99話
くらり、くらり、と世界が廻る。
身体の芯は燃えるように熱いのに、手足は氷のように冷たい。
熱に侵され限界を迎えた私は、ぐったりと父の胸に身を預ける。もう、自力で起き上がることは出来なかった。
「熱が上がってしまったようだね。」
そう言って父は私をそっとベッドに横たわらせた。
「色々あって疲れただろう。今日はもう休みなさい。」
ぼんやりとした視界に、父の心配そうな顔が映り込む。その顔に申し訳ない気持ちが押し寄せた。
「迷惑かけて、ごめんなさい…。」
蚊の鳴くような声で謝れば、父は優しく笑った。
「迷惑だなんて思っていないさ。」
肩まですっぽりとシーツを被せてくれた父は、私の頭を撫でる。その大きくて温かい手が、とても心地が良い。
「何でも1人で抱え込まないで、もっとパパに頼って甘えても良いんだよ。」
父が優しければ優しいほど自分の情けなさを痛感し、泣きたくなった。
どうして私は、いつも優しい人たちに迷惑をかけてしまうのだろう。
いっその事、この世界から消えてしまい。
「何も心配しなくていい。エリィが眠るまで傍にいるから、安心しておやすみ。」
父の優しい声を聞きながら、私は目を閉じる。
本当は、こんな所で寝ている場合ではないのかもしれない。
それでも、今は何も考えたくなかった。せめて、もうしばらくは。
熱泥に身を投げるようにして、私は深い眠りに落ちた。
*****
『とある小さな町で、小さな猫と大きな猫が一緒に暮らしていました。
大きな猫は、小さな猫を大切に育てていました。
「こんな下品なモノは、君に見せられない。」
「こんな馬鹿なモノを見たら、馬鹿がうつる。」
「こんな悪いモノを見たら、真似をしてしまう。」
そう言って、大きな猫は小さな猫を『悪いもの』から遠ざけました。
小さな猫がとても、とても、大切だったから。
しかし……
小さな猫は、何が『悪いもの』なのか、わからないまま大きな猫になってしまいました。
何も知らない大きな猫は、ある日、悪魔と出会いました。
悪魔は、大きな猫を悪い遊びに誘います。
大きな猫は、その誘いに乗りました。
何も知らない大きな猫にとって、それがとても魅力的に見えたからです。
善悪の判断がつかない大きな猫は、悪行を繰り返していくうちに、いつの間にか悪魔になってしまいました。
そして、
悪魔はかつて自分を育ててくれた大きな猫を喰らってしまいましたとさ。』
ノルデン童話集 『小さい猫』より
*****
娘は気を失うように眠りについた。その顔には疲労の色が濃く現れている。陛下の前で、相当無理をしていたのだろう。
…いや、娘は学校に通い出してから、ずっと無理をしている。以前の娘は、こんなにも心を押し殺すような子ではなかった。一体何が原因で変わってしまったのか、聞いたとしても何も答えない。誤魔化されるだけだった。
「…そんなに急いで大人になろうとしなくてもいいのに。」
突然、私の手をすり抜けるようして、親離れをしてしまった娘。子供の成長は素直に嬉しい。だが、それに寂しさを感じてしまうのは、親のエゴなのかもしれない。
娘はもう16歳。そろそろ子離れをしないといけないことは、分かっている。だが、手放せない。永遠に私の傍に置いておきたい。
最愛の人が残してくれた、大切な娘。
病弱だった妻から生まれてきてくれたことは、私にとって奇跡なのだ。だからこそ、何よりも大切にしたい。また大切な人を失ってしまえば、今度こそ自分は狂ってしまう。
妻の忘れ形見である大切な娘を守るために、私は害のあるもの全てを遠ざけてきた。
―――しかし…
時折、昔に聞いた童話が頭をよぎる。『小さな猫』の話だ。私がやっていることは『大きな猫』と同じ。いつか娘も悪魔になってしまうのだろうか。…いや…そうならない為にも、私は娘の傍にあの子を置いたのだ。
私は遠ざけることしか出来ないけれど、あの子ならば…、
私はあの子を信じている。
―――コンコン、
突然、室内に扉をノックする音が響く。
「閣下、往診の時間でございます。中に入ってもよろしいでしょうか。」
扉の向こうから皇宮医の声がした。私は一言、入室の許可を与え、初老の皇宮医を病室に招き入れる。
「お嬢様の容態はいかがですか?」
「先生が言っていた通り、熱が上がってしまったようだ。」
「そうですか…。さっそく診てみましょう。」
ベッドの傍らまできた皇宮医は、娘の手を握った。皇宮医は魔力をもって患者を診る。
医学の知識がない私は、診察を静かに見守ることしか出来なかった。
暫くして、皇宮医は娘の手を離す。
顔を上げ私を見た皇宮医は、安心させるような笑みを浮かべた。
「適切な生体反応ですので、これぐらいの発熱ならば解熱剤を使用することも無いでしょう。状態も安定していますし、このまま安静にしていれば明日の朝には、だいぶ楽になると思いますよ。」
その言葉を聞いて、安堵の息を漏らす。最初に重症ではないので大丈夫です、と言われていたのだが、やはり心配なのだ。
「閣下も少し休まれた方がいい。ここ最近、まともに寝ていないでしょう?」
「いや、私は…」
「心配なのは分かりますが、それで貴方が倒れでもしたらお嬢様が悲しみますよ。」
「…。」
医者の目を誤魔化すことは出来ないようだ。確かに彼の言う通り、最近仕事が忙しくてまとまった睡眠をとっていなかった。
「…わかったよ。少しここで仮眠をとらせて頂く。」
「えぇ。是非そうして下さい。…では、僕はそろそろ失礼させて頂きますね。」
「あぁ、ありがとう。」
最後に穏やかに微笑んだ皇宮医は、病室をあとにした。
再び訪れる静寂。
傍らで静かに眠る娘に微笑みかけてから私は腕を組み、目を閉じる。
そして、残っている仕事のことを考えながら、いつの間にか私は眠りについた。
―――とても、懐かしい夢を見た。
最愛の妻。レオノーラの夢。
『女の子だったら、絶対にエリザベータよ。』
レオノーラは大きなお腹をさすりながら、そう断言する。
『それは…女帝からとったのかい?』
『もちろんよ。』
そう言って強気な笑みを浮かべた妻に苦笑いをした。
エリザベータ=ブランシュネージュ=ノルデン。
ノルデン帝国歴史上、最初で最後の女性皇帝の名である。
『私の憧れなの。カールも知っているでしょう?彼女は、愛も権力も美も金も地位も名誉も……欲しいもの全てを手に入れた強い女性の象徴よ。この子にもエリザベータのように全てを手に入れて欲しい。』
身体が弱い為、色々と我慢を強いられてきた妻には、そういった気持ちが強いのかもしれない。
私は『なるほど。』と頷いた。
『じゃあ、男の子だったら?』
『男の子だったら…そうねぇ…』
少し考えるようにして天井を仰いだ妻は、はっと閃いたようにして私の方を見上げる。
その顔には、満面の笑みを浮かべていた。
『ユリウス。ユリウスが良いわ。』




