3:ある男と父の別れ
二人が着いたのは<五階南病棟>と書かれた病棟だった。
大きなガラス戸が閉じられたままになっている。
「滝本の家族です」
男の方が入口のインターフォンを押して名乗ると、返事が聞こえ、大きなガラス戸が機械音を立てて開く。
二人は走り出しそうになるのを堪えて、足早に目的の病室へと向かった。
「兄さん」
目的の病室の前では、二人よりは若いように見える女が待っていた。
「親父は」
「さっきから心拍数が下がり始めてて、呼吸も浅いからあと少しだろうって。子ども達が側についてる」
男の顔が引きつる。カグヤは男の心を覗くことにした。
病室は個室で、入口にドアがある。
引き戸を開けるだけなのに、体が重い。
中にいる七十三歳の親父に会ったのは先週だった。
親父は、六十五歳の時に胃癌で手術後、五年生存を果たしたものの、一年前に再発してから進行し、抗がん剤も効果がなく、末期と言われていた。
それでも酒が飲めない以外は楽しそうに生活していた親父が、二週間前にとうとう体調を崩した。以前手術後何度かお世話になっているこの病棟に入院することになり、食欲低下による脱水だろうということで点滴を始めた。
医者からは、状況的にこれが最後の入院になるかもしれません、と暗に最期が近いことをほのめかされた。しかし、点滴をしたせいか、数日でかなり体調が良くなったらしい。
親父は以前のように、笑いながら新聞を読むまで回復した。まだ、体はだるいけどな、と笑う親父に、心配させるなよ、と笑ったのが最後に会った記憶だ。
それから仕事で見舞いに来れなかったが、ちょこちょこ様子を見に来ていた妹の話だと、レントゲンの様子ではかなり胃が張っており、今まで何度も隠れて吐いていたのではないかということ、恐らく食べ物はもう食べられないだろうということを伝えられたらしい。そして、胃の中身を出すために鼻から管を入れる必要がある、と医者から言われたと言っていた。
親父は、始めは渋ったらしい。だが、何度もやってくる嘔吐と腹の張りがひどく、医者と看護師から説得され、数日かかってやっと鼻から管を入れたと言っていた。
思考の海から気持ちを戻し、なんとか体を動かしてドアを開ける。ベッドの前にはカーテンが引かれている。
そこまでの距離がやけに長い。
歩きながら、朝の出勤前に電話口で話した妹の声が耳に響く。
『お父さん、変なの。見えない人が見えるって言ったり、急に怒ったり。あの管、入れない方が良かったのかな……』
今日の夜には様子を見に行くと言って電話を切った。
仕事中も、その話が気になって仕方なかったが、何とか残業せずに終わらせた。妻と合流して病院へ向かっている途中のタクシーの中で、大学生の息子から連絡が入った。
そういえば、今日見舞いに行くと言っていたか。
『親父、じいちゃんが、じいちゃんが……! 看護師さんが、ご家族呼んでくださいって』
嗚咽交じりに告げられた言葉に、頭が真っ白になった。
今タクシーに乗って向かっていること、お前はじいちゃんの側についててくれとなんとか伝えて、電話を切る。
会話の内容から、病院に向かう理由が察せられたのか。
タクシーが少しスピードを上げてくれたのがありがたかった。
そこまで回想を終えた時、やっとベッドの側のカーテンへ手をかける。
シャッとこの場には不釣り合いなほど軽い音を立てて、カーテンが開いた。
「父さん……」
息子が泣きはらした顔でこちらを見る。その隣には、妹の娘二人が同じく泣きはらした顔で立っていた。
そこから、ゆっくりとベッドの頭側へ視線を向ける。
土気色をした顔の親父が、そこにいた。
酸素マスクを口元に当てられている。鼻から、細い管が伸びている。
「管……抜けないのか」
妹に向かって尋ねると、頭を横に振った。
「看護師さんに言って、先生にも聞いてもらったんだけど、今抜くのは危ないって言われて」
「そうか……」
どうにか嫌なものを減らしてやりたかったが、それも難しいだろう。
「親父、すまないな」
そっと布団に隠れた手を握ると、手の冷たさに驚いた。
「あれ」
妹が声を上げる。
「さっきまで四十くらいだったんだけど」
ベッドサイドの心電図モニターに表示された心拍数が上がっているようだ。今は七十二を示している。
その時、失礼します、と言って、看護師が入ってきた。マスクをしているから年齢不詳だが、動作や声は落ち着いているから新人ではなさそうだ。
「息子様が到着されると聞いていましたが……お揃いですね」
「川島さん」
妹が親しそうに名前を呼んだ。
知らない看護師だ、と思っていると、向こうから自己紹介をしてきた。
「息子さんは初めましてですね。看護師の川島と申します。今回の入院で滝本さんの担当看護師をしております。今日は日勤で担当でしたので、夜勤交代前に挨拶に伺いました」
そして、失礼します、というと親父の手に触れながら耳元に口を寄せる。
「滝本さん、息子さんも娘さんもお孫さんもみなさん、いらっしゃってますよ。良かったですねえ。担当がが交代になりますけど、また来ますからね」
そして手を離すと背筋を伸ばした。妹が声をかける。
「ねえ、川島さん、今脈が戻ってるんだけど、そんなことってあるの」
「そうですね……。もしかしたら、息子さんがいらっしゃって、頑張ってらっしゃるのかもしれませんね。会いたいっておっしゃってましたし。耳は最後まで聞こえていると言われていますから、ぜひ皆さん、話しかけてあげてください」
言われて面食らった。この状況で頑張るってどういうことだ、と。
息子や姪っ子たちは、看護師の言葉を受けてじいちゃんありがとう、と声をかけ始めている。
ふと、先週会った時の、笑った親父の顔が脳裏に浮かぶ。
『元気になったら、またおまえと酒飲みたかったなあ』
癌になって手術をしてからしばらくは控えていたものの、元々酒好きだったから、こっそり飲んでいたのは知っていた。見つけるたび叱っていたが、今思えば、一回くらい一緒に飲んでやれば良かった。
「親父、俺も一緒に酒、飲みたかったよ」
冷たい手をそっと握る。
「あんまり来れなくて、ごめんな。いつも酒の事、叱ってばかりでごめんな」
おっさんは涙なんて、絶対に流さないと思っていたのに。
堪えても、溢れる涙が止められない。
「今まで、本当に、ありがとう」
もう、それが精一杯だった。
一歩下がり、背を向ける。妻がティッシュを渡してくれた。
後ろでは、妹が色々話しかけている。
ティッシュをもう一枚、と妻を見ると、妻も目を赤く腫らしていた。
そういえば、妻は親父の飲み仲間だったな。
『お、いける口だねー』
『いえいえお義父さんこそー』
そういいながら、手術をするまではよく酒盛りしてたっけ。母親が早くに逝って、一人にしておくにはと思って同居を始めた。思えば、親父の事では妻にも迷惑をかけた。私が酒盛りしすぎたせいで病気になったんじゃ……ってしばらくは落ち込んでたもんな。
「良かったら、親父に一言かけてくれないか」
「いいの……?」
「そうよ、家族じゃないの」
声をかけ終わったのか、妹が妻をベッドのそばに連れて行く。
親父の手を握り、妻が話し始めた。
「お義父さん……。たくさん、たくさん、お世話になりました。お酒、一緒に飲むの楽しかったです。飲ませすぎちゃって、本当にすみませんでした。でも、秘蔵のお酒、本当においしかったです。嫁なのに、優しくしていただいて……向こうに行ったら、お義母さんと酒盛りして待っててくださいね。本当に、ありがとうございました」
親父の手を離して一歩下がる妻に、一つ突っ込まずにはいれなかった。
「秘蔵の酒って、それもしかして……」
「お父さんが隠し持ってた年代物のウイスキーがあってね。二人でちびちび飲んでたの。すごく珍しい○○っていう銘柄で」
「それ、たぶん俺の秘蔵の酒だわ……」
なくなったと思ってた秘蔵の酒が、まさかこの二人に消費されていたとは。
あれ、今買ったらすごい値段なんだが。
それに、あれがなくなったのはここ数年の話だ。断酒はどこ行ったんだ、親父。
なんだか色々考えてたら、笑えて来た。
「親父、最後の最後に暴露されたな。でもまあ、うまいって飲んでくれたならいいよ。俺と一緒に飲めなかった代わりに、こっそり嫁と飲んでたみたいだし。先に逝ったら、うまい酒準備して待っててくれ」
嫁の体温で少し温かくなった親父の手を握る。
「今まで、本当にありがとう。本当にいい親父だったよ。おふくろに、よろしくな」
そうして、握ってからしばらくして。
部屋に、心拍数ゼロを知らせるアラームが鳴り響いた。