した僕の背筋に、今まで感じたことのない戦慄が駆け登る。早く、早く上にあがらなければ、あの泥沼の悪魔に喰われてしまう。
僕は泥のような闇の中を泳ぐようにして、上を目指した。
しかし、どれだけ闇を掻いても前に進んでいる手応えが全くない。辺り一面、黒く塗り潰されているせいで、方向感覚が狂っているのだ。今、自分が何処に向かっているのかさえ分かっていない。
それでも無我夢中で手足を動かしていると、突然目の前に、何かが垂れてきた。白く、細く、まるで静脈のように広がっているそれは、植物の根っこだった。なぜこんな所に根が生えているのだろうか。だが、今の僕には、その白い根が、漆黒の闇の中で神が垂らした蜘蛛の糸如く輝いて見えた。
もしかしたら、この根を登れば、忌々しい闇から抜け出せるかもしれない。そんな希望を抱いた僕は、迷わず白い根に右手を伸ばした。
―――だが、しかし。
「―っう…!?」
全身がぞわりと粟立ち、僕は思わず腕を引っ込める。伸ばした腕の皮膚の下で、何かがうねうねと蠢くような感覚を覚えたのだ。
何事かと自身の腕に視線を移した僕は、その目に飛び込んできた光景に絶句した。
そこには、薄い皮膚を突き破って生えた若々しい芽が、腕を覆い尽くさんばかりに勢いよくボコボコと顔を出していたのだ。
何だ、これは。
こんなものが、どうして僕の腕から生えてくるのだ。
戸惑う僕をよそに、芽は腕だけではなく身体のあらゆる場所から生え始める。
こんなの、おかしい。
早く、早く毟り取らなければ。
僕は腕や首に生えた芽を鷲掴み、ブチブチと音を立てながら毟り取ってゆく。しかし、毟れども毟れども、芽の数は一向に減らない。それどころか発芽の速度は勢いを増し、ついには花まで咲かせてしまった。白くて小さい、そこら辺の道端に咲いていそうな素朴な花。それらの花々は嘲笑うかのように「キャキャキャッ♥」と下品な声を上げながら、僕の顔に甘い息を吹きかけてきた。
「ぐっ…、」
生暖かい息が顔に絡みつき、吐き気を催す。まるで青林檎のような甘い香りに、何故か激しい嫌悪感を覚えた。林檎なんて昔から食べ慣れているというのに、どうしてこんなにも気持ち悪いと思うのか。
その時、脳裏に白いドレスを纏った少女の姿が過ぎる。
少女の身体を持ち上げた際に漂ったあの甘い香り。
―――あぁ、そうだ。思い出した。
この香りは、彼女のものだ。
「―ッ!」
点と点が繋がった途端、臓物が一気に熱くなる。
あぁ、忌々しい、腹立たしい、穢らわしい…!!
全部、全部っ、彼女のせいだ…!!!身の程知らずの食虫植物風情が、僕に呪いを植え付けたのだ。
怒りで目の前が真っ赤に染る。僕はギリッと奥歯を噛み締め、目の前に垂れ下がっている白い根を睨みつけた。
ここから出たら真っ先に彼女を燃やす。燃やし尽くしてやる!
その一心で、僕は白い根を掴んだ。
手のひらに伝わる確かな手応え。
思わず口角を上げた―――その時。
―――プツリと、何かが千切れたような音が頭の中に響き渡った。
あっと思った時には既に遅く、僕の身体は風を切りながら真っ逆さまに暗い淵へと堕ちてゆく。無情にも、白い根が切れてしまったのだ。
上る時はあれだけ苦労したというのに、下がる時はこんなにも呆気ない。
堕ちゆく僕の視界には、舞い上がる白い花びらと、月も星もない闇の空で、淡い光を帯びながら短く垂れている千切れた白い根っこが。
僕は手を伸ばす。
けれど、何も掴めない。
何も。
「どうして…」
その呟きを最期に、僕の視界は完全に闇に覆われた。
◈◈◈◈◈
「―――殿下。」
「っ!」
軽く肩を揺すぶられ、僕はハッと目を覚ます。
気付けば、僕は走行中の馬車の中に居た。
「大丈夫ですか?」
「…ぁ、」
ぼんやりとする視界には、身を乗り出し、こちらを心配そうに見つめてくる叔父が。
ゆっくり、視界と現実が結びついていく。
あぁ、そうか。あれは夢だったのか。
「随分魘されているようでしたが。」
「…大丈夫だよ。」
そう言いながら、僕は目頭を押さえる。身体全体がじっとりと汗で湿っていて気持ち悪い。思わず顔を顰めた僕の前に、清潔感のある白いハンカチが現れた。
「お使いください。」
チラリと視線を上げれば、叔父が懐から取り出したのであろうハンカチを差し出していた。僕は「ん。」とだけ言って叔父からハンカチを受け取り、額の汗を拭った。
「…今、どのあたり?」
「丁度、最南端の町に入ったところです。」
「もう?」
「えぇ。」
カーテンの隙間から車窓の外を覗くと、樹海の中を走っていたはずの馬車は、いつの間にか整備された街道を走っていた。
どうやら随分と眠り込んでしまったらしい。
公爵領で一夜を過した僕達は、日の出と共に公爵領の南に広がる樹海に入った。樹海の中は、鬱蒼と茂った木々に囲まれており、昼間でも日差しを通さず、まるで晩方の中を走っているようだった。
しかし、樹海を抜けども雲行きは怪しく、辺りはどんよりと暗い。まるで、この旅路の先行きを予知しているかのよう。
憂鬱が混じるため息をこぼした僕は、外の風景から視線を外し、叔父にハンカチを返す。すると叔父は何も言わずにハンカチを受け取り、懐へとしまった―――その時、
「―ッ!」
車窓の外から強い視線を感じ、背筋がゾクリと震えた。ハッと外を見るが、先程と同じような風景が流れるばかり。
「どうかされましたか?」
「…いや、何も…」
そう言いながら平然を装うも、心臓はドッドッドッと、激しく脈打っていた。無意識にグッと握った拳の中には、ぬるりとした嫌な汗が滲む。これは気の所為では流せない。
全身に流れる血液が、宿主である僕に訴えかける―――この先に、行ってはいけない―――と。
「殿…っ、」
――ヒヒーン…!!
外から轟いた馬の鳴き声が叔父の声を遮ったのと同時に、乗っていた馬車が激しい唸り声を上げながら急停車した。前後左右に大きく揺れる馬車の中、予期せぬ出来事に僕の身体は勢いよく前に押し出される。
「アルベルト…!」
「ぐっ…!」
僕の顔面が叔父の胸板にぶつかり、鼻先に激痛が走った。
「殿下、お怪我は?」
咄嗟に僕の身体を抱き込んだ叔父の声は、いつもと変わらず冷静だった。僕は鼻先を押さえながら、叔父の胸から顔を上げる。
「問題ない。それよりも一体何事だ。」
「確認します。」
叔父は御者に通じる開き窓を開け、状況確認をする。すると、酷く戸惑った様子の御者の口から、耳を疑う言葉が飛び出した。
「殿下、お待ちなさい!」
叔父の声を無視して、僕は扉へと向かう。
この場から逃げるために、だ。何故、逃げようとしているのか。自分でもよく分かっていない。それでも僕は逃げなければならなかった。
―――が、
「おーじさま♡」
転がるように馬車から降りた先には、1人の少女が僕を待ち構えていた。
艶やかなストロベリーブロンドの髪に、キラキラと煌めくピンクダイヤモンドの瞳。
幼さを残したパッチリとした瞳が、僕を真っ直ぐに見据えていた。
「初めまして、私の名前はマリー!」
ひとっつも迷いのない天真爛漫な笑顔。
その笑顔に、かつてのエリザベータの面影を重ねてしまった瞬間、ツンと鼻につく発酵臭―――まるで林檎が樽の中で腐ったような匂いが、僕の意識を優しく包み込んだ。




