14:二人の患者<中編>
次の日は、夜勤だった。
まだ五回目の夜勤。緊張する。
昨日に引き続き、清水さんを受け持つことになった。
夜勤は人数が多くなりがちなので、私は患者さん八人、フォローしてくれる先輩が四人、受け持ってくれる。普通は三人夜勤だが、私のフォローの先輩がいるので、今日は四人の夜勤だった。
日勤看護師から引き継ぎを受ける。その時、清水さんが血圧が下がっている、と聞いた。まだ血圧八十はあるし、時折受け答えもできるから何とも言えないが、今夜かもしれないし、違うかもしれない。ただ、心の準備はしておいた方がいい、と日勤の先輩に言われる。
お看取りをするのは初めてだ。そろそろそういう時期なのよ、と日勤の先輩に言われた。
フォローの先輩と共に情報を確認し、ラウンドを始める。
一番始めはもちろん、清水さんだ。
いつものように、失礼します、と入室する。
昨日とは打って変わって穏やかな顔だった。
気になっている血圧を測ると、六十台に下がっていた。
フォローの先輩へ報告し、清水さんは空いていた個室に移された。
念のため、と家族にも日勤の先輩が連絡をしてくれた。
仕事が終わったら向かうと言う。
日勤の先輩へ、連絡ありがとうございます、と伝えると、夜勤、頑張りなね、と背中を叩かれた。
気合が入った。
清水さんの様子を見ながら他の患者さんを回る。
清水さんに付きっきりになっていたいが、そういう訳にもいかない。
七人の患者さんが、私を待っている。
十分ほどしてから、個室にいる清水さんの様子を見に行く。すると、何かを言っているのが分かった。
「……髪、洗いたい」
ああ、前に入院した時にも、髪が洗いたいと言っていた。
あの時はドライシャンプーで済ませてしまった。
そして、今日はそれもできない。
以前先輩から、体の向きを変えただけで状態変化して亡くなってしまった人の話を聞いたからだ。
温かいタオルを持ってきて、お顔を拭く。
髪の生え際も、ゆっくりと拭いた。
「清水さん、ごめんなさい。今はシャンプーできないんです」
清水さんを見ると、口は閉じられていて、もう答えることはなかった。
一時間ほど経った頃、清水さんのご家族がいらっしゃった。
以前の入院で見かけた男性が、大学生くらいの男性を連れている。
息子さんとお孫さんだった。
「母の状態はどうですか」
部屋の前で、小さな声で尋ねられた。血圧はあまり変わりない。心拍数も、今は落ち着いてはいる。だが、いつ、どうなるかはわからない、とも伝えた。
「そうですか」
二人を部屋の中に案内する。
清水さんは、少し口を開けて眠っている。
肩で息をするように、呼吸をしていた。
二人を置いて、退室する。
記録に二人が来院したことを書きながら、教科書で学んだ努力様呼吸、というワードを思い出す。死が近くなると現れる呼吸だ。肩呼吸はその一つだった。
フォローの先輩へ報告し、他の夜勤メンバーが夕食休憩から帰ってきたタイミングで状態を伝え、ようやく夕食休憩に入った。
夕食を食べながらも、清水さんのことが気になって仕方がなかった。
ご家族はそれから消灯前までいたが、状態が変わらないことから、一度帰宅されることになった。
少し寂しい気持ちを感じながら、その背を見送る。
主治医の言葉が蘇った。
『家族の在り方は人それぞれ、か』
彼らにとっての家族の在り方は、きっとこうなのだ。
それを、私が責めてはいけない。
そう思うのに、もやもやが消えなかった。
夜は更けていく。
患者さんが亡くなるのは、夜から朝方にかけて多いという。
先輩が言っていた。
真昼に亡くなる人は少ないと。
四人看護師がいるので、前後に分かれて休憩に入った。
相談した結果、私はフォローの先輩と先に入ることになる。
休憩室のソファーは先輩に譲って、私はカンファレンス室のパイプ椅子の上で横になった。
もう五回目だが、体が痛くなるのは仕方ない。
なんとなくうつらうつらしていると、三時前に携帯のアラームに起こされた。
ぼんやりしながら準備をして、少し早くナースステーションに行くと、残っていたはずの先輩二人がいない。ラウンドでもしてるのかな、と思っていると、竹野さんの個室から慌てて出てきたのが見えた。
「川島さん、ちょうど良かった! ちょっと手伝って!」
慌てて入ると、ツンと血の匂いが鼻をつく。
「え、何が……」
「あ、川島さん、帰ってきたのね! ちょっとこれ量ってきて!」
手袋付けてね!と言われて見せられたのは、ビニール袋に入った、うっすらと赤く染まったおむつだった。
「は、はい!」
慌てて手袋を付け、ビニール袋をひっつかむと走り出す。かなり重い。
量ると八百五十グラムを超えていた。
急いで戻ると、中に当直の医師が到着していた。
「おむつ込みで八百五十五ありました!」
「七百二十五の下血ですね」
先ほどナースステーションで会った先輩が、記録を取りながら医師に伝えている。
もう一人の先輩は、血圧を測っているようだった。
どうやら、心拍数が上がり始めたため訪室すると、独特の臭いがしたようだ。
気づいた先輩がおむつを確認すると、多量の血便を見つけたため応援要請。
その間に血圧も下がり、呼びかけにも答えなくなったらしい。
「点滴もう一本追加して! 家族はいつ来る?」
医師の質問に、先輩が十分で、と答える。
間に合うか? と医師が呟く。
どうしたら、とおろおろとしていると、フォローの先輩が入ってきた。
「川島、あんたは自分の患者見ておいで。私は自分の患者見てきたから。落ち着いて、行くんだよ」
はい、と返事をしながら、でも何かした方がいいんじゃ、と後ろ髪をひかれる思いで部屋を出た。
部屋から出て一息つく。
先輩の、落ち着いて、という言葉を自分でも呟き、一歩踏み出した所で。
自分にも終末期の担当患者がいたことを突然思い出した。
慌ててナースステーションにある心電図モニターを見に行く。
清水さんの心拍数は、相変わらず百台だ。
「ああ、良かった……」
思わずへたり込みそうになる。
様子を見に行かないと、と清水さんの元へ向かう。
血圧は、変わらず六十台だ。他も変わりない。
安心して、他の患者の様子も見て回る。異常なし、と確認し、再び一息ついた。
ほどなくして、竹野さんのご家族が到着した。
「息子と娘が今だと来れないんです! 朝まで何とかなりませんか!」
奥さまが当直の医師へと詰め寄っている。
急な下血による血圧低下で、ご家族はまさかこんな早く、という思いの様だ。
点滴での血圧維持は患者の負担にもなるし、昇圧剤(血圧を上げる薬)を使ってもどのくらい持つかわからない。
元々ホスピス転院予定の患者さんだったので、昇圧剤含めた延命措置はしない、という意思表示があった。当直医も判断に迷うようだ。
主治医に確認する、と当直医が答え、電話をかけ始める。
生前のご本人の意志もある。カルテに記載が原則だが、念のため、主治医へ連絡を取ることにしたようだ。
数コールで主治医が出た。夜中だが、他病院の当直中で起きていたようだ。
「わかりました。はい、ありがとうございます」
主治医と相談し、ご家族希望に沿って、昇圧剤を開始することとなった。
先輩たちが準備をし、ご家族を刺激しないよう、静かに、だが素早く点滴を開始する。
しばらくして、血圧が戻り始めたようだった。
ほっとしていると、心電図モニターのアラームが鳴り始める。
竹野さんか、と思うが、清水さんが、アラーム上限値で鳴っていた。
心拍数が百四十を超えていた。
急いでベッドサイドへ向かう。呼吸がゆっくりとしており、先ほどより回数が減っている。
血圧を測ると、五十台とやや下がっていた。
先輩と相談すると、先ほど夕方に連絡してから状態が顕著に悪くなっているわけではない、もう少し様子を見ようとの判断になった。
それから一時間後、午前四時半。
後半休憩だった先輩たち二人は、休憩に入ることはできなかった。
あの後、何度か竹野さんが下血し、その度に処置をしていた。かといって、もう一人の終末期を受け持つ私が代わることもできず、結局残ってくれたのだ。
たまにあることだからしょうがないよ、気にしないで、と先輩たちは疲れた顔で笑っていた。
そうこうしてるうちに、清水さんの心拍数が徐々に下がってくる。
八十を切ったあたりで、先輩がそろそろ連絡しようか、と言った。
心なしかいつもより重い受話器を上げ、ご家族へ連絡する。
「はい、慌てず、お気をつけていらしてください」
息子さんはこれから向かう、と言ってくれた。
三十分ほどで着くらしい。
心拍数はゆっくりと下がり続け、今は六十台を示していた。
いったんそこで落ち着いたようだ。だが、二十分ほどすると、また徐々に下がり始める。
私は焦った。間に合わなかったらどうしよう、と。
フォローの先輩へ伝えると、ちょっと話しかけておいで、と言われた。
耳は聞こえてるはずだから、と。
私は慌てて部屋へ向かうと、清水さんに向かって話しかけた。
「息子さん、後十分で着くみたいですよ! もう少し、頑張ってください!」
そうしてがむしゃらに何度か声をかけていた。
すると、六十を切っていた脈拍が七十を超え始める。
そうそう、その調子、と思わず声が出た。
それからさらに二十分して、息子さんが到着する。
到着したころには心拍数七十台をキープしていて、それからしばらく、下がることはなかった。
結局、六時になるかならないかの頃、状態も変わらないようなので、一度帰ります。そろそろ会社に行かないといけないんで……と息子さんは帰っていった。
帰る間際、何度もお呼び立てしてすみません、と伝えると、疲れた顔にわずかな微笑みを見せてこう言った。
「いいえ、いいんです。何かあれば、また連絡してください」
気を遣わせてしまったような気がして、更に頭が下がる。
帰る背中を、頭を下げて見送った。
そうして、私の朝が始まった。