96話
カールside
今から10年前。
花の蕾はまだ固く、暁の風は真冬の冷たさを持っていた早春のある日。皇帝陛下からパパに、ある命令が下ったんだ。『怪しい動きをしている輩が居るから、見張って欲しい。』ってね。最初は、面倒から断ろうとしていたんだけど、その輩の名前を聞いて気が変わったんだよ。
―――フェルシュング伯爵。
まぁ、その爵位は返還されてしまって今は存在しない家なんだけどね。…おや、その顔は…知っていたようだね?…ん?昔、侍女が話していたと…。はは、まったく…随分とお喋りな侍女が居たものだ。いや、怒っていないよ。流石に時効だ。それにお喋りな女性は嫌いではない。寧ろタイプだ。…はは、睨まないでくれよ。心配しなくてもパパはママ一筋だよ。え?そういうことじゃない?…ふむ?
…よく分からないが……まぁいい、話を戻そうか。
…うん、そう。エリィの言う通り、そのフェルシュング家でユーリは生まれたんだ。
フェルシュング伯爵は、パパの領地の方までちょっかいを出していてね。色んな所から苦情が上がってて頭を悩ませてきた種のひとつだったんだよ。そういう理由もあって、パパは陛下の命令を不本意ながらも受けたんだ。え?言葉に棘があるだって?…うーん、陛下は面倒臭いから、あんまり関わりたくないんだよねぇ…。
まぁ、その話は、また今度。今はユリウスの話だ。
その様子だと伯爵とその夫人が、どんな悪行を働いていたのか知っているみたいだし、割愛させて頂こうか。あまり口にしたくない内容だしね。
陛下から命を受けて、直ぐに伯爵は動き出した。…うん、そう。
派手にお金を使い込んだ伯爵は、とうとう首が回らなり、妻と娘を連れてデューデン国へと夜逃げを図ろうとした。けれど、それは無計画に近かったんだろうね。もだもだと国境付近を彷徨っていた伯爵たちは簡単に捕らえることが出来たよ。
でも、そこからは簡単じゃなかったんだよね。
パパは部下から、伯爵の子供は娘と息子の2人だと聞いていたんだ。けれど、そこに息子の姿はなかった。パパは伯爵に聞いたよ。『息子は何処だ。』ってね。そうしたら伯爵は悪びれる様子もなく、吐き捨てるようにこう言ったんだ。『森に捨ててきた。そもそもあれは私の子供じゃない。それに、あの餓鬼はいつ死んでもおかしくない程に衰弱しきっている。連れてこようが、捨ててこようが、結果は変わらない。』
その言葉に言葉を失ったよ。
その上、伯爵は妻と娘を押し退けて、自分だけ助かろうとしていたんだ。逆に、そこまでいくとその清々しいよね。だからパパは遠慮なく、その蛆虫野郎に鉄拳制裁をお見舞しちゃった。まぁ、その後の始末書地獄が待ってたんだけどね…。あぁ、今でも陛下のゲス顔が忘れられない…。
…おっと、教育上に宜しくない言葉が出て来てしまった。パパの悪い癖だ。感情が高まると、つい昔の自分が出てきてしまう。エリィ、忘れなさい。…よし、いい子だ。
ごほん。
すっかり伸びてしまった伯爵と、腰を抜かした夫人と娘を部下に任せて、パパは息子を探すことにしたんだ。
…ん?ユーリを助けに行った…。…いや、違うよ。ほら、最初に言っただろう?
―――パパはユーリを殺しに行ったんだ。
…どうしてっていう顔をしているね。
情けない話し、あの頃のパパはまだ若くてさ。その子供が苦しんでいるなら、いっその事殺してあげた方が、楽になれるんじゃないかって…。生まれてからずっと虐待されてきた子供だ。生きる方が辛いんじゃないかって。きっと、それが少年の救いになるんだって…さ…。
…うん、そうだね。私だって同じ年の子を持つ父親だったのなのに…情けないパパでごめんね。本当、何様だったんだろう。そんなものは独りよがりの偽善でしかない。当時のパパは、それが分からなくて本気で、殺すことが正義だと思っていたんだ。
あの子を見つけるまでは。
パパは伯爵が言っていた森を宛もなく探したよ。まぁ、伯爵が嘘を言っている可能性もあったけど、時間はなかったからね。暦上では春でも、弱っている子供の命なんて簡単に奪えてしまうほど夜中は真冬のように寒い。例え亡骸になってたとしても、見つけ出したかった。
どれぐらい探し回ってたかな。
低い位置にあった月が、いつの間にか頭上に登っていたことに驚いた、その時―――
微かに甘い香りがしたんだ。
もう疲れていたんだろうね。
パパはフラフラとまるで甘い香りに誘われる虫みたいに、その香りがする方へ足を進めた。…危ないとは思わなかったのかだって?…うーん。そうだねぇ。危ないとは思わなかったかも。なんか、こう、ふぁ~とした気分だったことだけは覚えているよ。…え?それは大丈夫じゃない…?…ふふ、そうだね。確かに怪しい薬みたいだ。エリィは甘い香りがしても近づいちゃ駄目だよ。パパとのお約束だ。
悪い例として、誘惑に負けたパパはフラ~と森の奥に入っていった。しばらく歩いて、突然現れた光景に思わず目を奪われたよ。
そこには、一面に白い花畑が広がっていたんだ。驚いたよ。季節は春でもノルデンの春は冬のように寒い。花が咲くだなんて有り得ない。それでも、目の前に広がっていた花畑は、全盛期のように咲き誇っていたんだよ。
月明かりに照らされた白い花は淡く青色に輝いていてさ、とても幻想的だった。今でも、あの光景は目に焼き付いている。この世に、こんなにも美しい光景があるんだなって…人間は圧巻されると語彙力が著しく低下することを知ったよ。
そんな花畑の中央に、小さな人影を見つけたんだ。こんな真夜中に居るんだ。直ぐに、伯爵の子供だとわかったよ。
パパは早く楽にしてあげようと、少年の方に向かった。そして、少年の前まで来て情けないことに、目を見開いたまま硬直してしまったんだ。
…なぜだと思う?…ハズレ。死んでいなかったよ。その逆だ。ちゃんと生きてた。…いや、生きようとしていた。
ユーリはね、花を貪るように食べていたんだ。今にも折れてしまいそうなほど細い指で花を毟り、震えながら口に運ぶ。それを淡々と続けていたよ。パパが目の前にいるのに、ずっとね。
けど食べること自体、難しかったんだろうね。時折、噎せるんだ。それでも食べることをやめることはなかった。ユーリは必死に生きようとしていたんだよ。
そんなユーリの姿を見たパパは、自分はなんてことをしようとしていたんだって…自責の念に苛まれた。こんなにも必死に生きようとしている命を摘み取ろうだなんて、神にでもなったつもりなのかって。ただの人間であるパパには、そんな資格は無いってことを思い知ったよ。危うく、履き違えた正義感で、尊い命を摘み取ってしまうところだった。
そんなパパに、顔を伏せたままのユーリの方から話しかけてきたんだ。その声に、また驚いたよ。まるで世の中の酸いも甘いも知り尽くした老人のようにしわがれた声だったから。
『シューンベルグ家の者が、こんな所で何をやっている?』
『…驚いた。どうして、私がシューンベルグの者だと分かるんだい?』
『その胸についている、丘陵を模した紋章はシューンベルグ公爵家のものだと昔から決まっている。』
あの頃のユーリはパパを驚かせてばかりだったよ。教養を受けていないはずの少年が、紋章を知っているだなんて、驚き以外の何物でもない。
あの子が口を開く度に、腰を抜かしそうだった。あの時、パパが100歳のおじーちゃんだったら、とっくの昔に、ぽっくりと逝ってたね。あはは。
まぁ、その少年に驚きながら、戦きながら…パパの中でひとつの想いが生まれたんだ。
『何故、私がここに居るのかと聞いたね。それは君を探していたからだよ。』
『悪行を働いた一族の者として殺すためか?』
『つい先程までは、殺そうとしていた。今は違うよ。』
少年はゆっくりと顔を上げる。
月明かりに照らされたのは、青白くこけた頬に、生々しい傷跡の残るあどけない少年の顔。一瞬、少年の瞳が青く光っていたように見えたのは、パパの目の錯覚だね。
あの時のユーリは、刃物のような黄金の瞳でパパを見つめてきた。
『私は君が欲しい。』
『…売り飛ばす気か。』
『おっと、言い方が悪かったね。私の家族にならないか?』
『…何故?』
『ちょうど、君みたいな生に貪欲な息子が欲しかったんだ。』
『子供が居ないのか?』
『1人、娘が居るよ。けれど、娘に爵位を継がせるのは忍びない。そこで君だ。君なら立派に勤め上げてくれると思うんだ。』
『おかしな人。僕がその娘を食い殺すとかは考えないの?』
『その前に、私が君の首を落としてあげるから安心して。』
『ふぅん。』
パパはその場にしゃがみこみ、少年に手を差し伸べた。
少年は一度、何かを考え込むように顔を伏せてから再び顔を上げた。
『それなら安心だね。』
そう言って、子供とは思えない蠱惑的な微笑みを浮かべた少年はパパの手を掴んだ。
この瞬間、少年はパパ達と家族になった。
『少年。君に名前はあるかい?』
部下から少年の名前は上がってこなかった。きっと、名前すらつけて貰えなかったんだろうね。それでも念の為聞いてみたんだ。
するとね、意外なことに少年には名前があったんだよ。
『…ゥリウス。僕の名前はユリウス。』
もしかして、自分で決めたのだろうか。もし、そうだとしたら…。
果たして、知ってて言っているのか、それともただの偶然なのか。まぁ、パパにはどっちでも良かったんだけどね。
パパは笑ったよ。
そして、この子を選んで本当によかったと思ったんだ。
何故かって?ふふ、それはね…。
その名は、ノルデン帝国の初代皇帝陛下の名前だったからさ。