133話
冷えた身体にムワッとした湿気が絡みつき、先程温室にいた時よりも暑苦しく感じる。そんな不快感を感じながらドアノブから手を離した瞬間、立ちくらみのような軽い目眩を覚えた。
「大丈夫ですか?」
私の不調に目敏く気付いたユリウスが、背後から心配そうな声音で訊ねてきた。
「…別に。大したことじゃないわ。」
おそらく、急激な寒暖差によって自律神経が乱れたのだろう。身体は正直だ。
健常者である私が多少なりとも身体の不調を感じたのなら、身体の弱いユリウスの方がより負荷がかかっているはず。
「……早く部屋に戻りましょう。」
私は来た道を戻ろうと足を踏み出した。
「姉上。」
「なに…」
背後からの呼び止めに振り返った私は、そのまま固まる。私の右手がユリウスの左手を掴んでいたからだ。瞬き程度の一瞬の沈黙ののち、私は掴んでいた彼の手をパッと離した。
「…戻るわよ。」
無意識とは恐ろしい。私は心の中で自身を責めつつ、再び来た道を戻ろうと歩き出す。
―……あら?
歩きながら私はふと違和感に気が付く。先程までくらりくらりと頭を戒めていた眩暈が、綺麗さっぱり治っていたからだ。
「……。」
私はピタリと足を止め、後ろを振り返る。すると、背後にいたユリウスは羽織っていた上着に腕を通しながら首を傾げていた。
「姉上?」
「…貴方、何かした?」
私の探るような視線を受けたユリウスは、目をパチクリも瞬かせた後、ニコリと綺麗な笑みを浮かべた。
「いえ、何も。」
「…。」
相変わらず、憎らしいほどの愛らしい微笑み。だが心做しか顔色がよろしくない。それを指摘すれば、ユリウスは「月の光のせいですよ。」と答える。微笑んで平然を装っているが、体調不良までは誤魔化せない。
…そういえば、昔からユリウスの傍にいると何故か気が楽になることが多々あった。
「…貴方まさか、魔法で…」
「ほら、姉上。部屋に戻りますよ。」
食い気味にこちらの言葉を遮ったユリウスは、そっと私の右手を掬うようにして握ってきた。
「ちょっ…!」
そのまま誤魔化そうとする彼に言い募ろうとした途端、彼の瞳が青く煌めき始めた。はっとした時には、既に遅かった。視界が揺れ、世界が揺れる。次の瞬間には、私たちは元居た部屋に戻っていた。
「……。」
突然の転移魔法に、私は黙って彼を見つめることしかできない。ユリウスはひと呼吸を置いてから、繋いでいた手をそっと離した。
「今日は…遅くまで散歩に付き合って下さってありがとうございました。」
ユリウスは軽く頭を下げる。
「久々に歩いて疲れたでしょう。夜更かしせずに、湯浴みをしたらすぐ休んでくださいね。」
そう言いながら顔を上げるが、目は合わない。
「おやすみなさい。姉上。」
小さく微笑んだユリウスのシトリンの瞳が、淡い青色に煌めく。きっと転移魔法を使って、邸に帰るのだろう。
「…。」
「姉上?」
気付けば、私はユリウスの上着の袖掴んでいた。
「…どうかしましたか?」
ユリウスは私の顔を覗き込み、まるで子供に対するような優しい声音で訊ねてきた。
袖を掴んだまま俯いた私は、視線を彷徨わせる。
「…あ、いや……その…具合が悪いなら、貴方も休んだ方がいいと思うの。」
「…。」
「貴方はつい最近、熱を出して寝込んだばかりだし……あ、殿下が言っていたんだけど魔法を使いすぎると欠乏症…?になるんでしょう?」
「……。」
「夜も遅いし、今日はここで…」
「世間知らずの貴女にひとつ忠告を。」
抑揚のない静かな声にはっと顔を上げれば、冷たく無機質なシトリンの瞳と目が合った。
「大人しく帰ろうとしている男を引き止めてはいけません。」
「……は?」
唐突の忠告に、思わず怪訝な面持ちになる。そんな私の反応が気に入らなかったのか、ユリウスの瞳に少しだけ苛立ちの色が滲んだ。
「貴女には分からないでしょうが、男というものは女性の言動を自分に都合よく解釈してしまうような愚かな生き物なんです。貴女にその気がなくても…ね。」
「…。」
「痛い目を見たくないのなら、これから先はよく考えて行動して下さい。そもそも、貴女には危機感というものが…」
丁寧ながらも、人を下に見るような刺々しい口調にカチンときた私は堪らず口を挟んだ。
「何を勘違いしているのか分からないけど、貴方は私の弟なんでしょう?」
「え?」
赤子のようにあどけなく目を丸くするユリウスを、白々しいと思いながら睨みつける。
「具合が悪そうな弟を引き止めることは、姉として当然じゃない。」
「…。」
ユリウスの言動は支離滅裂…とまではいかないが、どうもちぐはぐだ。
彼は私にこの奇妙な姉弟関係を強要しているが、その割には姉らしいことは求めてこない。寧ろ、彼は昔から私が姉の役割を果たそうとするのを酷く嫌がっていた節があった。その上、彼は私との間に決して越えられないような一線を引いている。
姉としての役割を求めている訳でもなく、私を殺そうとする様子も見られない。
なんの力もない私に彼は一体何を求めているのだろうか。
お互い視線を逸らさずに見つめ合うこと数秒間。なんの脈絡もなく、突然ユリウスが笑い出した。
「はははっ!」
今まで彼が声を出して笑ったことなんてあっただろうか。ギョッとする私の様子に気が付いたユリウスは、喉の奥で笑いを噛み殺すように「くくっ…」と笑う。その笑い方も、私が知らないものだ。
「えぇ、そうですよ。僕は貴女の弟です。」
込み上げてくる笑いを落ち着かせるように息を吐いたユリウスは、憑き物が落ちたようにスッキリとした表情に変わった。この一瞬で彼に一体何が起きたのだろう。
分かりやすく戸惑う私にユリウスはニコリと笑いかけた。
「僕は姉上の言うことに従います。」
キラキラとまるで天使のような笑みを浮かべるユリウス。何故そのように微笑むのかは分からないが、彼が私に従ってくれるのなら、これ以上何も言うことは無い。
「…あ…そう…。」
その眩しさに耐えきれず、袖から手を離し後退る私の腰に彼の腕が素早く回る。
悲鳴を上げる暇もなくグッと距離が縮まり、一瞬呼吸が止まった。もしかしたら、心臓も一瞬止まったかもしれない。
「姉弟水入らず、今日は一緒に寝ましょうね。」
「………え??」




