11:彼と彼女のティータイム
しばらく、そうして二人で黙ってお茶を飲む。
男は何かを考えているようだった。
「死ぬこと、俺は怖いです」
ゆっくりと、と話し始める。
「よくドラマとかであるじゃないですか。余命宣告されて、やりたいことたくさんあったのにーってやつ。俺、まだやりたいことなんて一つもやってないんで、まだ死ぬわけにはいかないんすよ。だから、こんな業界にいるけど、酒しかやらないです。それも、あんまり飲めないんで、スカウトやってるんすけどね」
紅茶を一口含むと、ゆっくりと飲み込んで、一息ついた。
「でもまあ、死んでいった奴ならたくさん見ました。飲みすぎて肝臓壊したやつとか、男に貢いでソープ落ちして、心を病んで死んだ嬢とか。あとは、薬にはまって、帰ってこれなかったやつ。そういうやつら、結構たくさん見てるんですよね、俺。だから、余計にああはなりたくないって思っちゃうのかも」
カグヤは黙って男の話を聞いていた。
「俺は家出同然で出て来てこんな仕事してるんで、帰るに帰れなくって。親父やおふくろ、妹は元気なのかって、たまに思うんですよね。ばあちゃん、まだ生きてるかなって。俺が帰っても、いいことなんもないから。だから、死ぬなら、家族がどうしてるかは、絶対知りたいっすね。だけど、俺が死んだら、それは知らせてほしくないです。だって、迷惑になるだけだと思うんですよね」
男が机の一点を見つめて、何かを思い出そうとしている。
遠い日の、両親と妹の姿でも思い出しているのだろうか。
「あなたは、どんな風に死にたいの?」
「死に方ですか?」
「それもあるけど、あなたが死ぬ時、一人で死にたいの? それとも、誰かに囲まれて死にたいの?」
それって、難しいっすね、と男は口ごもる。
「やっぱり、一人だけで死ぬのって、怖いなって思うんですよ。心臓の病気とかでぽっくりって理想みたいに言われてますけど、あれって胸が苦しくなって死ぬじゃないですか。一人だったら誰にも助けてもらえないまま、死んでいくってことですもんね。だったら眠るように死にたいけど、本当の意味で眠るように死ぬって難しい気がするんですよね。俺、頭悪いから、雰囲気ですけど」
そうして、少し考えこんで、続ける。
「だから、俺がどんな風に死にたいかって言うと、なんていうか、穏やかに死にたいですね。やりたいこと全部やって、あなた死にますよって言われても、もう思い残すことないっていうか。一人くらい、俺の事心配してくれる人が側にいてくれたら、最高かも。難しいっすけどね」
ははっと笑って、男は何かに気づいたように口を開け閉めし、声を低くしてカグヤに尋ねた。
「今更ですけど、死に方聞いて、その通りに今すぐ死なせるとか、ないっすよね?」
「何度言ったらわかるの。そんなつもりはないわ」
ああ、なら良かった、と男は息をついた。
「それで……あ、今更ですけど、お名前聞いても?」
そこでカグヤは、男に名乗っていなかったことを初めて思い出した。
名前を告げることなんて、めったにないことだから忘れていた。
「ああ、私の名前は」
「ちょ、ちょっと待ってください。聞いといてなんですけど、聞いたらなんか起こるとかないですよね?!」
カグヤは呆れながら、笑った。
「ないわ。本当にあなたは臆病ね」
「自己防衛本能が強いって言ってください。ないなら、いいですけど、後出しはなしですよ」
カグヤはないわよ、と再び添えてから、名を教えた。
「カグヤさん、ですか。月のお姫様の名前ですね。俺は、コウキって言います。まあ、そんな深い仲になるわけでもないですし、下の名前だけでいいですよね」
コウキ、というのか。
そういえば、名前も聞いていなかった。
「で、本題に戻りますけど、カグヤさんはなんでそんなに死に興味あるんですか? ……まさか、これから死にたいから、とかですか?」
「……死ぬ気はないわ。ただ、知り合いに言われたのよ。私はヒトの死を知らない、大事なヒトが死ぬところを知らないって。死なんて悲しいだけのものだと思ってたから、見る気もなかったのは確かだわ。それで、いい機会だから見に来たの」
脳裏に、愛猫の姿が思い浮かぶ。
彼は元気にしているだろうか。
部屋を出てから、一週間近く経つ。
あの手触りのよい黒い毛並みを撫で、彼と一緒にこの世界を眺めていたころが懐かしい。
「それで、まだ見れないから俺んとこ来たんですか? 病院行くって言ってましたよね」
「病院で、たくさん見たわ。ヒトの死を。終わりを」
カグヤはこれまでにあったことを話した。
始めのバイク事故で死んだ青年。病気で死んだ人たちと、担当していた看護師たち。そして、自ら死を選んだ男の話。
「なんで他の人の考えが分かるのかとか、なんか突っ込みたいことはいっぱいあるような気もするけど、もういいっす。で、ここまで来て、死はやっぱり苦しくて悲しいだけじゃないかって思って悩んでるんですよね。でもそれって、悩むほどのことですか?」
カグヤは男の言ってることが分からず、男を見つめる。
「あ、いや、気を悪くしないでほしいんですけど、普通考えたら、死ぬなんて怖いに決まってるし、自分の知ってる人が死んだら、そりゃ悲しいに決まってるじゃないっすか。厄介で当たり前。避けようがないんですから。それのどこがだめなんですか?」
どこがだめなんだろう。
カグヤは考え始めた。
滝本の死や、川島の回想や記憶を見て、死は悲しいだけのものじゃないような気がしていた。けれど、その後眺めたヒトの死は、どれも悲しいだけのものだった。
その違いはなんなのか。
コウキが死にたくないと言っていたように、ヒトは死を恐れている。
自分の死を。
いつか迎える死に悲しみ苦しんでいるわけではなかった。
ヒトが死んだ後の、悲しみと苦しみ。
思えばそれは全て、残されたヒトが得る感情だ。
死を迎えた本人にとって、死とは何なのか。
人生を終えるとは、どういうことなのか。
そしてカグヤはなぜ、それを知ろうと思ったのか。
そうだった。
私の愛する美しいこの世界を汚してしまう人間が嫌いだった。
だから、終焉を願おうと思った。
けれど愛猫は、それを止めようとした。
彼と最後にした会話を思い出す。
『シムルは私にヒトの儚さを教えたいんでしょ。そして慈悲を求めている。気まぐれで終焉を引き起こさないように』
『儚いヒトの死に、美しさを感じている。どこか懐かしさと、切なさを。シムルは私に、人の死を知ることを望んでいるのよ』
ヒトの死は、儚いものだと、気まぐれで終わらせて良いものではないと、伝えたがっていた。
「ヒトの死の儚さを。美しさと、懐かしさと、切なさを」
思わず呟く。
自分でシムルに言っておきながら、今まで考えてこなかった。
聞こえなかったのか、コウキが何ですか?と尋ねてくるが、答えず、問い返す。
「あなたは、ヒトの死を美しいと思う?」
「え、いきなりなんですか。人の死が美しいとか、どこの狂ったやつですか」
「そういう反応になるのね」
「そりゃそうっすよ。そういうセリフは、ドラマの殺人鬼とかが言ってるやつです」
「なるほど」
「あ……でも、今思い出しましたけど、昔のドラマで、なんかそういうこと言ってたのがあったような……」
カグヤはうーん、とうなり始めたコウキを見つめる。
「あ、そうっすよ。あれだあれ。ドラマの名前は忘れちゃいましたけど、『一生懸命生きたやつの人生は輝いてる、その人生は死してもなお、美しい』みたいなこと言ってたやつがあったような気がします!」
ああ、すっきりした、という顔で、コウキは紅茶を一口飲んだ。
カグヤも一口飲む。カップの中身は、ほとんどなくなっていた。
「でもこれって、一生懸命生きた奴以外はだめなのか、とか、不慮の事故で死んだらどうなのかとか、なんか色々言われてたような……」
「そうなの」
「まあ、そりゃそうっすよね。だって、ドラマの主人公みたいに、たくさんの困難を乗り越えて、周りに凄い影響与えて死んでいくやつって、そんな多くないだろうし。俺だって、そんなキラキラした人生歩いてみたかったっすよ」
「あなたの人生は、キラキラしてないの?」
「いやいやカグヤさん、キラキラしてたら、こんなとこで死とはなんぞやみたいな話、たぶんしてないですって」
「そういうものなのかしら……?」
「そういうもんです」
そうなの、とカグヤは呟いて、ふふっと少し笑った。この男との掛け合いは、自分がヒトになったような気がして面白い。
カップに残った紅茶を飲み干した。
椅子の音をさせないように、立ち上がる。
「お話ありがとう。参考になったわ。また聞きたいことができたら、伺うわ」
「え、いや、こちらこそ。でも、俺なんかより、他の人の方が」
「では、失礼するわね」
コウキの声を無視して、喫茶店のドアを開けて外に出る。
カランカラン、と音がして、ドアが閉まった。
慌てて追いかけてくる気配がしたが、すぐさま飛び立つ。
そうしてしまえば、彼の言葉は聞こえない。
彼は面白い存在だ。ここで手放すのは惜しい。
カグヤを恐れながらも、委縮せずにいる珍しい相手。
きっとまた、笑いたくなった時、彼には会いにいくだろう。
それまで生きていればいいけれど、とふと思って、心がすっと冷え込んだ。
そうだ。カグヤは永遠を生きる。
気に入った動物には、永遠の命を与える。
カグヤにとって、ヒトの一生は短いから。
それもいいかもしれない。
次に会った時に聞いてみよう、そう思い立つ。
気を改めて、病院に行くことにしよう。
彼が言っていた、キラキラした人生のヒトの死が落ちているかもしれない。
美しい、死。
それを見てみたかった。