8:ひとりで死んでいった患者<前編>
看護師五年目の時の川島の記憶。川島視点。
今日もナースコールが鳴る。
「どうされました、秋山さん」
「シャツが汚れたから、新しいの買ってきてほしいんだ」
見ると、確かにシャツがチョコレートで汚れていた。
いつもむしゃむしゃとお菓子を食べてシャツを汚している。
食事はあまり食べたがらないので、本人の希望もあり、点滴投与しているが、体は全体的に細い。
「シャツ、洗いますか? 新しいのありましたよね」
「うるさい! 買って来いって言ってるんだよ! 早く行けよ!」
「そんな、怒鳴らないでください。びっくりするじゃないですか」
私は内心ため息をついた。
五十代後半の秋山さんは生活保護だ。使えるお金にも限りがある。だからこうしてやんわり注意するのだが、最近こうして怒鳴られることが増えた。
昔手術した時は、そんなに怒鳴る人じゃなかったのに。
汚れるたびにシャツを買い替えてたら、お金がもったいない。洗濯サービスもあるのだと伝えるが、聞く耳を持たなかった。
挙句、「お前ら、俺の事ばかにしてるんだろ!」と怒鳴り声が悪化する。
自分たちだって、怒鳴られて平気なわけではない。でも、「病気がさせていることだから、温かく見守ろう」を合言葉に、みなで交代で担当していた。
がんの終末期でもある秋山さんには、緩和ケアチーム(がん終末期患者の様々な面での症状緩和を行うチーム)も介入しているが、介入拒否が強く、それも含めて中々うまくいっていなかった。
部屋を出ると、怒鳴り声が廊下にまで響いていたのか、他の患者さんが驚いた顔をしている。
「驚かせてしまって、すみません」
あなたも大変ねえ、と言われたが、何も答えず一礼して、その場を離れた。
看護助手に売店でシャツを買ってくるよう、患者から預かったお金を渡す。これで、患者の機嫌も直ってくれるといいのだが。
そういえば、昨日の看護師は、キャラメルやらチョコレートやらを買いまくるから注意したら怒鳴られた、と言っていた。しかも寝ながら食べるから危ないと伝えても、一向に改善されなかった。
医師に伝えて、医師からも危険だと伝えてもらったが、本人が自分のやりたいことは自分で決める、これで死んでもその時はその時、と頑として譲らなかったらしい。
もう終末期だから、本人の気のすむようにさせるように、と医師から回答があったと、記録には残っていた。
そして、本日は患者の機嫌は直らぬまま、何を言っても無視されて、その日の勤務は終わった。
「川島、お疲れさん」
「ありがとうございます。ちょっと疲れましたね……」
「なに、怒鳴られて無視されたんだって? まあ、あの人しょうがないよ。気にすんな」
五年目の自分より二つ上の先輩は、さばさばした様子で笑う。同じ女なのに、なぜ自分はここまでさっぱりできないのか。そしたら、こんなにウジウジ悩まなくてもいいのに。
「じゃ、お先ー」
お疲れ様です、と返事をして、事務作業を再開した。
三日後、夜勤の時に再び受け持つ。
その時は、前回とは様子が異なり、酸素も投与され、意識もほとんどなかった。
部屋も大部屋から、ナースステーション内にある処置室に移っている。
この間、慰めてくれた先輩が日勤の担当だった。
「あの甘いものへの執着とイライラは、もしかしたら予兆だったのかもね」
「そうですね……」
死ぬ向かうに当たって、人間は様々な兆候が見られる。そのうちの一つに、せん妄というのは確かにあった。
「今日の昼から酸素投与開始して、今は最大量だから、今晩かもしれない。頼むね」
「了解です」
そして、夜勤が始まった。うちは二交代なので、夕方から翌朝までの勤務だ。
この状態で朝まで、という時間の長さに、気が重くなる。
夕方のラウンドと配膳を終え、夕食休憩に入った。
特に秋山さんの状態に変わりはなかった。規定時間休憩を取ると、他の看護師と交代する。
食後のラウンド、寝る前のラウンド、と自分の十三人の患者を回っていく。寝る前だけしか回らない、という看護師もいるが、よっぽど忙しい時以外は必ず食後も回るようにしていた。
寝る前のラウンドで秋山さんの血圧がやや下がっていることに気が付く。心拍数は変わりない。まだ、現状維持のようだ。
それから夜は更けていく。
患者が寝たからと言って、看護師の仕事はなくならない。トイレの付き添いや、書類作業、書いて意味があるのかたまにわからなくなる、退院患者の看護要約など、やらなければならないことはたくさんある。
そして、休憩も交代で入る。
一応仮眠休憩となっているが、たまに起こされることもあるのでおちおち寝ていられない。しかも、多くの病院がそうだと思うが、うちには仮眠室はないので、休憩室のソファが仮眠場所だ。別の病院で働く友人はストレッチャーが仮眠場所と言っていたからまだましかもしれない。
休憩時間になったので、気休めの衝立を立ててソファに横になる。
そうして、一時間程経った頃だろうか。
「川島さん、お休みのところすみません」
後輩が起こしに来た。
ぼんやりと目を瞑っていただけだったので、すぐに返事をする。
「秋山さんが、心拍数三十まで下がってます」
来たか。と正直に思った。
「ご家族へ連絡は」
「しました。が、緊急連絡先になっている甥っ子さんは、うちとは関係ない人だから、市役所に連絡してくれ、とのことで、切られました」
「そう……」
話しながら、ほどいていた髪をまとめると、休憩室を出た。
時計は午前一時半を指していた。
ベッドサイドへ到着すると、心拍数は三十台と二十台を行ったり来たりしている。
「秋山さん」
声をかけるが、もちろん反応はない。
橈骨動脈(手首の動脈)を触るが、脈は触れない。
総頚動脈(首の動脈)も触知できない。
血圧六十は切っている、と判断する。
家族がいると、時折血圧を測ってほしい、と希望があることがある。その時は測るが、それでも患者の腕を圧迫する、という負担になる行為だ。
死に向かって、延命を望まない場合は、こうした行為はできるだけ減らすようにする。
どうしても、患者の負担になるから。
「当直の先生には、連絡した?」
「まだです。一報入れときます」
「お願い」
先ほどの後輩に任せ、自分は記録を書く。
「当直の先生、連絡取れました。今、腸重積の緊急オペ中なので、フラットになったら呼ぶように、とのことです」
「わかった。ありがとう」
そして、しばらくして。
心拍数がゼロを示す、アラームが鳴り響いた。
当直医へ連絡を入れる。十分ほどで行ける、と回答があった。
医師が死亡確認をするまでは、患者は生きている。
いくら、早く酸素や点滴を外してあげたいと思っても、それはやってはいけないことだ。
死後処置の準備をして、医師を待つ。
廊下の向こうで、病棟の出入り口が開く音と、パタパタとスリッパで早歩きする音が聞こえた。
「ごめん、待たせた」
少し息を切らせながら入ってきたのは、田畑だった。
五年目、同期の医師だ。
「すみません、オペ中に。大丈夫でしたか?」
「今日は当直三人だからな。今は閉腹してるところだから、もう終わる」
それならよかった、とほっと安堵する。
時折、手が離せないと数十分たされることもある。
それは、手術を受けている患者にも、医師にも、そして死亡確認を待つ患者にとっても不幸だ。
そうならなくて良かった。
「家族は」
「いらっしゃらないそうです」
「そうか……」
田畑が苦い顔をしたが、気を取り直したようだ。
準備しておいた、ライトと聴診器、時計を渡す。
田畑が死亡確認し、宣言する。
「一時五十七分、ご臨終です」
田畑と、私そして後輩と、ラウンドから帰ってきた先輩の四人で、一礼する。
そして、顔を上げるとすぐさま酸素を切った。失礼します、とマスクを外しながら、田畑へ伝える。
「この方特に、先生で抜いてもらうものありません」
「わかった。後で死亡診断書渡す」
「お願いします」
そして、後輩をラウンドへ送り出し、先輩と共に死後処置を行う。
あんなに怒鳴られたけど。
すごく苦手な患者さんだったけど。
なんだか寂しいのはなぜだろう。
先輩にに支えてもらいながら、背中を拭く。
尾てい骨に、赤味が出ていた。
それを見て、悲しくなる。
これは、私達の怠慢だ。
床ずれに気づかないなんて、看護師としてだめだ。
体を傾けようとすれば怒る、ろくに体を拭くことも嫌がっていた。
そして、そのうち看護師の間でも忌避感が生まれていた。
プロとしてお金をもらっている以上、大概のことは容認する。
だが、看護師だって人間だ。積み重なった暴言に、みなの心が委縮していった。
それでも、と思う。
それでも、もっと、何か彼にできたんじゃないか。
一度、彼の友人が来ていた時はとても楽しそうだった。
看護師に対する態度は相変わらずで、友人は驚いていたようだけど。
『前はあんなじゃなかったのに』
友人はそう言って帰っていった。
なぜ、もっと一緒になって考えてあげなかったんだろう。
信頼関係を築ければ、もっと色々うまくいったかもしれない。
そう思う一方で、忙しすぎて話す時間も十分にない現状で何ができたのか、これがきっと、彼との最善の距離感だったのだと自分を擁護する自分もいる。
体を綺麗にし、葬儀社を呼んで事情を話すと、市役所と連絡が着くまで、霊安室で預かってくれるという。
結局、彼を見送る時にナースコールが鳴り、エレベーターホールまで見送れたのは、私と田畑の二人だけだった。
翌朝市役所へ連絡する。
葬儀の方は役所で手続きしくれるらしい。と、言っても、無縁仏として供養されるとのことだった。また、置いていった大量の荷物とお菓子については、捨てられるものは全て処分してほしい、との回答だった。
荷物はほとんどお菓子、後は本が数冊、パジャマはレンタルだったため、病院側で処分となった。
荷物をまとめ、捨てる準備をしながら、泣きそうになるのを堪える。
私は、彼の一度しかない人生の最後を、寂しいだけのものにしてしまった。
私に、涙を流す資格はない。
そう思いながら、その日の夜勤を終えた。