111話
赤く色づいた太陽が西の空に傾き、積雪が淡い橙色に染まった頃、馬車は帝都の大通り沿いにある高級宿屋の前で停まった。
コートに付いているフードを深めに被った私は、御者の手を借り馬車から降りる。すると、ズボッと鈍い音を立てて冬用のブーツが雪に沈んだ。
―あら?
この大通りは交通量が多い為、毎年綺麗に雪かきされているはずなのだが……。今年は珍しいことに、整備されずに手付かずのままだった。それを不思議に思ったが直ぐに、今年の冬は例年と比べて忙しかったことを思い出した。きっと、それで雪かきが遅れているのだろう。
馬車から積雪の上に降り立った私は、目の前にそびえ立つ高級宿屋を見上げる。この宿屋こそ、エーミールの目的地なのだ。
移動中に話を聞けば、なんと宿代は既に例の友達が支払ってくれたらしく、エーミールは身一つで来ていいよ、言われていたそうだ。
高級宿屋の宿代なんて、気軽に支払えるものでは無い。一体、エーミールの友達は何者なのだろうか。
名も知れぬエーミール友達に思いを馳せていると、後ろでしっかりとコート着込んだエーミールが馬車から降りようとしていた。
御者がエーミールに手を貸そうとするが、彼は「じ、自分は大丈夫です。」と謙虚に断っていた。
『結構積もっているから、足元に気を付けて。』
雪に慣れていないエーミールに注意を呼びかける。
―――だが、遅かった。
『うわっ!?』
馬車から積雪の上に降り立ったエーミールは、お手本のように雪に足を取られ、身体のバランスを崩してしまった。そしてそのまま前のめりに倒れてくるエーミールの身体を、私は咄嗟に両腕を伸ばし抱き止めた。
「うっ、」
勢いのあまり一緒に後方に倒れそうになるが、何とか気合いで持ち堪えた。
私はホッと安堵の息を吐く。
『エーミール、大丈夫?』
エーミールの肩を支えながら、上を見上げると、彼の顔が思っていたよりも高い位置にあることに気が付いた。
普段、猫背で気付かなかったが、彼の身長は平均よりもありそうだ。
猫背をなおし、ワカメのような前髪をどうにかすれば、きっと素敵な紳士が出来上がるだろう。…多分。
そんなことを考えていると、エーミールの身体が突然、ワナワナと震え出した。そして――
『ひぇぇぇぇぇぇえ!』
生娘のような悲鳴を上げたエーミールは、まるで小魚のように飛び跳ね、そのまま冷たい積雪の上に倒れ込んでしまった。
思いもよらぬエーミールの俊敏な動きに一瞬呆気にとられたが、私は慌ててエーミールに手を差し伸べた。
『大丈夫?』
『あ、うん、大丈夫…。急に、ごめん。』
エーミールは素直に私の手を掴み、立ち上がった。すると、頭に被っていた雪がズルリと顔に滑り、エーミールは『冷たいっ。』と女の子のような悲鳴を上げた。
「ふふっ」
先程から雪に遊ばれているエーミールに、思わず笑ってしまった。
『……笑わないでよ。』
クスクスと笑う私を見たエーミールは、初めて不貞腐れたような声を出した。そんな態度をとられたら、ますます笑いが込み上げてくるではないか。
『ごめんなさい。…ふふっ。』
『もう…。』
エーミールの服に付いている雪を手でポンポンと払いながら、雪道の歩き方を説明していると、荷馬車の方からベルが駆け寄ってきた。その腕には、なにやら小さな布袋を抱えている。
「お二人共、長旅お疲れ様です!」
「ベルもお疲れ様。…その布袋は?」
「あ、これはですねぇ…出発前に金髪ゴリラ…じゃなかった。ビアンカさんからの預かっていまして…」
「ビアンカに?」
「はい!帝都に着いたら、エーミール君に渡してねって。」
そう言ってベルはエーミールに小さな布袋を渡した。受け取ったエーミールは『なんだろう?』と首を傾げながら、布袋を封を開ける。
『―っあ!』
『ど、どうしたの?』
『お金…』
『え?』
『お金が入ってた…。』
布袋の中を覗き込めば、エーミールの言う通り、ノルデン帝国の硬貨が何枚も入っていた。これぐらいあれば、数日は何とかなるだろう。
あの時、ビアンカはお金の貸し借りはしないと言っていたのが……。
「素直じゃないわね。」
「本当ですねぇ。」
私とベルは、クシャミをしているであろうビアンカを思い浮かべてクスクスと笑った。
『お、俺、デューデンに帰ったら、直ぐにビアンカさんの所にお礼をしに行くよ。』
エーミールは硬貨が入った布袋を大切そうに、胸にぎゅっと抱いた。
『きっと喜ぶわ。』
『勿論、君にも。』
『…!あ、ありがとう。』
旅は道連れ世は情け。
私たちは『またね。』と再会を約束し、笑顔で別れた。
*****
『早く仲直りができるといいね。』
ベル達と一緒に買い物に行く私の耳には、エーミールの小さな呟きは届かなかった。
*****
大通り沿いでの買い物を終え(ビアンカからのおつかいも含む)、邸に辿り着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
「お待ちしておりました、お嬢様。」
「ブルーノ!」
温かく出迎えてくれたのは、家令のブルーノだ。1週間しか離れていないのに、酷く懐かしく感じる。
「元気そうで安心しました。お怪我は、もう大丈夫なのですか?」
「えぇ、大丈夫よ。ブルーノ達はどう?変わりはない?」
「はい。皆、元気ですよ。」
「あぁ、良かった。…お父様は?」
「旦那様はお仕事で、今は邸を離れております。」
「あら、そうなの…。」
「お嬢様に会えないことを、とても残念がってましたよ。」
会えないのは寂しいが、仕事ならば仕方がない。
父から、私が荷物を取りに来るという連絡を受けたブルーノは、私達が到着する前に、必要なものを全て揃えてくれていた。
仕事が早すぎるブルーノを心の中で拝んでいると、そのブルーノが控えめに話しかけてきた。
「…あの、お嬢様。」
「なぁに?」
「お嬢様にご相談したいことがありまして…」
「相談?」
「えぇ。坊ちゃんのことです。」
「…。」
急激に心が冷え込む。
顔を強ばらせた私を見て、ブルーノは困ったように眉を下げた。
「最近、坊ちゃんが酷く落ち込んでいましてね…。」
「…そう。」
「お二人が仲違いをしているのは、旦那様から聞いております。ですが……どうか、坊ちゃんに会って下さいませんか?」
「………。」
落ち込むだなんて、あの人らしくない。
きっと、姉と喧嘩をして落ち込む弟を演じているのだろう。今までも、そうやって周囲の同情を買ってきた人なのだから。
ちゃんと分かっている。
分かっているのに…。
「…分かったわ。少し、様子を見てくる。」
どうして、こんなにも彼のことが気になるのだろうか。彼に会いに行けば、殺させるかもしれないというのに。
私の心情なんて知るはずのないブルーノは、パァと顔を綻ばせ「よろしくお願いします。」と言って頭を下げてきた。そんなブルーノに苦笑いをするしかなかった。
*****
重い足取りで、あの人の部屋に向かう。
そんな私の頭の中を掻き乱していたのは、ビアンカの言葉だった。
―――『アタシみたいに、手当り次第当たって砕けた方が、人生得なんだから。』
やらない後悔よりも、やる後悔。確かに、彼女の言う通りだとは思う。
だが私の場合、砕けた先にあるのは〝死〟だけだ。ビアンカは砕けても拾ってあげると言ってくれたが、本当に骨を拾ってもらうことになってしまう。
分かっているのに、何故この足は止まらないのか。
あの人は、いつでも私を殺せる強い力を持っている。それなのに、この1週間なにもしてこなかった。それどころか、この10年間、私を殺すチャンスはいくらでもあったはずだ。
…彼の目的は、私を殺すことではない?
ただの気まぐれだと言われてしまえばそれまでだが、私は僅かな可能性に希望を見出していた。
1週間前と比べれば、今の私は冷静だ。きっと、落ち着いてあの人と会話が出来るはず。
遅かれ早かれ、あの人とは話しをしなければならない。それは、ずっと頭では分かっていたことだ。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、あっという間にあの人の部屋の前まで辿り着いた。
扉と向き合った私は、自身の格好を見下ろした。今の私は、ビアンカが選んでくれた若草色のワンピースを着ている。勝負服…というよりも、願掛けの気持ちの方が強いかもしれない。そんなワンピースの下に隠れているナイフを、布越しに触れた。このナイフは出発前にビアンカが持たせてくれた物だ。最悪の場合、私はこれを躊躇なく使うつもりだ。これを使えば、魔力のない私でも逃げる為の隙を作ることが出来るだろう。
太ももにちゃんとナイフがあることを確認した私は、深呼吸をひとつしてから扉をノックした。
「…。」
しばらく待ってみたが、中からの反応はなかった。少し拍子抜けをした私は、もう一度扉を叩く。だが、はやり反応はない。
もしや部屋には居ないのだろうか、そんなことを考えながらドアノブを捻れば、扉は呆気なく開いてしまった。
唾液を呑み込み、恐る恐る部屋の中に足を踏み入れた瞬間、噎せ返るような甘い匂いが私の鼻腔を襲った。一体何の匂いだろう。部屋の中は薄暗く、匂いの元を確認することは出来ない。
灯りをつけようと壁を漁っていると、私の願いを聞いてくれたかのように突然部屋が明るくなった。どうやら、雲に隠れていた月が顔を出してくれたらしい。月明かりが窓から差し込み、部屋を中を淡く照らす。すると、床に何か小さな欠片のようなものが、いくつも散らばっていることに気が付いた。目を凝らし良く見てみると、それは無惨な姿に成り果てたカモミールだった。そのカモミールは、食い散らかしたかように、部屋のいたるところに散らばっている。
何故こんなところに、カモミールが。
―いや、それよりも……。
私は、机に突っ伏している人影を見つけた。どう考えても、ユリウス本人だろう。
足音を立てずに彼に近づいて、耳を耳を澄ませば、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「…。」
私は一気に脱力した。勇気を振り絞って、会いに来たというのに…。
私が荷物を取りに帰ってくることは、父から聞いているはず。なのに、こうして惰眠を貪っているだなんて……。所詮はその程度だったということなのだろうか。こんなにも必死になって馬鹿みたいだ。ふつふつと湧き上がる感情を必死に押さえ込んでいると、ふとユリウスの手元にある本に目を奪われた。見覚えのある背表紙…。これは…。
思わず、その本に手を伸ばす。
が、あと僅かで届かなかった。何故なら、突然伸びてきた手に、手首を掴まれてしまったからだ。
ハッとした時には、もう遅かった。
「…あね、うえ?」
とろんと眠気の残った声で、ユリウスが私を呼ぶ。だが、私はそれに答えない。いや、答えられなかった。突然のことに、私は彼の蜂蜜色の瞳を見つめることしか出来なかった。
「どうして貴女がここに…だって、貴女は……」
空いている手で顔を覆ったユリウスは、なにやら口の中でブツブツと呟いている。
「…まぁ、いいか。」
最後に、そう呟いたユリウスは、ゆっくりと顔を上げた。その顔は、迷子になった子どもが母親を見つけた時のような安堵感と、世界に失望したような絶望感で、奇妙に歪んでいた。
ガタリと椅子が倒れる。倒れた椅子など気にする様子もなく、立ち上がったユリウスはゆっくりと私に向き合う。
そして―――
「幻影でも構わない。」
月明かりに照らされた美しい人は、私を両手でしっかりと抱き締めた。
まるで、何かから守るかのように。あるいは、自らの手で壊そうとするかのように。
縋り付くような手は、酷く危ういものに感じた。
―――この時の私は、気づいていなかった。
全てが遅すぎたことに。
少しでも早く、彼等と向き合っていれば、あの悲劇を防ぐことができただろうか。
後悔、後悔、後悔…
あぁ、私はあと何度、後悔をするのだろう。
それに気付くのは、いつだって全てが終わった後なのだ。
この瞬間、歯車は悲劇に向けて回り出した。
―――もう後戻りは出来ない。




