1:久しぶりのヒトの街
カグヤは夕暮れの街を歩いていた。
「ちょ、あの子、すっげーかわいくない?」
「どこかのモデルさんかなぁ?」
そんな声がカグヤの耳を掠めていくが、彼女にとってそんな言葉に意味はなかった。
彼女は「ヒトの死」を見なければならないのだ。
街を歩いても、「ヒトの死」には中々巡り会えなかった。
いや、わかっている。適した場所があることくらい。
カグヤは知りたいと思ったこと全て、知ろうと思えば知ることができるのだ。
けれど、見るのと体験するのではだいぶ違う。
久々に歩くヒトの街に、少し気分が高揚していたのは、気づかないふりをして、歩き出す。
「どこかに落ちているといいのだけど」
人が聞けば、物騒だと騒ぎ出しそうなことを呟き、彼女は街をさまよう。
「ねぇねぇ、そこの君。かわいいねぇ。うちの店で働いてみない?時給高くしとくよー」
黒のスーツを少し着崩した若い男が、彼女の歩みを妨げた。
「邪魔」
「いやいや、そんなこと言わないでさぁ」
彼女は男を避けようとしたが、思い直して立ち止まる。
男はにやりと笑みを深めるが、それは長くは続かなかった。
「では、聞くわ。『ヒトの死』は、どこに行けば見ることができるの?」
「え、ひ、人の死……?」
「そう。私はそれを探している。この目で見なければならないの」
男はこの町で時折、自らが働くキャバクラ店員の勧誘を路上で行っていた。
うっかりすると違法なので、ある程度はこっそりと。
今日もそんな勧誘のため、路上に出ていた。目立たなくて、丸め込みやすそうな子を探して。
だが、目の前を通り過ぎた美しく若い女性に、ついつい声をかけてしまったのだ。
黒い長袖のふわりとしたワンピースに、艶やかな黒の長い髪。
服装は三月末のまだ肌寒い時期には少し薄着だが、その美貌の前には些末なことだ。
もしかしたら他の店の子の可能性もあるが、ちょっとばかり話をしてみたいとの下心もあってのつい、である。
そして、そのついを一分に満たないうちに後悔もした。
彼女の琥珀色の瞳に宿る真剣な光に圧倒されながらも、男は言葉を理解して、結論に至った。
可愛くても、危険思想はやばい。特にこの子は本気だ。
口を開かなければ問題ないが、彼の店では話すことも商売の一つであったし、彼自身も危険な女の子とのお付き合いはご免である。
なんとか、彼にしてはまともな回答を絞り出した。
「病院に行けば、見れるんじゃね?」
「病院……」
「そ。病気の人が集まるところ」
「……やっぱり、そこが一番手っ取り早いのね」
仕方ないわね、と彼女は納得したように頷いた。そしてありがとう、と呟くように言うと、唖然とする彼を置いてすたすたと歩み去った。
「なんなんだよ、あの子」
男は彼女が去って、ため息をつく。
ぞくりと背筋が凍るのを感じた。一瞬、くらりとめまいもする。
「俺、もしかして危ないやつと喋ってたかも?」
彼女は美しく、それでいて存在感が全くなかった。みな、彼女が視界に入るときは彼女の美しさに見惚れるが、去ってしまえば瞬く間に存在を忘れてしまう。
現に、周りの人間は先ほどまで彼女の美しさについて話していたのに、彼女が去ったとたんに、まるで存在すらしなかったかのように、別の話を始めている。
そんな不思議な存在と、彼は会話をした。
まだ余韻を残す背筋の寒さを振り払うように、彼は伸びをする。
そして、時計を確認して呟いた。
「さ、仕事しないと」
女の子を捕まえられなかったら、また店長にどやされる。彼は気を取り直して顔を上げた。
そして再び凍りつく。
目の前に、先ほどの美しい存在がいたのだ。
「聞き忘れたけれど、病院はどこにあるの」
彼はしばらく呆然とすると、慌てて近くにある総合病院の名前と行き方伝えた。
道がわからなければ途中にある交番のおまわりさんに聞くよう言い添えて。
「交番?」
「小さい家みたいな所で、入口の上に赤い光がついてる。紺色の制服を着た、いかついおじさんが立っているから、その人に聞けばいい」
「ああ、あれね。わかった。何度もありがとう」
そうして彼女は、今度こそ彼の前から去って行った。
「交番なんて人に教えたの、初めてかもな……。」
彼は去っていく彼女の背中を見届けるながら、自分がたまにお世話になる交番の警官を思い出す。思い出すと、なんだか親に怒られたような気持になって、自分の緊張をほぐすように首を回し、宵闇の人ごみの中に足を踏み出した。
その胸に、何もない日々の幸せをわずかに感じながら。
カグヤは、男に教えられた病院に向かっていた。
別に、聞かなくてもこの辺りの病院の場所はわかっているし、その気になれば一気に飛べる。
けれど、なぜだかもう少し話をしてみたくて、もう一度話しかけてしまった。
歩いてほどなくして、赤いランプのついた小さな家のようなものが、交差点に建っている。
先ほどの男が、この交番を曲がってまっすぐ行ったところに、総合病院があると言っていた。
交番前には紺色の服を着たがっしりとした体の男が、手に棒を持ち立っている。
教えられた通り、その道を曲がってまっすぐ歩く。人通りは、先ほど歩いていた道よりもかなり少ない。そして、この辺りでは大きめの建物が見えた。
建物の一番上に、「市立病院」との文字が光っている。
「病院……」
着いたことによる安堵感か、思わず呟いた。
よくよく考えれば、地上に降りるのはシムルに命を与えた時以来だったから、少し緊張していたのかもしれない。
あれはバブルと呼ばれた時代の前だったか。
ヒトの時で言えば、もう五十年以上前になる。
カグヤにとっては些細な時間。けれど見ていたから知ってる。
たくさんのものが変わっていった。たくさんのものが失われた。
シムルも、失われるはずの命だった。
わずかに懐かしい気持ちを覚えながら、愛猫との出会いを思い出しそうになって、彼女はここに来た理由を思い出した。
目を閉じて、開き、気持ちを切り替える。
病院に関連した知識を、ざっと思い出しておく。そうすれば、すぐにでも状況が分かるだろう。
そうしてしばらくしてから、病院に向かって足を踏み出すと、ふわり、と浮き上がった。
周りを歩くヒトが彼女を見上げることはない。彼女の存在は、彼らにはもう見えていないから。
存在を認識させないことなど、彼女にとっては容易いことだ。
そうして、もう暗くなってしまった夜の空に飛び立った。