128話
扉から部屋を出ると、目の前には長い廊下が続いていた。
外はすでに日が落ちている為、突き当たりが見えないほどに廊下は薄暗い。だが、ユリウスが天井に手をかざすと、ポッポッポッと近い所から順番に天井に吊り下がっているシャンデリアに淡い橙色の明かりが灯り、廊下をぼんやりと照らした。
明かりのおかげで歩きやすくなった廊下を手を引かれながら無言で歩いていると、ふいにユリウスが口を開いた。
「先程の質問のことなのですが、」
「先程?」
「この4日間、僕が何をしていたか、という質問です。」
「あぁ…」
そうだった。私はそれが知りたかったのだ。彼が見当違いなことを言ってきたから、すっかり話が逸れてしまっていた。
「この4日間は、今年中に提出しなければならない論文を仕上げていました。」
「論文って…あのデューデンの?」
「えぇ。昨日、やっと提出することができました。」
確か…以前ユリウスは、ずっと薬草だと思っていたものが虫だった為、今までの知識が通用せず手を焼いていると言っていた。珍しく論文に苦戦していたユリウスの姿を思い出していると、ユリウスはぴたっと足を止めた。私も彼に倣い立ち止まれば、いつの間にか私たちは廊下の突き当たりにたどり着いていた。
どうやらここは階段の踊り場らしく、それぞれ上の階と下の階に続く階段があった。
「足元に気を付けてください。」
ユリウスはそう言いながら、手を引きつつ私を上の階に続く階段へ誘導する。彼に従い階段を登っていくと、目の前に白い扉が現れた。
この扉の先には一体何があるのだろうか。繋いだ手から私の動揺が伝わったのだろう。ユリウスは私を安心させるように笑いかけてから、ゆっくりとその扉を開けた。すると、そこは……
「え…?」
思わず私の口から惚けた声がもれる。
扉の向こうに広がっていたものは、サンルームのように玻璃天井から月明かりが降り注ぐ巨大な温室だった。
手を引かれるまま温室に足を踏み込めば、むっと噎せ返るほど湿気を帯びた空気が私の身体を覆った。
キョロキョロと辺りを見渡すと、四季折々の植物が至る所に生い茂っており、ガラスの天井の向こう側には少し欠けた月と星空が煌めいていた。
「この屋敷の3階は丸ごと温室になっています。」
「丸ごと…」
自分が過ごしている部屋の上に、こんな光景が広がっていたとは…。正直、驚きを隠せない。シューンベルク邸にもユリウスが趣味で作ったサンルームという名の温室があるが、そことは比べ物にならないほどの立派な施設だ。帝都の公共の施設と並ぶと言っても過言ではない。明らかに趣味を超えている。もしや、彼にとっての園芸は、ただの趣味ではないのではない?
「姉上、こちらです。」
ユリウスは温室の入口でポカーンと立ち尽くしている私の手を引き、温室の奥へと足を進める。
どこを見ても天井以外は緑に覆われており、まるで夜の森林を歩いているような錯覚に囚われる。
月明かりの神秘的な光が降り注ぐこの温室は夢のような淡さも湛えていた。
しばらく背の高い植物の間を歩いていると、蔦に覆われたアーチが見えてきた。まるで絵本の1ページのようなアーチをくぐると、草垣に囲われた小さな空間が現れた。草垣の足元にある花壇には、知っているものから知らないものまで多様な種類の小さな花々が控えめに咲いていた。
「…綺麗ね。」
ころんと小ぶりで可愛らしい鈴蘭に、薄紅色に染っているシクラメン、あそこに咲いているのは…絵本で見たことがあるクリスマスローズだろうか。
私はしゃがみこみ、クリスマスローズに触れようと手を伸ばす。だが、繋いでいる手をぐっと上に引かれてしまい花に触ることは出来なかった。
「…何?」
じとっとユリウスを見上げれば、彼は困ったように小さな笑みを浮かべた。
「むやみに触らないで下さい。」
「どうして?」
「クリスマスローズには毒があるので、触れてしまうと痒みが出てきてしまうかもしれません。」
「えっ、」
毒という言葉に驚いた私は咄嗟に立ち上がり、クリスマスローズから距離をとる。
「クリスマスローズだけでなく、ここで育てている植物のほとんどに毒があります。」
「…す、鈴蘭にも…?」
「勿論。可愛らしい見た目とは裏腹に、その葉には青酸カリの15倍もの強い毒を含んでいます。」
「そんな…」
足元で無害そうに咲いている鈴蘭に、そのような凶悪な毒が含まれていることにショックを受けた。
「植物は人間の為に生まれた訳ではありませんからね。この見た目も決して人間を喜ばせるものではありません。そもそも植物は人類が誕生する前から……あ、姉上の足元に咲いているジギタリス。この花の毒には強心作用があるので昔は薬用として…」
「ど、どうして、毒草だらけの所に連れてきたのよっ!嫌がらせのつもり!?」
呑気に毒花のうんちくを披露しようするユリウスに詰め寄る。そんな私にユリウスは涼しい顔でどうどうと宥めた。
「嫌がらせではありません。」
「ならどうしてよ!」
「言ったでしょう?僕も貴女も気分転換が必要だと。」
「言ってたけど…危ないじゃない!」
「大丈夫ですよ。触ったり食べたりしなければ、害はありません。」
「………本当に?」
疑いの眼差しを送れば、ユリウスは苦笑いを浮かべた。
「本当ですよ。でなければ、ここに貴女を連れてきません。」
「………。」
「ただ純粋に綺麗だと思ったから、貴女をここに連れてきたんです。」
彼は繋いだ手に、ぎゅっと力を込めてきた。それが意図的なのか、それとも無意識なのかは分からない。
「……気に入りませんでしたか?」
月明かりに照らされた彼の頬の上には、伏せられた睫毛の翳りが落ち、その姿は酷く不安げなものに見えた。
「…いえ。」
視線をユリウスから足元に咲いている毒花に向ける。
「綺麗よ。とっても。」
毒があると知っても、変わらず足元に咲いている毒花はどれも綺麗で美しいと思った。
溜息混じりにそれを伝えると、ユリウスの瞳に安堵の色が滲む。その反応を見て、内心苦笑いをした。
私は彼の切なげな顔に弱い。それは、この10年間、何の疑いもなく彼と家族として過ごしてきてしまったのが原因だろう。
義弟が悲しそうにしているならば、姉としては何としてでも元気づけてあげたい、そういった気持ちが心の深い所に根付いてる。なので今の私はパブロフの犬のように、心理状態とは無関係に彼が喜びそうなセリフを選んでいる。厄介なこと、この上ない。
「奥にもまだ姉上にお見せしたい花があるんです。」
「そうなの?」
「はい。毒はありますが、それでも…」
「触ったり食べたりしなければ安全なんでしょう?」
「…!は、はい。」
「だったら見たいわ。」
「ありがとうございます。」
…ほら、嬉しそうに笑った。
私は彼が喜びそうなセリフが分かる。だが、彼が何を考えているのかは分からない。
昔から月の光は人間の心を惑わすと言われている。本当は呑気に散歩なんてしている場合ではないのに、未だに繋がれた手を振りほどけずにいるのは月の光のせいなのか、それとも彼に対するパブロフの犬のような条件反射なのか…。どちらにせよ、今の私は正気ではない。完全に理性が溶けている。
―本当、どうしようもないわね…。
彼に手を引かれるまま、温室の奥へと足を進めた。




