15:二人の患者<後編>
朝は、忙しい。
血圧を全員分測ったり、夜の間に変わったことがないか、傷の状態や体の状態を必ず確認する。だから一人一人に時間がかかる。
慣れた患者さんなどは、そんなに見ても何も変わらないよーと言いながらも、横になって待っていてくれた。
そして、七時頃。
再び、心電図モニターがアラームを鳴らす。
どっちだろう、と確認すると、清水さんだった。
先ほどと同じように、徐々に下がり、今は心拍数が三十台に下がっていた。
先輩と相談して、報告、という形で息子さんへ連絡する。
わかりました。すぐにはいけないので、八時ごろに伺います、と言う電話口の声に肩を落とす。
仕方ないね、と先輩に慰められた。
息子さんが来るまでは、と私は清水さんに話しかけ続ける。
他の患者さんを回りながら、ちょこちょこと訪室し、更に下がりそうな時は耳元で、大きな声で鼓舞した。
二十に下がった脈拍が、四十になった時は、頑張って、あとちょっとだけ、と少し涙ぐんでしまった。
そして、八時の少し前、心電図モニターが再び鳴った。
清水さんか!と思うが、どうやら竹野さんのようだ。
心拍数は五十を切っていた。
先輩の話では、昇圧剤で血圧は下がりながらもなんとか保っているが、心臓が止まるのが先か、呼吸が止まるのが先か、の状態らしい。
息子さんと娘さんは朝一番の新幹線に乗り、こちらに向かっているという。
予定では、もう少しで着くはずだ、とのことだった。
扉越しでも、お父さん、お父さん、と奥様の悲鳴のような声が聞こえる。
しばらくして、息子さんと娘さんが到着した。
ああ、間に合って良かった、と奥様が笑顔で迎えたのが、印象的だった。
それから、しばらくは談笑しているような、不思議な雰囲気が病室から漏れていた。
その頃、清水さんの息子さんが再びいらっしゃった。八時二十分だった。
清水さんは頑張った。
息子さんが来た時に二十台だった心拍数が、四十台に上がるくらい、息子さんが来るのを楽しみにしていた。
私も、もしかしてまだまだいけちゃうんじゃないか、と嬉しいようななんだか複雑な気分にもなった。
けれど、そんな心配をしている私に先輩が言った。
もう、これで最後だと思うよ。
先輩が言って、しばらくして、心拍数がゆっくりと下がり始める。
私はいてもたってもいられなくなって、様子を見に行きながら、息子さんに伝えた。
「清水さん、何度も心拍数が二十切ったんですけど、息子さんが来るよって言うと、四十くらいまで上がったんです。清水さん、息子さんがいらっしゃるの、本当に頑張って、待ってらっしゃいました。良ければ、何か話しかけてあげてください。きっと、聞こえてますから」
では、失礼します、と逃げるように部屋を後にした。
そして、息子さんが来てから十分後、心拍数はゼロになった。
医師による死亡確認をして、息子さんにお別れの時間を取ってもらう。
母親が危篤でも、死亡確認でも、顔色一つ変えなかった息子さんだから、どんな反応をするのか、予想ができなかった。
けれど。
部屋を出る時に、小さな声が聞こえた。
母さん。
振り返ると、朝日が差し込んで、清水さんが光っているように見える。こちらに背を向けて座る息子さんの背中が、わずかに震えていた。
私は静かに、ドアを閉めた。
しばらくすると、ナースステーションに清水さんの息子さんがやってきた。
少し目が赤い。
お別れはもう大丈夫です、というので、体を清めるので待合所で待つよう伝える。
わかりました、と息子さんは廊下を歩いて行った。
私は準備していた、死後処置用のワゴンを引っ張って部屋の前まで行く。
すると、聞きなれた心電図モニターのアラームが鳴った。
竹野さんの心拍数がまた下がっているようだ。
入院している個室からは、先ほどのざわめきが嘘のように、何も聞こえなかった。
昨日、清水さんを担当していた先輩看護師が、近づいて来る。
今日は午後から会議だから手伝うよ、と処置を一緒にしてもらえることになった。
先輩と二人で部屋に入り、清水さんに挨拶する。
どう接していいのかわからない私にお手本を見せるように、先輩はどんどん声をかけながら、体を綺麗にしていく。
私も先輩に指示されながら、声をかけ、体を清めた。
私が足を拭いている時に、先輩が清水さんの髪を洗い始めた。
『髪、洗いたい』
清水さんが、最後に言った言葉で、最後に望んだことだった。
「清水さん、良かったですね。やりたかったシャンプー、今してくれてますよ」
思わず話しかける。
先輩には、昨日の出来事のことを伝えた。
そっかそっか、遅くなってごめんなさいね、清水さん。
そう先輩が言いながら、綺麗に髪を洗い、乾かしていく。
そして、ご本人の洋服を着てもらう。
きっと、入院した時よりさらに痩せてしまったのだろう。
ぶかぶかになった服が、なんだか寂しかった。
処置も終わったので、ご家族を呼びに行こう、そう思って部屋を出ると、竹野さんの部屋から、数人の号泣する声が聞こえた。
たった今、死亡確認が終わったようだ。
先輩が、竹野さんの部屋が落ち着くまで、清水さんのご家族を呼ぶのは少し待つように、というので、少し様子を見ることにする。
私の中で、冗談を言いながら笑っている竹野さんが浮かんだ。
ドライシャンプーを提案した時、それでいいわ、ありがとう、と少し笑った清水さんが浮かんだ。
どちらも悪い人ではなかった。
なのに、なんでこんなに違うんだろう。
清水さんは、息子さんに会いたくて会いたくて、待ってたのに。
家族の在り方は人それぞれかもしれないけど、死ぬ間際でこんなに違うなんて、悲しすぎる。
そう思えば、タガが外れたように涙が出た。
「ちょっと、川島さん、だめだめ、ここで泣いたら。ちょっと裏いこう」
先輩に連れられて、止められない涙をペーパータオルで吸いながら、休憩室へ向かう。
「気持ちはわかるけど、患者さんと家族の前では泣いちゃだめよ。私たちはプロだからね。心を乱すようなことをしちゃ、いけないの。だけど、人間だから、泣きたい時は、こっそり泣きなさい。ね。しばらくここで涙拭いて、落ち着いたらおいで。家族には私がタイミング見て伝えるから」
「……ありがとう、ございます」
流れる涙を止めようと試みるが、中々止まらない。
持っていたペーパータオルで拭っていると、その内頬がひりひりしてきた。
しばらくたって、ようやく涙も落ち着いてきた。
少し長居しすぎたかもしれない。
ナースステーションに戻ると、もうすぐ清水さんのお迎えの葬儀社が来ると言う。息子さんの手配した葬儀社は時間がかかるとのことで、病院の霊安室までお連れする提携の葬儀社だ。
竹野さんは今、お体を綺麗にしていて、ご家族は待合室で待っている。
竹野さんのご家族とすれ違わないよう、先輩が調整してくれたようだ。
白いシーツに包まれたストレッチャーを、エレベーターホールで見送る。
お見送り自体は初めてじゃなかったけど、いつもより前に出て、しっかりと頭を下げた。
ゆっくりとこちらに頭を下げていた息子さんが、心に残った。
廊下をナースステーションに向かって歩いていると、竹野さんの担当だった先輩が、処置が終わったのか、部屋から出てきた。
私はそれを見つけて、何か手伝えることがないかと駆け寄る。すると、自分をフォローしている先輩がその先輩の後ろから出てきた。
「川島は私と振り返り。じゃあ、あとお願いします」
近寄ってきた他の看護師に片づけを任せ、先輩とナースステーションへ戻った。
その日の振り返りは長くかかった。
途中、竹野さんのお見送りもした。家族みんな、泣いていた。
初めてのお看取りで、学ばせていただいたことは多かった。
そして私は休憩室で号泣していた。
「清水さんが、頭、洗いたいって言った時、あれ以上私にはできなかったんです。もっと、何かできたかもしれません。息子さんを待ってる時も、ただただ頑張れ、頑張れって、応援するだけで。清水さん、あんなに頑張ってたのに。もっと他の声のかけ方があったんじゃないかって、思うんです」
私の胸中を吐露する。先輩はそうかそうか、と聞いてくれた。聞いてもらって、少しすっきりする。
先輩はなんて声かけますか、と聞くと、それは難しい質問だよ、と返ってきた。
「お看取りは、患者さんによって十人十色。全員違う。その時の状況でも変わってくる。つまり、正解はないんだよ。その人を貶めるような、失礼な発言はもちろん失敗だけどね。今回は川島が声をかけて、清水さんはすごい頑張ったよね。確かに患者さん本人は大変だったかもしれないけど、そのおかげで、息子さんにきちんと見送ってもらったんだよ。そこを忘れちゃいけないよ」
先輩は私に持っていたポケットティッシュをくれる。
「ペーパータオルで涙拭くと肌荒れするから、ちゃんとティッシュで拭きな」
「すみません……ありがたく使わせていただきます」
ぐずぐずと鼻を拭き、深呼吸をする。
頬だけじゃなくて、何度もかんでいた鼻もすでにヒリヒリしていた。
「ああでも今回は、いい経験させてもらったね。一度に二人亡くなるのが、初めてのお看取りなんて。亡くなった二人のこと、忘れちゃだめだよ」
「それって、いい経験なんですか?」
看護師には「当たる看護師」が存在するらしい。お看取りや急変になぜか当たってしまう看護師だ。もしかしたら自分もそうかもしれない、とちょっと恐れていたので、いい経験と言われたのが不思議だった。
「そりゃね。今回で、十人十色が身に染みたでしょ。極端な二人だったかもしれないけど、お看取りに正解はないってわかったでしょ。みんな同じにはならないんだよ。だから、私たちはできる限り患者さんの側に寄り添って、できる限りのことをして、患者さんが安らかに、安全に過ごすためのお手伝いをしていかないといけない。もちろん、ご家族に対してもね」
「安らかに過ごすための、お手伝い……」
ぽつりと呟いた私の声に、先輩は大きく頷く。
「そう。だから、これからたくさんのことを経験して、それをどんどん患者さんに還元できるように頑張りな。知識が一つ増えれば、患者さんの安全を一つ守れる。処置が一つ早くなれば、時間が空いて、他の患者さんにもたくさんしてあげたいことができる。もちろん、雑なのはダメだよ。手早く、丁寧に、ね」
知識と技術は、患者さんのためになる。
そう思うと、心がじわりと温かくなっていく。
「今回、たくさん悩んだでしょ。これからもいっぱい悩むと思う。その経験を基に、自分がどんな看護師になりたいか、どんな看護を患者さんに提供したいか、しっかり考えてみたらいいよ。自分の中の芯、看護観を育てれば、おのずと何をすべきかが見えてくるよ」
光が差してきたようだった。
先の見えない暗闇に一筋の道が見えたような。
この道をゆけば、辛いことがあっても乗り越えていけるんじゃないかと、そんな気持ちになった。
私は、もっと患者さんに寄り添えるように努力しなきゃ。
だって私は、誰かの助けになれるような人間になりたくて、この道を選んだんだから。
それに気づかせてくれた、二人の患者さんに感謝する。
「……はい! 頑張ります!」
私は泣いていたのを忘れて、勢いよく返事をした。
先輩が、いい看護師になりなよ、と笑った。
記憶を見終わって、カグヤはなんだか面映ゆいような、若い輝きに当てられたような、そんな気持ちになっていた。
川島の夢から出て、上から寝顔を眺める。
十年前の川島は、未来への希望に輝いていた。そして、今と同じく患者との関わりに悩んでいた。
いつまで経っても、悩みは尽きないのね、と頬をつつく。
川島は規則的な寝息を立てて、ぐっすりと眠っている。
彼女は、本当に色々悩んで、悩んで、悩んでいる。
そして、周囲に彼女の悩みに向き合ってくれるヒトがいた。
「きっと、幸運なことなのね」
『一生懸命生きたやつの人生は輝いてる、その人生は死してもなお、美しい』
なんだか、コウキの言っていたキラキラした人生、という言葉を思い出した。
川島はどんな人生を歩んでいくんだろうか。
こんなに一生懸命、他人に向き合っているのだ。
そして、自分の未来にも一生懸命向き合っている。
きっと、死に際も美しいだろう。
カグヤはそう思って。
そして、ほろり、と頬を零れる雫に気づいた。
「あら……?」
それは、ほろりほろりと頬を流れていく。
存在して、一度も流したことのないものだ。
自らに、その機能があったことに驚いた。
「私も、ヒトのように涙が出るのね……」
カグヤから零れていく雫は、わずかに光りながら空中に霧散していく。
愛した生き物には、永遠の命を与えればいい。
そうすればいいのに、カグヤはそうは思えなかった。
永遠を与えてしまえば、あの輝きはきっと、くすんでしまうだろう。
永遠を与えるということは、彼女を檻に閉じ込めてしまうことだから。
「あなたがいなくなるのは見たくないのに、あなたの死はきっと美しいんだろうと思ってしまう私がいるわ。……不思議ね、川島。いつか、死ぬ間際にあなたに聞いてみたいの。どんな人生だった?って。あなたはなんて答えるのか、今から色々想像してしまうわ。楽しかったって笑うのかしら、もっといろんなことができたはずって後悔してるのかしら」
川島の死に際を想像して、カグヤは小さく笑みを浮かべた。
そこに立ち会いたいと思ってしまう自分が、ひどくおかしかった。