18:出会えた人と、悩む人と
カグヤは富岡に合わせてゆっくりと、病院の中を歩いていた。
富岡は無表情で一言も話さない。
カグヤは車いすを、と言ったけれど、歩いていくの一点張りで、聞かなかった。
仕方ないから、少し力を使って、歩く補助をしている。
ついてきて、とカグヤが言ってから、富岡の頭の中は混乱しているようだった。
言ってすぐに見つかるわけがない、そもそも言葉にだって出してない、本当にコウキはいるのか、そんな言葉がぐるぐると回っているのが見える。
コウキの病棟階でエレベーターを降り、入口のインターフォンで面会であることを伝えると、ドアが開いた。
富岡は信じられない、という顔をする。
カグヤは構わず歩いて行った。
「コウキ、入るわよ」
形式だけの挨拶をして、個室のドアを開ける。
中にはコウキしかいない。大男二人は、まだ話している途中のようだ。
「あ、カグヤさん帰ってきたんっすね」
コウキはベッドの端に座り、テーブルの上に置いた雑誌から顔を上げる。
「あれ、誰か連れてきたんっすか?」
コウキがよっこらしょと身体をずらして、硬直した。
「え……あれ、なん、で……」
なんとか絞り出した声は、掠れている。
カグヤの横を、カラカラと点滴台が通り過ぎた。
コウキが固まっている間に富岡は目の前に立つと、腕を振りかぶった。
「この馬鹿孫が!」
右手を握りしめ、脳天に一発。
痛そうだな、とカグヤは思った。
「いってー! ちょ、ばあちゃん俺ケガ人!」
「そんだけ元気なら、もう一発喰らわせてやろうか!」
「いや、待って、まず話を!」
二人でギャーギャー言い合っていたが、富岡がぴたりと黙り込む。
そして、ゆっくりと両手でコウキの頬を挟むと顔を確かめ、じっと見つめる。
「出ていく前に会った時より、顔が良くなってるじゃないか。あんた本当に私の孫のコウキだろうね」
「ち、違うよ、俺ばあちゃんの事なんて知らないよ!」
「まだ言うか、この馬鹿孫!」
「ごめんなさい!」
再び二人で言い合いをしていると、個室のドアが勢いよく開いた。
「失礼します! どうされました?!」
看護師が慌てた様子でやってきた。
富岡が穏やかな顔を看護師に向ける。
「ああ、すまないね。久しぶりに孫に会ったもんだから、興奮して大声になっちまったようだ。気を付けるよ」
「大声が聞こえたのでびっくりしましたが、おばあ様でしたか。病院ですので、静かめにお願いしますね。ご面会用の椅子、もう一脚持ってきますか?」
「いや、大丈夫。ありがとね」
「いえいえ。何かありましたお呼びくださいね。失礼します」
看護師が出ていく。
ドアが閉まったとたん、富岡の顔が般若のように変わり、コウキへと向く。
ヒッとコウキが引きつった声を出した。
「で、コウキ。あんたが今までどこで何をしてたのか、じっくり聞かせてもらうからね。すまないがあんたは少し、席を外してもらっていいかい? ちょっと家族の話になるんでね」
「わかったわ」
「覗き見するんじゃないよ」
「はいはい」
カグヤは言われた通り、外に出た。
富岡にはなぜだかカグヤが見えてしまう。コウキも印象操作がうまくいかない所を見れば、血族的な何かがあるのかもしれない。
素直に従っておくことにした。
まあ、その場にいなくても、聞くことはできたが、そういうのをヒトは趣味が悪い、というらしいので。
まだ話し込んでいるであろう、二人の大男の元へ向かう。
二人はどうなっているだろうか。
談話室に着くと、黙り込んでいる二人が見えた。談話室に他のヒトはいない。
「話は終わったのかしら?」
声をかけると、工藤がのろのろと顔を上げた。
「おまえか。プライベートな話なんだ。口を挟まないでくれ」
その顔色は悪い。
カグヤはチラリと思考を覗き見て、理解する。
どうやら工藤の母親の体調が思わしくないと、保坂から聞いたらしい。
「会わずに後悔するくらいなら、会った方がいいと思うけれど」
今まで、死に際に会えなくて涙したヒトを多く見た。
「今まで何もしてやれなかったと思うくらいなら、今から何かをした方が建設的だと思うわ」
「おまえに何がわかる……!」
がたり、と工藤が席を立つ。おい、と保坂が声をかけるが、構わずカグヤに向かってきた。
目の前に立ち、ぐっと拳を握っている。
先ほどの富岡の拳骨を、カグヤはぼんやりと思い出した。
「おまえが女のなりしてなきゃ、殴ってるとこだ……」
「あら、そう」
「人のプライベートに口突っ込むな。そう言っただろう」
カグヤは工藤を見上げた。
頭二つ分高いその顔は、怒りのせいか赤くなっている。
「私はここでたくさんの死を見てきたわ。その度、送り出すヒトはたくさんの後悔をしていた。間に合わなかった誰もが、間に合わなかったことを悔い、どうして待っていてくれなかったのかと悲しんでいた。あなたは違うでしょ? まだ、あなたに会いたいと思っている人は、あなたを待ってくれている。まだ、間に合うじゃない」
工藤の記憶の中にいる母親は、まだ生きている。
そして、工藤に会いたいと願っている。
「コウキはちゃんと、会ったわよ。彼に会いたいと思っていた人に。戸惑いながらも、彼らは会えたことを喜んでいる。あなたはこのまま、挽回しようがない所まで意地を張るつもりなの? 私はただ、真実を言っているだけよ。そんなに悩むくらいなら、そんなに会いたいと思っているなら、会いに行きなさい。会って、それから考えればいいじゃない」
「……っく、おまえ……!」
工藤が拳を振りかぶる。
カグヤはそれを眺めていた。カグヤは強い。ヒトの拳くらい目線で止められる。
けれど、工藤の顔へ視線をずらした。怒りに震えるその顔は、苦しみに歪んでいた。
なぜ自分がこんなに意地になってこの男と母親を会わせたいのか。そんなに意地にならなくてもいいではないか、と頭のどこかで声が聞こえる。
だが、ここでちゃんと伝えて二人を会わせなければ、カグヤ自身が後悔する、と別の声も聞こえる。
後悔は、したくない。
あんなもやもやした気分は、富岡だけで充分だ。
カグヤは工藤の顔を見つめた。
「工藤、俺の前ではやめてくれ。傷害罪の現行犯になる」
その拳を止めたのはカグヤではなかった。
保坂が工藤の拳を握っている。
「わかってる……だが、こいつ好き勝手言いやがって……!」
保坂がカグヤと工藤の間に割り込んだ。
「おまえがそんなに怒るってのは、このお嬢さんに言われたことが図星だからだろう? おまえ、会いたいって思ってるのに、勝手な理由付けて会うのためらってるんだろ」
「保坂、おまえまで!」
「いい加減認めろ。おまえのお袋さんが余命宣告されたって聞いた時のおまえ、今すぐここを飛び出していきそうな顔してた。けど、どうせ帰っちゃいけないとか、迷惑かけるとか、今更帰ったところでとか、くだらない理由付けして、悩んでんだろうが」
保坂が工藤の拳を握ったまま、反対の手で胸倉を掴んだ。
「もう一回言うからよく聞けよ。おまえのお袋さんに最後に会った時……俺はおまえに会うの、もう諦めてたけど、おまえのお袋さんは諦めてなかった。親父さんだってそうだ。親父さんが口下手で、素直に早く帰ってこいなんて言えないことくらい、息子のおまえならわかってるだろ。でもそんな親父さんが、おまえの写真見るのが辛いからって、でも隠すのも嫌だからって、手帳に写真挟んで持ち歩いてんだぞ!いい加減、わかってやれよ!ちょっとは大人になれよ!」
気づけば保坂は両手で工藤の胸倉を掴み、揺さぶっていた。
工藤の腕は力なく横に垂れている。
なあ、返事しろよ!と揺さぶっていた保坂の腕を、工藤の声が止めた。
「……少し、時間をくれ。俺も二十五年、帰ろうと思って帰れなかった。今からどんな顔して会えばいいのか……一日でいい。時間をくれ」
「……一日でいいんだな」
「……ああ、一日でいい」
保坂は工藤から手を離した。
工藤は小さく息をつき、明日空いてるか、と保坂へ聞いた。
「ああ。今から空けるようにする。もし無理でも夜なら問題ない」
「夜でいい。ここに来てくれ」
工藤はポケットから財布を取り出すと、保坂へカードを渡す。
「俺の店だ。明日は臨時休業にするから、着いたらドア叩いてくれ」
「わかった」
「今日は帰る。嬢ちゃん、コウキにすまないと伝えておいてくれ」
「……しょうがないわね。わかったわ」
カグヤが頷くと、ふらふらとした足取りで工藤は待合室を出て行った。
後に残された保坂は、ふう、とこちらも息をついた。
「おっさんの喧嘩なんて物騒なもの、見せて悪かった。だが、助かったよ。強情で、中々会うと言ってくれなかったんだ。……君はなんだか不思議な子のようだね。まるで俺たちの心を読んでるみたいだ」
保坂が微笑みながらも鋭い目つきでカグヤを見つめる。
どんなトリックを使っているのか、自分にとって有害ではないのか見定めようとしているようだ。
「お話が進んでいないようだったから、少し口出しさせてもらっただけ。あなた達に何かするつもりはないから、あまり詮索しないでちょうだい。私はコウキの所に戻るけど、あなたはどうするの?」
保坂はカグヤの言葉に少々面食らったようだった。何かを言いかけて、それを飲み込み首を振った。
「……俺もこのまま帰ることにしよう。コウキ君の所にはまた後日、伺うことにするよ。そう、伝えておいてくれ」
「まったく、あなた達は、私を伝書鳩とでも思ってるのかしら?」
「すまないな。だが、よろしく頼む」
「仕方ないわね」
カグヤはしぶしぶ頷いた。
では失礼する、と保坂が談話室を出ていく。
その背中を見送って、かぐやもひとつ、息をついた。
「どうして私はあんなに意地になったのかしらね……」
しばらく考えても、答えは出なかった。