2:初めての死
カグヤは病院の中を外から眺め、壁を通り抜けると、一番人が動いている所に降り立った。
もちろん、誰も彼女に目を向けるヒトはいない。
「救急受付」と書かれたカウンター前を通り過ぎ、奥へ奥へと歩いていく。
どこかで子どもが大声で泣く声や、金属が触れあうカチャカチャとした音がするが、それも無視して奥へ。
すると、遠くで誰かがすすり泣く声が聞こえた。その近くで「死亡」という声も聞こえる。
そこに向かって、壁をすり抜けて近づいていく。
着いた場所では、スーツを着た若い男と年老いた女が、ベンチに座っていた。
女がすすり泣き、男は呆然とした様子で宙を見ている。
「どうして、どうしてなの……」
女がすすり泣きながら、止まらない涙を手に持ったハンカチに吸わせている。
ベンチの向かいにある扉の奥から、先ほど「死亡」と言った声が再び聞こえたので、カグヤはその扉をすり抜けて、奥へと進んでいった。
「山田さんの死亡診断書です。お願いします」
そこでは緑のスクラブを着た医師が、黒い枠で縁取られた紙を看護師に手渡している所だった。
「わかりました」
そう言って、看護師は扉を出て外へ向かう。
外で、若い男と話している声が聞こえた。
「バイクの単独事故、か……」
医師はふう、とため息をつくと、立ち上がった。
「俺も気を付けないとな」
カグヤは医師の思考を少し覗き見る。どうやら、先ほど泣いていた年老いた女の息子が、バイクでカーブを曲がり損ね、ガードレールに接触。全身打撲と内臓損傷で助からず、1時間前に死亡宣告をしたところだった。女と一緒にいたのは、死んだ男の兄らしい。そして今、全ての処置を終え、後は霊安室へ移動し、今後葬儀社を待つ段取りとなっているようだ。
「では、今から霊安室へ移動します」
壁越しに外で先ほどの看護師が二人に声をかけているのが聞こえた。カグヤは再び扉をすり抜け、後についていく。
「処置室」と書かれたドアの前では、黒いスーツに黒いネクタイ姿の男が二人、ストレッチャーの側に立っている。
「ご家族はこちらで少しお待ちください。では、お願いします」
看護師が二人の男を室内へ案内する。男二人はストレッチャーを持って、室内へ入っていった。
しばらくすると、ストレッチャーの上にシーツにくるまれた何かを乗せ、男たちが出てきた。
そして、外に立ち尽くす母親と兄に、ゆっくりと礼をする。
「では、霊安室までご案内させていただきます」
スーツ男二人の内、背の高い方の落ち着いた声に頷き、ストレッチャーに続いてゆっくりと進んでいく。
母親は涙をハンカチで拭い、兄は無表情でただ、前を行く白いシーツを見つめていた。
霊安室は地下にある扉の奥に数部屋あるようだった。その一室にストレッチャーは止められる。
「では、出棺時にまたお伺いします」
看護師の淡々とした声に、兄は頷いた。
「ありがとうございました」
そして看護師に向かって礼をする。看護師も深く礼をし、扉の外に出た。
「では、失礼します」
再び礼をして、霊安室を出ていく。
後に残ったスーツの男二人の内、背の高い方が、再び親子に声をかける。
「お顔を、見られますか」
一瞬、兄は目を見開き、それからゆっくりと頷いた。
カグヤは兄の思考を覗き見ることにした。
兄の頭の中で、先ほど、看護師が処置をした後に会った弟の顔が浮かび始めた。
返答を得て、背の低い方の男がゆっくりとシーツをめくり、顔の辺りに掛けられていたレースの布を取り除く。
「……!」
弟の顔に、息を飲む。
何度も見た顔のはずだった。
「では、我々は一度失礼させていただきます。十分ほどしましたら、お迎えに上がります」
スーツの男たちは、そうして一礼すると、部屋を後にした。
「しょうへい……!」
まるで眠っているような。
シーツが取り除かれたあと、そんな言葉が生まれる。
「ばか……やろう……」
自分にも、隣にいる母親にも似ている、自分の弟。
バイクで走るのが気持ちいいんだと、笑って言っていた弟。
ほんの数日前、付き合っている女性がいるから、今度紹介したいんだ、と珍しく真面目な顔をして言った弟。
二十六歳。自分より三つ年下の弟。
「なんで、おまえ、彼女どうするんだよ……!」
どうして、なんで。
そんな言葉と一緒に、涙が溢れた。
ひとしきり泣いて、そして自分の中にふっと冷静な部分が現れる。
伝えなければいけない。彼女に。でも、相手は知らない相手だ。
ふと、兄は弟の友人たちに何一つ伝えていないことを思い出した。
まず、自分が連絡先を知ってる奴から連絡しないと……。
隣で再び号泣している母親を見て、思い出す。
『兄貴は、ほんとしっかりしてて、尊敬するよ』
いつか言われた弟の声が頭の中に響く。
しっかりせねば。自分は彼の兄だ。
そうして黒いスーツの男たちが再び現れ、ワンボックスカーに弟を乗せていく。一人だけ付き添えるとのことで、同乗者は母にした。自分は連絡に忙しくなる。
葬儀社の車を見送った後、移動ついでに各所に連絡をするため、病院のタクシー乗り場へ急いだ。
その背を見送りながら、カグヤは兄の心を覗くことをやめる。
そしてぽつりと呟いた。
「死とは、やはり、悲しいものなのね。周りの人を不幸にする」
死は、恐ろしい。
カグヤの中に、死に対する感情が生まれる。
いや、これは昔からあったのかもしれない。だからカグヤは、死に近づかないようにしてきたのかもしれない。
先ほどの、ヒトの兄の影響か、幾分か冷静になり考える。
やはり、死のない世界の方が幸せかもしれない。
けれど、それはカグヤには不可能なことだった。
永遠の生を与えれば、あの部屋に連れて帰らねばならない。
この世界の理から外れたものは、そうしなければならないと記憶の中の白いもやが言ってくる。
カグヤが許されているのは世界を見ること。
もしつまらないものなら、滅ぼすこと。
みんな一緒に死んだ方が、幸せなのかしら。
思考に入り込みそうになったところで、ヒトの兄と入れ違いにタクシーから降りた中年の男と女の会話が耳に入る。
女の方がスマートフォンを確認して、カグヤの隣を急ぎ足で通り過ぎた。
「お義父さん、まだ大丈夫だって」
「急ぐぞ」
二人の思考を覗くと、どうやら男の方の父親が亡くなるらしい。
カグヤは誰にも見えないのをいいことに、ふわりと飛んで後を追いかけた。