10:もどかしさと、再会のミルクティ
自殺の話ができます。ご注意ください。
毎回暗くてすみません……。
数日後、カグヤは街の上をふらふらと飛んでいた。
あの後、病院の色んな所を回ってたくさんの死を見たが、なんだかぼんやりと眺めているだけになってしまった。
少し冷静になろうと、空から夜の帳が降りた街を眺める。
暗闇に、色とりどりの光が弾けていた。
余命を宣告されて、その通り死んでいく者、長く生きた者、早く死んでしまった者。
抗う暇なく、突然人生を終えざるを得なかった者。
自ら人生という舞台の幕を引いたもの。
状況が違えば、その死の持つ意味も変わってくる。
それが、カグヤには中々理解できなかった。
死とは一つの事象で、全てのヒトに等しく訪れるものだ。
状況が異なるからと言って、その死が持つ意味が変わってくるというのは、今まで死に触れてこなかったカグヤにとっては、不可解だった。
いや、まったくわからないわけではない。
数日、病院で様々な死に触れた。そして、死にゆくヒトを見送ってきた川島やその友人である裕美の、ヒトの死に対する考えをたくさん聞き、そしてそれに基づいて対応する様子も見た。
ヒトにとって、人生は有限だ。
だからこそ、精一杯生きようとする人もいれば、いつまでも訪れないもの、自分には関係ないものとして、自分が思うように過ごし、いざ死に直面した時におかしくなるものもいる。
逆に、死を選んだことで、辛く、苦しい人生から解き放たれたヒトもいた。
昨日、死んだ男だった。
積み重なる残業。
自らの身を守るため、周りに気を遣い続ける職場。
大好きだと思っていた仕事が、いつしか憂鬱なものになり、ここ最近はただ終わらせるためだけに、機械的に処理するようになっていった。
求めていた理想と、どんどん乖離していく現実。
始めは会社が悪いのかもしれない、仕事環境が良くないのかもしれない、と思っていた時もあった。
それは時間が経つにつれ、自分の仕事の仕方が悪いんだ、自分が悪いんだ、に変わっていった。
自分を責めて、責めて、責め続けて。
ああ、もう死のう。
辛くて先が見えない真っ暗な人生なら、ここで死んでしまった方が、楽に違いない。
男はそう思い、淡々と準備を始めた。
他人に見られたくないものを処分し、彼が選んだ方法で、死ぬことにした。
そうして、今生に別れを告げ、あと一息で黄泉の国、という所で家族に見つかり、救急搬送された。
だが、間に合わなかった。
彼にとっては幸運なことに、目的は達成された。
人生という舞台に自ら幕を下ろし、この世から自由になった。
カグヤは、その男が死にゆく様を見ていた。
どうして、そうなったのか、男の記憶を見ていた。
そして、男が自由になった瞬間を見ていた。
男は確かに自由になった。
もう、男を縛り付けるものはなく、暗い舞台は幕を引いた。
だが。
男は自由と引き換えに、自らに関わる人間を、自分の舞台の客席に縛り付けた。
カグヤは見ていた。
泣き崩れる男の妻を。母を。きょうだいを。
そして、子どもを。
死にゆく男を見つけたのは、男の子どもであった。
子は人生の舞台上に、父親が自ら命を絶った、という情景を取り入れてしまった。
ふと、見上げれば、その情景が目に入る。
狂わぬように、叫ばぬように、自らを押し殺す子どもを、カグヤは見ていた。
ヒトの死は、悲しく辛い。
だが、それが救いになる者もいる。
ただし、本人が引き受けなかった辛さや苦しみは、同じくらい周囲の人間が負うことになる。
「なんて、ままならないのかしらね」
ヒトの死は、厄介だ。
そのまま飛び続けていると、先日街で邪魔をしてきたスーツの男を見つけた。
今日も変わらず女性に話しかけては、振られている。
ふと、彼に話を聞いてみたいと思った。
ふわり、と街へ降りていく。
「こんばんは」
声をかけると、男は驚いたように振り返り、そして一歩後ずさった。
「うわあ、出た」
「あら、挨拶もできないのかしら」
「すみません! こんばんはです!」
男が直角に腰を曲げたのがおかしくて、くすくすと笑いが出る。
ああ、笑ったのなんて、いつぶりだろう。
ひとしきり笑うと、まだ頭を下げている男を見つめた。
「あなたに、聞きたいことがあって、声をかけたのよ。ちょっと付き合ってちょうだい」
「うええ、俺っすか?! いやいや、あなたみたいな美人さんのお話相手には、力不足です!」
「力不足かどうかは、私が決めるわ。どこか、話せるところに連れて行きなさい」
「ですが、仕事が」
「私は気が短いの」
「はい、喜んで!」
ちょっとだけお待ちください、と男は言って、どこかに電話をかけ始めた。
ちょっと、大事なお客がーと声が聞こえる。
「すんません、お待たせしました」
「問題ないわ。それにしてもあなた、そんな話し方だったかしら?」
「あ、いや、これは……。それよりも、話す場所でしたね! あっちに静か目なカフェがあるんで、そこ行きましょう!」
「まあ、いいわ。わかった。案内よろしく」
なんだか男の様子を見ていると、口元が緩んでしまう。
なぜなのか、と思うと、ここ数日、誰とも話していなかったせいか、と思い至る。
部屋にいれば、シムルが話相手になってくれる。ここ五十年程、話さない、という日がなかった。
シムルが来るまでは一人だったのに、現金なものね、と心の中でため息をついた。
「それで、お話しって何でしょうか?」
こじんまりとした、古くはあるが小ぎれいな喫茶店で男と向かい合う。
男の態度が変なので、思考を読むと、どうやらカグヤに恐れを抱いているようだった。
カグヤは印象を残さないよう力を隠し、この男に接した。だが、恐れる存在である、ということに気づいていたらしい。
自らに危険になるものに敏感な男だ、と男を再評価した。
注文は男に任せた。男の店員に、オリジナルティーというものを頼んでいる。
さて、とカグヤは切り出した。
「以前、あなたに会った時に、私は死を見たい、と言ったのを覚えているかしら?」
「もちろんです」
「それで、あなたにお願いしたいことがあるの」
「え……」
男はしばらく口ごもると、そっと呟くように言った。
「それって、俺に死ねってことですか」
瞬間、カグヤは笑いが堪えられなくなった。
あれだけ恐れていたのだ。カグヤが本気になれば、この男の死など容易いことくらい、わかっているだろう。
なのに、この男は真面目な顔して、何を言い出すかと思えば。
「え、いや、笑い事じゃないんですけど」
男は戸惑っているようだ。
「いいえ。笑い事よ」
カグヤは言い切った。
「あなたの死を見たければ、許可を取る前にやっているわ」
男の顔がざーっと青くなったのを見て、カグヤはまた笑ってしまった。
「……そんなに笑うなんて、趣味が悪いっすよ」
男がふくれつらをし始めるのをみて、また笑いそうになるのを堪える。
なんなんだ、この男は。
カグヤのことを、命に危険を感じるほど恐れながらも、今は呆れてもいるし、少し面白がってもいる。
変な男だ。
そして、こんな些細なことで笑ってしまう自分も、今日は少し変だ。
「悪いわね。久しぶりに笑ったら、止まらなくなってしまって」
気を取り直して、男に向き合う。
「お願いっていうのは、そんな大変なことじゃないわ。あなたにとって、死とは何かを教えてほしいの」
「死とは何か、ですか……」
「ええ」
そこで、頼んでいたオリジナルティーが届く。
温かいカップに、琥珀色の紅茶が注がれた。
「これ、ミルク入れるとおいしいんで、良ければどうぞ」
男がミルクを勧めてくるが、まずはそのままで飲んでみる。
とたん、舌にじわりと痛みを感じる。
久しぶりの飲み物に、少し油断したらしい。
静かに熱さに悶えていると、男がニヤニヤと笑う。
「ミルク、入れるとぬるくなりますし、いいっすよ」
男の言葉には返事をせず、ミルクを入れ、再びゆっくり飲む。
ふわり、と茶葉の香りとミルクが相まって、ちょうど良いまろやかさだった。