116話
1度口に入れたものを吐き出すだなんて、淑女としてあるまじき行為だ。
だが、そんなプライドを守る為に死んでしまったら意味が無い。
私は思いっきりユリウスの身体を突き飛ばし、口の中に流し込まれた液体を吐き出した。
「…カハッ……ぐっ…、ゴホッ…ッ…ゴホッゴホッ…ッ」
私は激しく噎せこみながら、その場にしゃがみ込む。運悪く、口の中に残った一雫が気管に入ってしまったのだ。
咳き込む度に口から鮮血が飛び散り、床や夜着が真っ赤に染まっていく。
「…あ、姉上…大丈夫ですか…?」
私の前にしゃがみ込んだユリウスは戸惑いながら、何度も咳き込む私の背中をぎこちない手つきで撫でてきた。
自分でやったくせに何が大丈夫ですか、だ。いくら私を殺す為だとはいえ、自分の血液を口移しで飲ませるだなんて、正気の沙汰とは思えない。
私は俯いたまま、その腕を払い除けた。
「…さ…ゴホッ…さ、触ら、ないで…っ…」
「姉上…」
「前に…も、言ったでしょう?何でも…ゴホッ……貴方の思い通りになると…思わないでって…」
何度か咳を繰り返していくうちに、少しづつ呼吸が落ち着いてくるのがわかった。
「…どうして…」
ユリウスが力なくポツリと呟く。
「どうして、そんなにも嫌がるのですか…?」
そう言う彼の端整な顔には、深い憂いの色が滲んでいた。いつの間にか元に戻っているシトリンの瞳も切なげに揺れている。
先程の高圧的な態度は何処へやら。この切り替えの早さと演技力には呆れを通り越して感心すら覚える。
そうやって同情を誘い、また私を騙すつもりなのだろう。だが、もう騙されない。そういう意味を込めて鋭く睨みつければ、彼は顔をくしゃりと歪めた。
「雑草には身体を許した癖に、どうして僕は駄目なのですか…?……僕だってあの雑草と同じ……なのに……」
ユリウスの言葉の最後のほうは、ほとんど独り言のような状態で、よく聞き取れなかった。だが、彼が何を言いたいのか、何となく理解した私は、カッと憤慨した。
彼は、私と殿下がなにか関係を持ったのだと誤解しているのだ。
脱衣場から出てきた私に彼は「男漁りにでも行くのか?」と侮辱的な言葉を投げつけてきた。きっと彼は、私のことを誰にでも身体を許すような軽い女だと思っているのだろう。いつからそのように思われていたのか。
もしや300年前から?
私に男性経験はない。
それはエリザベータ=コーエンであった前世でも、エリザベータ= アシェンブレーデルとなった今世でもそうだ。
300年前、一夜限りの愛を楽しむ貴族が多かった。出席した夜会の時に何度かそういう誘いを受けたことはあったが、全て断ってきた。なぜなら、私は身も心もアルベルト様に捧げると決めていたから。いつも忠実で貞淑な貴方の妻になりたいと思っていたから。
今思えば、なんて愚かなことを考えていたのだろうか。こんな人の為に捧げるものなど何一つない。
ユリウスは私のことを娼婦や何かと勘違いをしている。だから心ない言葉を吐くことが出来るのだ。
なんて最低な男だろう。
この人に身体を捧げるぐらいなら、舌を噛みちぎって自害した方がマシだ。
「…ケホッ…。…私と殿下の間には何もないわ。」
「…。」
「だから、それ以上私たちを侮辱したら許さない…!」
ユリウスは以前から殿下のことをよく思っていない節があった。その憂さ晴らしの為だけに、私を使うだなんて、まるで道具のようではないか。
「…何も…ない…」
独り言のように呟いたユリウスは唐突に私の肩に顔を埋めてきた。
「―ちょっ、」
また何かしてくるのかと身構えたが、どうも彼の様子がおかしい。
首筋にかかる息は乱れ、布越しに感じる彼の体温は不穏な熱を帯びていた。
…もしや、湯冷めをして熱が出てしまったのだろうか。昔からユリウスは、こうして熱を出すことがよくあった。
「だ、大丈夫?」
ぐったりと私にもたれかかっているユリウスを引き剥がせば案の定、酷い顔色が現れた。額には汗が滲んでおり、目も虚ろだ。流石にこれは演技ではないだろう。すぐさま暖かい部屋とベッドに運ばなければ。
―――……いや、待てよ。これはチャンスなのでは?
今なら確実に逃げることが出来る……はず。こんなにも具合が悪そうなのだ。私を追いかけることなんて出来ないだろう。それに、この好機を逃せば、私は一生ここから出られないかもしれない。
彼の熱い手が私の腕を掴む。だが、その手はすぐ振り解けてしまえるほどに弱々しい。だから、彼から逃げることは簡単だ。
「……。」
私は腰を上げた。すると、彼の手は呆気なく離れていった。彼に掴まれていた所がじんわりと熱を帯び、そしてすっと冷えた。
支えを失い、力なく横たわるユリウスを、私は静かに見下ろした。




