136話
―――翌日。
夜はまだ明け切っておらず、霜氷に閉じられた雪国の寒い朝のこと。
誰も居ない学生寮の廊下をピンクダイアモンドの瞳を持った少女が歩いていた。
底冷えする雪国の寒さをものともせず、少女の足取りは春の花畑を散歩しているかの如く軽やかだ。
そんな少女は冬季休暇だというのに、学校の制服に身を包んでいた。その上からは、赤いフードローブを羽織り、腕には林檎がたくさん入った籐のバスケットの取っ手を通してあった。可憐なその姿はまるで童話の〝赤ずきん〟のよう。
妙に上機嫌な少女は学生寮の扉を端からノックしていき、部屋から出てきた生徒に「祝福を。」と言いながら林檎を1つ手渡していく。
これはノルデン帝国で昔から行われている年末行事のひとつだ。
寒さが厳しいノルデンでは、冬でも枯れずに緑を保っていることから林檎の木を「永遠の生命」として崇拝している。
また、林檎は様々な方法で貯蔵も出来る貴重な食べ物であった為、大自然からの恵み、幸福、豊作などを象徴する果物と言われているのだ。
今日は、1年の最後の日。明日からは新たな年が始まる大切な日だ。
ノルデン帝国では、祈りがこもった林檎を家に飾り、神様に感謝する日でもある。
例年ならば、その林檎は教会の神父や修道女達が願いを込めるのだが、今年は聖女の役目となった。彼女は神に愛された乙女。人々と神を繋ぐ唯一無二の存在。彼女以上に、その役目を担うに相応しい者はいないだろう。
早朝だというのに元気いっぱいで一部を除いた全生徒に林檎を配り終えた少女は、空の籠を抱えながら中庭にあるベンチに腰を下ろしていた。
少女は雪を被った中庭を眺め、満足気に微笑む。キャンパスのような白い雪面には、少女の小さな足跡だけしか描かれていない。
もしかしたら世界には自分しか居ないのかもしれない、そんな空想に浸りながら少女はクスクス笑う。
「楽しそうですね。」
楽しい空想を邪魔するかのように、少女の背後から甘く優しい少年の声が聞こえてきた。
その声に少女が振り向けば、そこには穏やかな笑みを浮かべる少年が居た。少年はギュッギュッと雪を踏みしめながら少女へと近づく。
「あ、ユリウス様!」
ぱぁっと花が綻ぶように愛らしい笑みを浮かべた少女はぴょんっとベンチから立ち上がり少年に駆け寄った。
「おはようございます。」
「おはようございます、ベティ嬢。」
「もー、来るのが遅いですよ。待ちきれなくて、林檎全部配っちゃいました。」
桃色の頬をぷくっと膨らませた少女は、空になったバスケットを少年に見せた。それを見た少年は、申し訳なさそうに眉を下げる。
「すみません。針を千本飲んでいたらこんな時間に…」
「針!?千本!?なんで!?」
少女はビックリ仰天したが、はっと冷静さを取り戻した。
「……ふふふっ。もー、ユリウス様ったら。嘘をつくなら、もっとマシな嘘をついてくださいよー。そんなんじゃ、私は騙せませんからね。」
「嘘じゃないですよ。」
「もうっ、怒りますよっ。」
クスクスと笑い合う少年少女は、まるで姉妹のようで可愛らしい。
しばらく笑い合っていたが、ふと少女の視線が少年の左手に止まった。
「……ユリウス様、それは何ですか?」
少女は不思議そうに少年の左手を指さした。少年は「あぁ…」と言い、左手を胸の前まで持ち上げる。その手首には、冷たい鉄の輪っかが嵌っていた。
「手錠です。」
「て、手錠っ!?」
「えぇ。父に頼まれて屋敷の倉庫を整理していたら、うっかり嵌ってしまいまして…」
「う、うっかり!?」
「鎖の方は切る事が出来たのですが、輪っかの方は中々外せなくて困っているんですよ。」
苦笑いをしながら少女に手錠を見せれば、申し訳ない程度に付いている中途半端な長さの鎖がじゃらりと揺れた。
「…それって、」
先程までアワアワと目を丸くしていた少女は、ピンクダイアモンドの瞳を眇めた。
「〝外せない〟じゃなくて〝外したくない〟の間違いなんじゃないんですか?」
妙に落ち着いた声の少女は、少年に意味ありげな微笑みを見せた。それは、少女には似つかわしくない、酷く蠱惑的な笑みだった。
「深読みし過ぎですよ。」
少年が笑みを崩さずにそう答えれば、少女ははっとしアワアワと薔薇色に染まる頬を両手で押さえた。
「そ、そうですよね。もしそうだとしたらユリウス様が手錠を嵌めて喜ぶマゾヒストってことになっちゃいますもんね!?」
「…マゾ?」
「―って、そんなことよりもっ!」
突然何かを思い出した少女は、少年にぐっと顔を近づけ話題を変えてきた。
「プレゼントですよ!」
「…プレゼント?」
こてんと首を傾げた少年に、少女は「そうですっ!」と力強く頷いた。
「エリザベータ様に似合いそうなワンピースと、可愛い猫のぬいぐるみをプレゼントしたんです。ユリウス様はエリザベータ様から、何か聞いていませんか?」
やや興奮気味に少女は身振り手振りで少年に問い掛けたが、少年は小さく首を横に振った。
「すみません。今、姉上とは離れて暮らしているので…。」
「あ、そうでした。」
「でも、よく姉上の居場所が分かりましたね。今の姉上は陛下直々の謹慎処分中なので、僕にも詳しい場所は教えられていないんですよ。」
「私も詳しい場所は分からないのですが…お友達の中に追跡魔法が得意な方が居まして、その人にお願いをしたんです。」
「へぇ…。」
「その方の魔法が凄いんですよ!贈りたい人の髪とか体液があれば、場所が分からなくてもその人の元にプレゼントを届けることが出来るんです!」
「それは凄いですね。」
「ですよね!私の場合、たまたまエリザベータ様が口をつけたティーカップを洗わずに保管していたので、プレゼントを贈ることが出来たんです。備えあれば憂いなしってこのことですよね!」
「…少し違うような気がしますが……なるほど。きっと姉上のことですから、ベティ嬢からのプレゼントを喜んでいると思いますよ。」
「そうだったらいいですね…。」
少女は想いを馳せるかのように、空を見上げた。
「ベティ嬢。」
「はい?」
「今日は愛しい貴女に僕からのプレゼントがあるんですよ。」
「プレゼント?」
目をぱちくりさせる少女に少年はにこりと笑いかけ、パチンと指を鳴らした。すると、
―ドサッ
「―っ!」
少女の背後から鈍い落下音が聞こえた。
はっと振り向むいた少女の視線の先には、雪面の上に1人の青年が力なく横たわっていた。
「……あはっ。」
歓喜に目を輝かせた少女は、持っていたバスケットを放り投げて倒れている青年に駆け寄った。
「……ふふふふっ。」
爛々とした目付きで青年を見おろす少女は、にんまりと嬉しそうな顔を綻ばせた。
何故なら横たわる青年が確認するまでもなく、息絶えていることが分かったからだ。
口から流れ出た血液は黒く変色し、生気を失った土気色の肌と絹糸のような金色の髪にこびり付いている。
かつては深い海のように美しいと言われていたサファイアの瞳も今は見る影もなく、死んだ魚のように暗く濁っていた。
静かに横たわる死体。
それは、この国の皇太子殿下。
テオドール=ブランシュネージュ=ノルデンのものだった。
「…気に入って頂けましたか?」
「勿論ですよ!ユリウス様のおかげで予定通り今日の儀式を行うことができます。」
「それなら良かったです。」
「ユリウス様、本当にありがとうございます。神様は青い血が大好物なんです。だから、神様に捧げる供物は絶対にテオドール殿下って決めていたんですよぉ!うふふふふっ。」
「…喜んでいただけて光栄です。」
少女は嬉しさのあまり、目尻に涙が滲む。恍惚に近い歓喜の状態の少女を、少年は穏やかな表情で見つめていた。
「…あぁ、1人で喜んでいてすみません。ユリウス様には何かお礼をしなければいけませんね。」
「お礼だなんてそんな…。気にしないで下さい。僕が勝手にやったことなんですから。」
「そういう訳にはいきませんよっ。ちょっと待っててくださいね…」
少女は羽織っているローブのポケットをゴソゴソと漁る。
「…えっと…あ、ありました!」
目的のものを見つけた少女は、ポケットから手を引き抜く。その手には血のように真っ赤な林檎が握られていた。
「綺麗な林檎ですね。」
「ふっふっふっ。ユリウス様が来たら一緒に食べようと思って、特別に取っておいたんです。」
ニコニコと笑うか弱き少女のどこにそんな力があったのか、少女はナイフを使わずに素手で林檎を半分に割り、片割れを少年に差し出した。
「ユリウス様、祝福を。」
「…祝福を。愛しの聖女様。」
片割れの林檎を受け取った少年は、そのまま口元に運ぶ。
少年と同じように林檎を口元に運んだ少女は、その桜桃色の小さな唇を開き、しゃりっと林檎に白い歯を立てた。
蜜がたっぷりと含んだ林檎は瑞々しく、噛めば噛むほど爽やかな甘さとほどよい酸味が口いっぱいに広がる。
美味しそうに林檎を頬張る少女を見ていた少年は、無言で林檎を齧った。
少年にとっても少女にとっても林檎は昔から食べ慣れているものだ。だからこそ、少年は林檎の味に違和感を感じた。たが、気付いた時にはもう遅かった。
「―ゴフッ!?」
突然、少年は真っ赤な鮮血を吐き出した。咄嗟に口元を手で覆う少年だったが、それで治まるわけもなく、咳き込む度に大量の血液が口から吹き出しボタボタと雪面に落ちた。
「ゴフッ、ゴホッゴホッ……ヒユッ…」
呼吸が出来ないのか、少年は指と喉が血だらけになるくらいに喉を掻きむしり、猛獣のような呻き声を上げながら、膝から崩れ落ちた。
「あはっ。ユリウス様ったら、そんなに喜んじゃって……」
その場にしゃがみ込んだ少女は、もがき苦しむ少年を頬杖をつきながら楽しそうに見つめた。
「毒漬けの林檎は、吐いちゃうぐらい美味しかったですかぁ?」
「ガッ…アグ…あ…ぁ…」
「嬉しいなぁ…。一晩中、林檎半分を毒に漬けていた甲斐がありましたよぉ。途中で腕がプルプルしちゃって大変だったんですからね。」
鈴を転がすような声で少女は話す。楽しそうに話す。
とうとう身体を支えきれなくなった少年は、真っ赤に染る雪面に倒れ込んでしまった。
「…どうやって魔力を得たのかは知りませんが……勘違いをしている貴方に私から一言。」
少女の声は先程の明るい声とは違い、威厳と落ち着きに満ちた壮年女性のような声に変わった。
「昆虫が魔法で美しい蝶になったとしても、」
少年は血を吐き出しながら、力を振り絞って苦痛に歪めた顔を上げる。
その霞むシトリンの瞳に映っていたものは…
「結局は醜くて卑しい虫のままなんですよ。」
にっこりと愛らしく笑う少女の笑顔だった。
「…あっ……あぁあァァァ…ッッ……」
それから数秒間もがき続けた少年は、何度か痙攣を繰り返した後、指1本すら動かなくなってしまった。
だくだくと少年の虚ろに開いた目と鼻と口から鮮血が流れ、中庭の雪面を真っ赤に染め上げる。
「…………。」
無言のまま少年を見つめていた少女の表情からは、いつの間にか感情が全て抜け落ちていた。
能面のように冷たい表情の少女は、すくっと立ち上がり、雪面に横たわる少年を見おろす。
「……そうやって地面に這いつくばっている方が貴方らしいですよ。」
ポツリと抑揚のない声を少年に浴びせた少女。
その声に反応したかのように、小山に隠れていた太陽が顔を出して少女を背後から照らした。
「昆虫の分際で、のうのうとあの人の隣りに立っていたから天罰が下ったのです。」
逆光で少女の顔を見ることは出来ない。
だが、
「…っと言っても、もう聞こえていないかぁ…。」
少女のピンクダイアモンドの瞳だけが妖しく煌めいていた。
第8章「優しい拷問」完




