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私は貴方を許さない  作者: 白湯子
第9章「愚者の記憶」
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140話



理不尽だらけの優しい温室に慣れてしまった今の私には、目の前に広がる美しい外の世界が酷く恐ろしいものに見えた。


下に降りたとして、私が無事に助かる保証は何処にある?

もしもここが帝都から外れた、私の知らない土地だったとしたら?

私がしようとしていることは無謀で、ただいたずらに命を危険に晒そうとしているだけなのでは?



「~~っ。」



人間は弱い生き物なのだ。

現実の鎖で繋がれていなくても、心が繋がれてしまえば、逃げることなんてできない。

ユリウスはこれを見越して鎖を外したのだろうか。もしそうだとしたら、今の私を見たユリウスは腹を抱えて笑うだろう。


唇を慄わせながら外の世界から遠ざかっていると、私の踵に何やら柔らかいものを踏む感触があった。はっと足元を見れば、靴の下に白い花びらが見えた。ユリウスが部屋中に飾り付けたあの白薔薇だ。窓を割った際に風に煽られて床に落ちてしまったのだろう。

慌てて拾い上げるが、私の全体重を受け止めきれなかった薔薇は無惨な形で潰れていた。それが幼い頃、自分の手で羽を毟り取ってしまった青い蝶々と重なる。


雑草や芝生を踏んだ時には感じることの無い酷い罪悪感に押し潰されそうになっていると、ふと私の視線は薔薇の茎に止まった。

本来、薔薇にあるはずの棘が一つ残らず綺麗に取れていたのだ。

まさか…と思い他の薔薇も見てみれば、どの薔薇も棘の処理が施されていた。



「どうして…」



ふと、脳裏に昨夜のユリウスの姿が浮かぶ。指先に出来た薔薇の棘の刺傷を治すユリウスの姿が。



「―っ、なんで…っ」



なんで、どうして。

彼のことがわからない。彼を理解出来ない。何故、理解が出来ないのか。それは、


彼から逃げていたからだ。


300年前からずっと。

適当な理由を並べて、彼から逃げることばかり考えていた。


私は、彼と向き合うのが怖かった。

彼の口から私の存在を否定させるのが怖かった。だって私の世界はアルベルト様でできていたから。その彼に否定されてしまったら、私は生きていけない。


だから私は自分を卑下した。

卑下して卑下して卑下して。

私が出来損ないだから彼は振り向いてくれないのだと思い込み、逃げ道を作った。努力すれば、彼が振り向いてくれるかもしれない。そんな独り善がりの逃げ道を。彼の為に、と言いながら、全ては自分の為だった。だってそれが1番楽だったから。絵本の中のお姫様のように愛する人の為に努力する、そんな自分に酔いしれていた。


愛する人…だなんて。彼のことを何も知らなかったくせに。知ろうともしなかったくせに。それなのに努力すれば、いつかきっと……だなんて。馬鹿だった。どうしようもなく、馬鹿だった。

私が影でずっと見つめていたのはアルベルト様ではなく、自分の都合のいいように造り上げた彼の幻影だった。

それを最後の最後まで気付かないふりをして、ここまで来てしまった。今まで逃げていたツケが回ってきたのだ。


エーミールと話をする中で、出来損ないのエリザベータを作っていたのは自分自身だということに気が付いた。だが気付いたからといって、私の根っこが変わるわけではない。


人間は簡単には変われない。


…変われないが、保身のことしか考えられなかった私が、こんなどうしようもない自分に気付けたのだ。それは世界から見れば何の意味もない一歩かもしれない。それでも確実に前には進んでいる。



「………。」



私をここに閉じ込め縛り付けたのはユリウスだ。だが今、私をここに縛り付けているのは、私自身。この鎖を断ち切れるのは私自身だけ。


ここでまた逃げたら、私はいつまでたっても出来損ないのエリザベータのまま。

こんな弱くてどうしようもない私だけれど、一歩つづなら前に進めるかもしれない。

違う。

進まなければ。



「……っ」



ぐっと唇を噛み締めた私は、キッチンへと走り出した。食器棚から適当にグラスを取り出し、そこに水を注ぐ。そして、たっぷりと水が満たされたグラスの中に、先程踏んでしまった薔薇を差し込んだ。



「…踏んでしまって、ごめんなさい。」



……私は花が好きだ。

凛と咲く姿は美しく、見る人の心を癒すから。

そして、もう1つ。



「…でも、あなたは強いわ。」



人間よりも、虫よりも、花は強い。

踏まれても枯れることなく、地面に根を張って毎年綺麗な花を咲かせる。

この薔薇もそうだ。まだ命は枯れていない。今も懸命に水を吸い、返り咲こうとしている。


…私もそんな強い花になりたかった。逆境に打ち勝つような、貴方が初めてくれたあの花のようになりたかった。貴方は覚えていないだろうけど。


ここで待っていても何も変わらない。

なりたい自分になる為に、私は―――



―――この屋敷から出る。



薔薇の入ったグラスをダイニングテーブルの上に置いてからキッチンを出た私は、ベッドシーツやカーテンなど大きめの布を部屋中からかき集め、それらを結び繋ぎ合わせた。


ギュッとベッドの足にシーツを縛り付け、繋いで長くしたシーツを窓の外に垂らした。部屋中のシーツ類で簡易的なロープを作ったのだ。窓から下を覗き込めば、長さは十分のように見える。

ぐっとシーツを引っ張ってみるが、解ける様子はない。正直不安しかないが、これしか方法が浮かばなかった。



―しっかりしなさい、エリザベータ!



下を見て怯んでいる自分を叱咤し、奮い立たせた私はコートを着込み、厚底のブーツに履き替える。スカートは邪魔にならないように裾を縛った。太ももまで見えてしまっているが今ははしたない云々言っている場合では無い。


私は窓際に片足をかけ、もう一度下を確認した。……思っているより高くはないし、下には手付かずの雪が積もっている。もし途中でシーツが切れたり解けたりしたとしても死ぬことはないだろう。


ぐっとシーツを握り締めた私は、ひとつ深呼吸をした。



―大丈夫よ。階段から突き落とされても死ななかったんだから。



そうやって自身を励ましながら、私は下に降り始めた。



*****



出だしは順調。なんだ、思っていたよりも自分はできる子じゃないかと思い始める。

中盤。腕がプルプルし始める。自分の筋力の無さと運動不足を呪い始める。

あと数十センチ。上の方でシーツがビリッビリビリッと悲鳴を上げはじめる。ユリウスが用意した料理を律儀にデザートまで完食していた自分を呪いながら、私は下に落下した。



「うっ…!ぐ、」



積もった雪がクッションになってくれたおかげで、お尻に衝撃はあったものの怪我はない。



―私にしては上出来よ。



自分を褒めながら顔をあげた私は「ん?」と両目を眇めた。


…この景色、見覚えがあるような…。


そんな既視感を感じながら立ち上がろうと両手を地面につけると、手のひらに違和感を感じた。


…雪の下に何かある。


なぜか妙に気になった私は雪を掘り返した。



「…えっ?」



雪の下から現れたのは、白くて小さい可憐な花。それは冬に咲いているはずのないカモミールだった。

何故真冬にカモミールが…と思ったが、私は知っている。一年中枯れることのないカモミールのことを。


雪景色に変わっていてすぐに気付けなかったが、間違いない。

ここは以前ユリウスと一緒に来たカモミール畑だ。


まさか窓の外がカモミール畑だったなんて、夢にも思わなかった。だがここならば、シューンベルグ邸まで歩いて帰れる。



「……?」



…何だか酷く胸騒ぎがする。早く帰らなければ、そう思うのだが何故か私の身体は動かない。



「…………。」



カモミールから漂う林檎のような甘い香りに私の意思が、五感が、全て支配された。


雪に埋もれていたはずのカモミール達はいつの間にか顔を出して、私に鋭い視線を投げつける。そして、彼女たちは囁き合うように一斉に話し始めた。



「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」「食ベテ。」



「ワタシヲ、食ベテ。」



彼女たちの言葉が頭の中で反響し、何も考えられなくなる。私は彼女たちの言われるままに、手元に咲いていたカモミールを一輪摘み取り、口元へと運ぶ。


そして、何の躊躇もなく私はカモミールを


食ベタ。



「―っあぅ!?」



異物が、血流に乗って私の脳に入り込んできた。それは何かを探るように右往左往駆け巡り、だが確実に奥へ奥へと進んでいく。


駄目だ、そっちは駄目だ。


私の訴えも虚しく、異物はとうとう誰にも見せたくない領域まで土足で足を踏み入れてしまった。私の記憶を保管する倉庫へと。


目的地に辿り着いた異物は、あろうことか、そこで弾け飛んだ。その瞬間、自分のではない誰かの記憶が濁流のように流れ込んできた。



「あぁああああっ!?」



膨大な記録に脳の処理が追いつかない。負荷を与えすぎた脳の神経が何処かでパチンッと焼き切れ、耳や鼻など穴という穴から生暖かい血液が流れる。


知らない、知らない、知らない…!

やめて、勝手に入ってこないでっ!!

こんな記憶、私は知ら…


まるで砂嵐のような映像の中、一瞬だけ鮮やかな記憶が映し出された。


白くて小さい可憐な花。


私は知っている。

彼を知っている。

この記憶は…



「アルベルト様…」



300年前、私を死に追いやったアルベルト=ブランシュネージュ=ノルデンの生涯の記憶だった。





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