121話
エリザベータside
ユリウスがシューンベルク邸に来てから数日経ったある日の事、私の乳歯が抜けた。しかも前歯2本同時に。
父はレディへの第1歩だ!と喜んでいたが、私にとっては悲劇以外の何物でもない。これが原因で、あまり宜しくなかった滑舌が更に悪化してしまい、可愛い義弟の名前をきちんと呼ぶことが出来なくなってしまったのだ。
「ユ、ユリウしゅ!…ユリウしゅ…ユリッ……ユリウ……ちゅ…。…う~っ!!」
悔しさのあまり地団駄を踏みながら癇癪を起こす私を、困り顔のユリウスはどうどうと宥める。
「エリザ、落ち着いて。僕は気にしてないよ。」
「私が気にしゅるのーっ!」
「…。」
馬鹿な私は病み上がりのユリウスに八つ当たりをする。そんな姉弟のやり取りを見兼ねた父は、荒ぶる私にある提案を持ちかけた。「ユリウスのことを呼びやすい愛称で呼んでみたらどうかな。」と。幼い私にとって、それはとても素晴らしい名案のように思えた。すっかり機嫌を直した私は、あーでもないこーでもないとユリウスの愛称を考えた。それはペットの名前を決める時の感覚に似ていたと思う。
「あっ、しゅ…ス、スノーホワイト!スノーホワイトが良い!」
〝スノーホワイト〟
それは、お気に入りの絵本に出てくるお姫様の名前だ。
幼い頃のユリウスは、その絵本に出てくるお姫様のように可愛らしかったので、彼にはピッタリな愛称だと思ったのだ。
「…エリザがそう呼びたいのなら、僕は構わないよ。」
そう言うユリウスはあからさまに嫌そうな顔をしていたが、当時の私の脳内はお花畑だったので、彼の微妙な表情の変化に気付くことはできなかった。それには流石の父もユリウスに同情したのか、すぐさま助け舟を出した。
「エリィ。ユリウスっていう名前はね、この国を創ったとても凄い人の名前なんだよ。」
「凄いって、どれぐらい凄いの?」
「パパが逆立ちで邸の中を1周するぐらい。」
「しょれは凄いわっ!!」
「そうだろう?だからね、その凄い名前の原型が無くなってしまうのは、パパは勿体ないなぁーって思うんだ。」
「えぇ!しょれは勿体ないわっ!」
父のなんとも言えない例えに考えを改めた私は、空っぽの頭を一生懸命働かせながら再びユリウスの愛称を考え始めた。
それを父とユリウスは心配そうに見守る。特にユリウスは、私がどんな名前をつけるのか気が気ではなかっただろう。
「ユ…ユ…ユリ…ユリリン…?…んー…あ…ユーリ……ユーリは?」
そう言って父とユリウスを交互に見れば、2人はほっと安堵の息を吐いた。私が提案した愛称が、常識の範囲内だったので安心したのだろう。
ユリウスは口元に控えめな笑みを浮かべた。
「エリザがそう呼びたいのなら…良いよ。」
「呼びたい!じゃあ今日からユリウシュ…のことをユーリって呼ぶね。」
「うん、わかった。」
こうして私は、ユリウスのことを〝ユーリ〟と呼ぶようになったのだ。あまりにも昔過ぎて忘れていたが。
「…あれ?」
「どうしたの、エリザ。」
「ねぇ。ユーリは何時から敬語で話すようになったんだっけ?」
「…。」
「…ねぇ。ユーリは何時から私のことを〝姉上〟と呼ぶようになったんだっけ?」
「…。」
幼き頃のユリウスは小さく笑った。
「それは、ね…」
――ドサササッ
「―っ…、」
屋根に積もった雪が雪崩落ちる音に、私はピクリと睫毛を震わせた。
「……ん……」
微睡みから目を覚ました私は、寝惚けまなこを擦りながら上体を起こす。
すると、そこは見知らぬ部屋のベッドの上だった。
「………えっ…」
一瞬にして夢から覚醒した私は、部屋全体を見渡す。
……。
とても広い。邸にある自室が2つほど余裕で入ってしまいそうな広さだ。
何処ぞの王族が眠りに就くような豪奢な天蓋付きベッドを中心に、部屋のあちこちには白を基調とした上品な家具が配置されている。奥の方に見えるのは……キッチンだろうか。トイレや浴室に繋がるような扉まである。
部屋には嵌め殺しの大きなアーチ窓が1つしかなかったが、そこから朝日がたっぷりと差し込み、部屋全体を明るく照らしていた。だが残念なことに、その窓は曇りガラスの為、外の様子を見ることは出来ない。
「ここは…」
「お目覚めですか、姉上。」
「―ひっ!?」
突然、目の前に音もなく現れたユリウスに驚いた私は、びくっと飛び退いた。ベッドがもう少し小さかったら、転げ落ちていただろう。
「姉上は朝から元気ですね。」
意味ありげに含み笑いながら、こちらに歩み寄るユリウスの顔を見た瞬間、昨夜の記憶が一気に脳裏を駆け巡った。
「あっ、貴方…熱は?だ、大丈夫なの…?」
「えぇ、お陰様で。」
涼しい顔でそう答えるユリウスの顔色は、確かに昨夜見た時よりも良くなっている。
「…姉上の方こそお身体は大丈夫ですか?昨晩はだいぶ無理をさせてしまいましたから。」
まるで彼との間に何らかの過ちがあったような言い方に、思わず顔を顰める。
揶揄……いや、これは嫌味だろうか。ユリウスを看病すると豪語していたくせに、呆気なく睡魔に負けて寝てしまった私に対しての。
だがそれが揶揄であれ嫌味であれ、このような戯言は聞き流すのに限る。まともに取り合えば、こちらが損をするだけだ。
「そんな事よりも、ここはどこなの?」
「ここは帝都の外れにある、公爵夫人……姉上の母君が生前に療養していた屋敷です。」
「…お母様が?」
私の母は、私を産んで直ぐに亡くなっている。元々、身体が弱い人だったらしい。そんな母が療養していた屋敷があったなんて話しは初耳だ。目を丸くする私に、ユリウスは「えぇ。」と頷いた。
「以前から父上に、ここの管理を任されておりまして。…まぁ、管理といっても大したことはしていませんけどね。この屋敷のほどんどが物置部屋ですし、まともに機能している部屋はここと、姉上が僕を看病してくれた部屋だけなんです。」
私が屋敷を調べた時にはこんな部屋はなかった。ということは、ここは昨夜過ごしていた怪しさ満点の部屋がある階層ではなく、また別の階層なのだろう。つまり、この屋敷は最低でも2階建て。部屋の数や広さから、決して小さな屋敷ではないことがわかる。
ユリウスは次期シューンベルグ公爵だ。それを見据えて、父が自分の仕事の一部をユリウスに任せていることは、別におかしくはない。
だが〝父〟という単語に、さぁーと血の気が引くのを感じた。
「は、早く…帰らないと…」
「どうしてですか?」
「どうしてって…お父様が心配しているわ…!」
何故この人はこんなにも平然としているのだろう。思わず語尾に力が入る。
私のことはもちろんのこと、父はユリウスのことも溺愛している。その溺愛している子供2人が昨夜突然姿を消したのだ。騒ぎになっていない方がおかしい。
それに、この事が世間に知られたら?
人の粗探しが趣味のような貴族達にとっては、格好の餌だ。あることないことを勝手に騒ぎ立てられて、骨の髄まで食い物にされる。私やユリウスだけじゃない。父の顔にも泥を塗ることになり、今まで築き上げてきた父の立場を危うくする可能性だって大いに有り得る。
私達の軽率な行動が、父の人生を狂わせてしまうのだ…!
どうしようと頭を抱えながら俯くと、ユリウスが優しく声を掛けてきた。
「大丈夫ですよ、姉上。僕達がこの屋敷に居ることは、既に父上に伝えてありますから。」
「…え…」
いつの間に…と驚き顔を上げれば、ユリウスにニコリと微笑み返された。少し前までは純粋に可愛らしいと思っていたこの笑顔も、今となってはこの上なく胡散臭い。
彼の言葉を鵜呑みにできるほどの信頼は、彼がアルベルト様だと分かった瞬間から木っ端微塵に粉砕されている。
「もしそうだとしても、顔ぐらいは見せないと…」
そう言いながらベッドから降りようとした。が、ヒヤリと右足首に違和感を覚えた私は身を固くする。重くて固い、この感触は…。
恐怖に近い感情に掻き立てられた私は、掛け布団を跳ね除けた。
「…なっ…!?」
私の右足首には、ずっしりと重い鎖付きの足枷が嵌められていた。その鎖の先は、ベッドのフットボードに繋がれている。咄嗟に外そうとしたが、頑丈な造りのようでびくともしない。それでもガシャガシャと鎖を鳴らす私を見て、ユリウスはせせら笑った。
「無駄ですよ。それは鍵がなければ外せません。」
「貴方、自分が何をしているのか分かっているの…!?今すぐこれを外しなさい…!」
「外す必要はありません。だって姉上は今日からここで過ごして頂きますから。」
「………………は?」
ここで、過ごす…?
この男は何を言っているのだろうか。
彼の言葉が理解出来ずに、ぽかんと口を開けたままユリウス見つめていると、彼はニコリと微笑んだ。
「貴女は目を離すと何をしでかすか分かりませんから。こうして繋いでおけば何処にも行けませんし、わざわざ危険に飛び込むような馬鹿な真似も出来ません。……ね、これなら僕も貴女も安心でしょう?」
「………。」
開いた口が塞がらない。
私にとって今、安心を脅かしているのはユリウス本人だというのに。
あまりにも身勝手で傲慢な彼の考え方に、ふつふつと怒り湧いてきた。
「ふざけないで頂戴。こんな勝手なことが許されると思っているの…!?」
「ふざけているつもりはありませんよ。それに父上の了承は既に得ています。」
「嘘を言わないで。お父様が許すわけがないわ。」
「そう言うと思っていました。」
小さく肩を竦め苦笑いをしたユリウスは、懐から封筒を取り出し、私に差し出した。
「…!」
その封筒の差出人の欄には父の名前が記されていた。
私は躊躇しながらもその封筒の受け取り、ユリウスに促されるまま、中に入っていた手紙に目を通した。
「………ウソ…」
その手紙には『暫くその屋敷で暮らしなさい。何かあればユリウスに。』という内容が父の直筆で綴られていた。最後にはご丁寧に当主しか使えない印鑑まで押してある。普段この印鑑は厳重な金庫の中に保管されており、父以外の人間が使用するなんてことは絶対に有り得ない。
手紙を握ったまま唖然としていると、ユリウスは不遜な笑みを浮かべた。
「衣食住のことはご心配なく。貴女がこの屋敷に居る限り、不自由な思いはさせません。…あぁ、何か足りない物や設備の不満がありましたら遠慮なく僕に言ってくださいね。僕は貴女の弟。変に遠慮する必要はありません。」
「……どうして…こんなことをするの…?」
やっとのことで絞り出した声は、痛々しいほどに細く震えていた。そんな私を見ても何とも思わないのか、ユリウスはこてんと首を傾げて見せた。
「弟として貴女を守るのは当然でしょう?」
一体どこまでが演技でどこからが本音なのか。いや、最初から全てが嘘なのかもしれない。
どれだけシトリンの瞳を見つめても、その瞳からは彼の意図を読み取ることはできなかった。
第7章「温室栽培」完




