5:看護師川島の回想<前編>
滝本さんが、亡くなった。
手術の時から、時折受け持っていて、今回は担当看護師だった。
担当看護師になれば、受け持ちも自然と増えるし、今どんな治療をしているのか、気にしていた。
時には、自分でこうした方がいいのでは、と方針も出した。
二週間前、入院してきた時点で、主治医から今回が最後になるかもしれないとは聞いていた。
入院してすぐのレントゲンではわからなかったが、実は吐いていて、それに気づいて辞めさせてからは、胃に胃液がどんどんたまっていった。子ども達に心配かけたくなくて黙っていたらしく、家でも頻繁に吐いていたらしい。
吐いちゃえば楽になるからねえ、と苦笑いしていた。
胃管のことは、鼻の管は手術の時に嫌だったから入れたくない、と珍しく嫌がっていた。
いつも、良いようにしてね、言われたことは守るからさ、なんて言って笑っている人だったから、意外だった。
吐くと誤嚥のリスクが高くなる。だが、終末期だから、本人が強く拒否をすれば、誤嚥を承知で入れないという選択もできた。だから最初は胃管を入れなかった。
けれど、数日して、体がだるくトイレにも頻繁に行けなくなった時に、胃管を入れてほしいとナースコールがあった。
その日も滝本さんを日勤で受け持っていた。
川島さん、動けないんだよ、という滝本さんの苦笑いに、ああ、もう近いのかもしれない、とぼんやりと思った。
すぐに担当医師を呼んで、少し細めの胃管を入れてもらった。前回、痛くて嫌だったと言っていたから、細くなって、痛みが少しでもましになればいい。
今回はまだましだね、と言った滝本さんに、良かったです、と笑いかけた。
出てきた胃液の臭いがいつもと違うことを、悟られないように。
「次は、髪を洗わせてもらいますね」
滝本さんの髪を洗い始める。
入院中、自分でシャワーに入りたい、と希望があったが、転ぶ危険があるからと身体拭きで我慢してもらっていた。
途中洗髪はしたが、毎日は無理だった。
滝本さん、綺麗好きだったもんね。
手術直後もシャワーに入りたがっていたことを思い出す。
おなかの管が早く抜けないか、毎日楽しみなんだ、とあの時も笑っていた。
滝本さんは、いつも笑っていた。
胃管を入れてから数日。
管から出てくる排液の量が減ってきた。
尿量も減ってきているし、活気も減っている。
昼過ぎの医師と看護師のカンファレンスで状態の報告をする。
主治医が呟いた。
「滝本さん、そろそろかもしれないね……」
死の足音には、滝本さんに関わるみなが、気づいていた。
そんな時、ナースコールがあった。訪室すると、様子がおかしい。
ぼんやりとベッド正面のカーテンを見ながら、
「そこに、ハサミを持った人が立ってるんだよ。息子が、来てくれるって言ってたのに、来てくれないから」
ああ、これは、と思う。
管を留置しているせいもあるかもしれないが、これはたぶん、違うものだ。
「そんな方、見えますか。ごめんなさい、私には見えないみたいです。息子さん、いつ来るのか、娘さんがいらっしゃった時に聞いてみましょうか。そういえば、息子さんってなんのお仕事されてるんでしたっけ」
さりげなく話題を変える。
滝本さんは、息子さんの自慢をすることがよくあった。
『娘が可愛いのは当たり前だよ。でも、うちは息子も頑張っててね。大きな声じゃ言えないけど、一流企業の部長なんだよ。その嫁も僕と酒盛りしてくれるいい子でねえ……いやいや、そんな目で見ないでよ。手術前の話だって、手術前の!』
前回入院の元気なころ、そう言って笑っていたのを思い出す。
「息子は、大企業に勤めてるんだよ。会いたいんだ。でも、そうか、だから来れないんだった」
滝本さんはゆっくりと頷くと、わずかに笑った。
「変なことで呼んじゃってごめんね。もう、大丈夫だから」
何かあればすぐ呼ぶように伝え、退室する。
その後は特に何もなかったが、夜勤の看護師には急変に注意するよう申し伝えた。
次の朝、来てすぐにカルテを確認した。
夜間は、様々な症状が起こりやすい。
記録を確認すると、やはり夜間に混乱し、鎮静剤の投与が行われていた。投与後はやや落ち着いたが、痛みの訴えがあったため、鎮痛剤も使用している。モルヒネではなく、少し弱い鎮痛剤だ。それで症状は落ち着き、朝まで問題なく過ごせた、とのことだった。
モルヒネの使用も、必要だろう。だが、苦痛は取り除けても眠った状態になる可能性もある。主治医はもうその辺考えてるだろうから、相談して、本人と家族にも相談が必要だな、と頭の中で今日やることをメモする。
受け持ち担当は滝本さんだけではないが、終末期患者を受け持つということで、六人だけだ。情報を取ると、朝のラウンド(患者を回ること)を開始した。
朝の挨拶をした滝本さんは、やはりぼんやりとしていて、返事もあまりなかった。
昼前のラウンドをしていると、心電図モニター上で、滝本さんの心拍数が少し上昇しているのに気が付いた。
本人は朝と様子は変わりないが、昨日と比べると活気が全くなかった。
パルスオキシメーター(経皮的に動脈血酸素飽和度を測定する機械)で測定すると動脈血酸素飽和度(SPO2)が低下していたため、投与量が少ない時用の経鼻カニュラで酸素投与を開始した。
心拍数が上がっていたのは、やや酸欠気味だったからのようだ。しばらくすると、心拍数も落ち着き始める。
主治医に投与酸素量と状況を報告する。家族への連絡を必要とするほどの酸素量ではなかったが、娘さんは昼過ぎにいつも来院するため、来なかったときは今日来れるか確認はしよう、と決めた。