6:看護師川島の回想<後編>
昼過ぎ遅くに、娘さんが来院した。
状況を説明し、主治医からモルヒネの投与について確認するが、今はまだ考えられない、兄と相談する、との返答だった。また、状況的に、会わせたい人には早く会わせるよう伝える。今日、お孫さん二人がいらっしゃるとのことだった。
「兄も来るかもしれないわ。今日朝電話して、今日夜には来ると言ってたから」
そうですか、と返事をする。よく話題になる息子さんには、勤務が合わず一度も会ったことがなかった。
「あと、あの鼻の管、抜けないかしら。なんだかあれを入れてから父がおかしくなった気がして」
「ああ、出る量は減ってますからね。ただ、今の状況で抜くと、逆にご本人の負担になるかもしれません……ですが、一度、主治医に相談してみますね」
主治医に報告すると、やはり胃管を抜くことによる嘔吐の誘発や、意識がない状態での誤嚥リスクが高いため、今は抜けない、と返答が返ってきた。
それを娘さんに伝える。
「そうなの。残念だわ」
「お力になれず、すみません」
娘さんが来てから二時間程たったころ、大学生と高校生の孫がやってきた。
「じいちゃん……」
大学生の孫が呆然と祖父を見ている。その隣で、女子高生の孫二人も小さく、おじいちゃん、と呟いた。
その時はすでに、意識があまりない状態で、すこし瞼を開けると、すぐに閉じてしまう状況だった。
孫たちが来院してからしばらくして、SPO2が下がり始める。酸素投与量を増やすが、中々追いつかない。
これは、まずい。
こういうことはたまにある。急に、体の色々な機能が活動を止めてしまうこと。
ここからは坂道を転がり落ちるように、急激に状態が変化してしまう。
まだ、息子さんの姿が見えない。
心電図モニターも四十を切り始めている。
「息子様は、まだいらっしゃいませんか。できれば、早めに来ていただいた方がいいかと思います」
酸素投与量を最大まで上げてなお、中々SPO2が上がらない。呼吸も下顎呼吸に近くなっている。これはもう、準備に入っているとみていい。
私の言葉を聞いて、大学生の孫が部屋を飛び出していく。
娘さんを部屋の外へ呼び出し、小さな声で伝える。
「呼吸も浅くなっているのと、血中の酸素濃度の低下があります。心拍数も四十を切り始めていますので、そろそろかと思われます」
「……そう。わかりました」
娘さんは、予想していたこととは言え堪えているようだった。唇を噛みしめている。
「今、親父と連絡ついて、病院にもう少しで着くそうです」
大学生の孫がスマホを握りしめて走ってきた。
「わかりました。では、何かありましたナースコールでご連絡ください」
そう言って、二人を病室へ促し、退室する。
すぐに主治医に状況の変化と、家族が揃っていないことを報告する。
主治医の田畑医師はわかった、とだけ返事をした。
不愛想だが、仕事は早い。すぐに病棟に現れるだろうと予測する。
滝本さんの心電図モニターを確認すると、まだ四十前後を行ったり来たりしていた。
時間は午後四時五十五分。日勤終了が午後五時なので勤務は後五分で終了する。
本来、時間内に仕事を終わらせるため、日勤から夜勤への担当交代挨拶はもっと早く行うが、滝本さんだけまだ行っていなかった。
家族が揃っていないのに交代なんて言ったら、滝本さんが待てなくなってしまいそうな気がして。
記録を書いていると、滝本さんの部屋に知らない男性と女性が入っていくのが見える。
すぐに後を追いかけた。
お湯で髪の泡を流しながら、今までのことを思い出す。
滝本さんは、自分の子ども達が大好きで、孫も大好きで、お嫁さんと飲むお酒も大好きで。
だから、息子さんを、お嫁さんを待っていた。
最後の力を振り絞って、待っていた。
滝本さんは、いつも笑っていた。
きっと痛みに耐えて。
私たちにも迷惑をかけたくないと、我慢して。
だから、ずっと耐えて耐えて、もう、体が耐えられなくなった。
急激に状態が変化する人の中には、こういう人が多い印象だ。
苦しいことも、命を削って耐えられてしまう人。
滝本さんも、そうだったんだね。
「滝本さん、気づけなくて、ごめんなさい。本当によく、頑張りましたね。痛かったですよね。本当に、気づけなくてごめんなさい」
看護師は、泣いてはいけない。
泣いていいのは、家族だけ。
私たちの涙は、残された家族を戸惑わせるだけ。
だから、泣かない。
でも、それは、家族の前だけ。
人間だから、悲しいものは悲しい。
それが、十年目の私でも。
「先輩、ちょっと、マスクがぐしゃぐしゃでやばいです」
後輩の小森が、目を赤くして、マスクを濡らしながら話しかけてくる。
「滝本さん、ちょっと、離れますね」
小森はそう言って、手袋を外すと、手洗い場のペーパータオルで鼻をかみ始める。
「滝本さん、すみませんね。今だけ許してくださいね」
そう、声をかける。
そこにもう、あの笑顔がなくても。
「ごめん、遅くなった。って二人してどうしたの」
「あ、田畑先生。乙女には色んな事情があるんで、聞かないでください」
「ああ、そう。お前乙女だったんだな」
田畑先生が入ってきた。看護師二人の涙に引いているようだが、そんなの知らない。
小森とやりあうのはいつものことだ。
「おっと、滝本さん、失礼しました。それじゃあ、お鼻の管抜きますね」
田畑先生が、シュルシュルと胃管を抜いていく。体内に留置されているものは、全て逝去時に取り除く。胃管は医師が抜くのが院内の決まりだった。もちろん、亡くなっていても。
「はい、抜けましたよ。お疲れさまでした。それじゃあ、二人とも、後はよろしく」
「ありがとうございます」
胃管を抜いてもらったことで、顔を清める。
「お洋服は、これでいいんですか」
小森がロッカーから妹さんが用意してくれた洋服を出す。黄緑色のポロシャツと、ベージュのズボン。私はそれに頷くと、滝本さんへ声をかける。
「じゃあ、お着換えしますね」
そうして、二人で着替えさせ、綺麗なシーツに交換し、顔にうっすらと化粧をした。
「あんまり濃いと、変になっちゃいますからね。滝本さん、私の腕を信じてください」
小森が滝本さんに何か言いながら、化粧を施している。その横で、使った用具の片づけを行っていた。
「失礼します、遅くなってすみません」
日勤の一人が仕事を終えたようで入ってくる。
「小森さん、配膳は他の日勤が手伝ってるんで、大丈夫です。川島さん、私これ片付けてきますね」
そう言って、私がまとめていた荷物をカートに乗せると、片付けに行ってしまった。
こういう時、少しだけ複雑な気持ちになる。
ちゃんと、滝本さんにご挨拶してほしいのに。
仕方ない、と思う気持ちと、仕方なくない、と思う気持ちがないまぜになるが、深呼吸を一つして、心を落ち着けた。
小森が全てを終えて、掛け布団を肩のあたりまでかける。
少しだけ顔色が良く見えるようだ。本格的なお化粧は、葬儀社で行うため、病院では軽くが原則。それでもこうも変わったのは、小森がいい仕事をしたようだ。
ベッドの周りに不要なものがないかを確認する。時間は三十五分ほどかかってしまった。
早く家族を呼びに行かないと。
待合室へ急ぐと、娘さんが何かを話している所だった。
「遅くなって申し訳ありません。処置が終わりましたので、どうぞお部屋へ」
家族が一斉に立ち上がる。歩きながら、娘さんが話しかけてきた。
「川島さん、葬儀屋さん六時半位には来れるみたい。どうしたらいいかしら」
「では、その時間までお部屋をお使いいただいて結構ですよ」
今後の段取りについて話しながら、お部屋へご案内する。
「あら、お父さん……」
娘さんが言葉を無くした。息子さんが続ける。
「このポロシャツ、好きでよく着てたよな。おふくろがこれ着るとイケメンだって言ってくれるって喜んでさ」
「お母さんにこれで会いに行けるから……良かったわね」
部屋にしんみりした空気が流れだす。
私は部屋を出てナースステーションに戻る。日勤がまだ残っていて、労ってくれた。出棺が六時半だと伝える。後十五分か、と誰かが言った。ラウンドから戻ってきた夜勤担当に、出棺時間を伝えると、処置を全て任せて申し訳ない、と謝られる。
他に受け持ち患者が十二人もいる夜勤は大変だ。だから、大丈夫だよ、と答えた。
主治医の田畑先生は病棟にいなかったので、出棺時間を連絡した。また、わかった、で切られたけれど、まあ、来るだろう。
滝本さんのご家族に書類関係や返却物を渡し、少し残った記録をしているとあっという間に十五分なんて経ってしまう。
「川島さん、来ましたよ」
日勤の後輩に声を掛けられ、立ち上がる。
葬儀社の男性二人がストレッチャーを押してきた。部屋に案内し、移動の介助をする。
滝本さんが、白いシーツに包まれていく。
部屋の外に出ると、後輩たちが、エレベーター待ち行ってます、各部屋のドア全部閉まってます、と報告してくれる。それぞれにありがとう、と返す。
さあ、ここからが滝本さんの花道だ。
過ごした病棟からゆっくりとストレッチャーが押されていく。
一度礼をしてから、皆で後をついていった。日勤が残ったので、夜勤も含めて十人以上の大所帯だ。
エレベーターホールでは、別の後輩がボタンを押して待っている。その中にストレッチャーが乗り込んだ。
いつの間にか、隣に田畑先生が立っていた。
「皆さん、ありがとうございました」
妹さんが、代表してお礼を言ってくれた。
私は妹さんに一度目を合わせ目礼した後、ゆっくりと頭を下げた。
他の看護師や田畑先生も静かに頭を下げる。
ゆっくりと、エレベーターのドアが閉まる音がした。
心の中で、滝本さんに話しかける。
滝本さん、一生に一度しかないフィナーレに、立ち会わせてくださってありがとうございました。
たくさん我慢をさせてしまってごめんなさい。
向こうでは、頑張りすぎないでくださいね。
素敵な笑顔を、ありがとうございました。
ガシャン、と重い音を立ててエレベーターのドアが完全に閉まった。