修練2
陽が沈み、もう深夜と呼んでも差し支えのない時間帯になり始めたころ、武は空我に道場へと呼び出された。約束の時間である十時に道場にて正座をして待っていると、空我が足音をほとんど立てずに、道場の扉を開けてやってくる。
「ごめんごめん。待たせちゃった?」
「いや。そんなことはない。俺も来たのはついさっきだ。事前に遅れる可能性もあると言っていたし、それに、まだ十時をほんの少し過ぎた程度だろう? 謝る必要はない」
「いやいや。そうはいっても、一時間前に急に呼び出しておいて、遅刻しちゃうっていうのは、さすがにまずいでしょ」
空我はそう言って武の前に綺麗な正座をする。所作も見事なものだなと内心あまり関係のないことを賞賛していると、空我が武の目を見すえて言ってくる。
「今夜呼んだのはね。君にある重要な修練をやってもらいたいからなんだよ」
「重要な修練?」
大仰な言い方に、武は首を傾げる。この日の早朝に権藤が、今日にでも祓い師として欠かせない修練を行うかもしれないと言っていたが、ひょっとしたらそのことだろうかなどと思っていると、空我が急に立ち上がる。
「ん? どうしたんだ?」
「いや。口で言うより、直接見てもらって方がいいと思ってね。ほら、百聞は一見にしかずっていうだろう? だから、君にその修練について、その目で見てほしいんだよ」
「?」
妙な言い方に、武は怪訝に思うが、空我が入り口に向かって歩き出したので、慌ててその後を追う。空我の行く先に想像を遥かに絶するものが待ち受けているとは、この時の武は考えもしなかった。
○○○○○
広大な城神家の屋敷の廊下を延々と歩き続けると、行き止まりで空我が立ち止まる。
「何もない場所じゃないか。ここに何があるんだ?」
「まあ見てて」
空我はその場にしゃがみ込み、床に右手の掌を当てる。何をしているんだと疑問に思うが、すぐに空我の体からほんの一瞬だけすさまじい呪力が発せられる。次の瞬間には、空我の前に地下へと続く階段が出現していた。
「今からこの階段を下りてもらうことになる。だけど、その前に一つだけ言っておきたいことがあるんだ」
そこで空我は今までに見たことがないほどの神妙な顔を見せる。
「何だ?」
「これから先、君には一人前の祓い師として認められるための試験のようなものを受けてもらうことになる。当然、今までとはまるで比にならない恐ろしい試練だ。君は基礎を大方修めたとはいえ、まだ修練を始めて二日の身だ。もし、君が不安に思うのなら、今はやめておいた方がいい。そこまで時間は掛けられないかもしれないけど、もう少し力を蓄えてから挑戦するという選択肢もアリだ」
要するに警告だ。空我の表情から察するに、この先想像を絶する修練が待ち受けているのだろう。おそらく、今までのようにはいかない。しかし、それでも武には選択肢は一つしか残されていなかった。
「いや。やるよ。どうせ後回しにしても結果は変わらない。俺は一刻も早く、前線に出ないといけないんだ」
強い意志が込められた目で武は空我の目を見る。空我はそれにどことなく嬉しそうな笑みをこぼす。
「そっか。安心したよ。ここで躊躇しているようじゃ、おそらくどんなに時間を費やしても、この修練はクリアできないだろうからね」
空我はどこか諦めたような顔でそんなことを呟く。武はそれに違和感を覚えるものの、指摘はしなかった。
「それじゃあ、行こうか。地獄へ」
空我はそう言って颯爽と階段を下りていく。武もそれに追従する。
階段の中は蛍光灯などがところどころにあり、お世辞にも明るいとはいえなかったが、懐中電灯などが必要というほどではなかった。階段を下りて、しばらく廊下を歩くと、札がたくさん貼られた扉に突き当たる。
「この扉の先だよ」
空我はそう言って扉を開ける。中には明かり一つ見当たらなかったが、今までもそう明るくはなかったのが原因だったのか、目が慣れるのにそう時間はかからなかった。
だからこそ、部屋の中の常軌を逸した光景をすぐにでも目の当たりにしてしまったのだ。
「な…… っ!」
武はその光景に絶句する。無理もない。なにしろ中には上半身裸の男が縄で縛られ、部屋の中心に座り込んでいたのだから。
「う、うぅ……」
男は意識があるようだが、かなり痛めつけられたらしい。顔や露わになっている胴体、七分丈の茶色のズボンから覗く足には痛々しい傷やあざが見られた。
「なんだ? これは……」
呆然とした顔で呻くようにそんなことを言う。空我は怪しい笑みを浮かべながら、説明を始める。
「これが修練に必要な材料だよ」
「材料…… だと?」
青ざめた顔で空我の言葉をオウム返しのように言う。
「そう。この男は僕たち祓い師に牙を向いた男でね。特権を行使して、この男を捕らえて、拷問した上でここに連れてきたんだ」
「なぜ、そんなことを……?」
「さっきも言っただろう? 修練に必要な材料だって。君には、この男を殺してもらう」
「!」
あまりにもあっさりと空我が言ったために、一瞬なんでもないようなことのように感じてしまった。だが、そんなはずがない。空我は武に人殺しをしろと言ったのだ。
「やっぱり、そうなっちゃうよね。皆そうだよ。突然人を殺せって言われても、それを実戦できる奴はそうはいない」
どこか他人事のように空我はそんなことを言う。
「だけど、これは必要なことなんだ。これから君が祓い師になるというのなら、これを為せなければ意味がない。その理由は言わなくても分かるだろう?」
「…… 乗っ取り……」
「ご明察」
武にはこの修練がなぜ必要なのか頭では理解できていた。その理由故に、武もある程度の覚悟はしていたが、まさかここまでとは思っていなかった。口をつぐむ武に、空我は囁くような声で言う。
「僕らが戦う悪霊は人に取り憑き、その呪力と体を奪うことで力を手に入れる。そして、違う人間に乗り移っていくことで力を蓄えていき、下級、中級、上級、最上級と階級を上げていく。当然取り憑かれれば、その人間は力を奪われ、場合によっては記憶までも奪われて死ぬ。それを止めるために、僕たち祓い師は生まれたんだ」
空我はそこで言葉を止める。
「悪霊を祓うことで人々を救ってみせた祓い師に人々は感謝し、祓い師に対して特権階級を作った。ここまでは君も権藤から聞かされていたと思う。だけど、悪霊を祓うにはある問題点があった」
もう武には何が言いたいのか分かっていた。
「見た目か……」
「そう。人に取り憑いていない状態の悪霊や、そもそも人に取り憑くことさえできない雑魚悪霊はまだいい。どうせ、そいつらの見た目は人から大きく外れている。だけど、問題は悪霊が人に取り憑いていた場合だ」
武は目を細める。さきほど、武は悪霊は人から呪力と体を奪うと言った。それの意味するところは一つだった。
「つまり、見た目は完全な人間にしか見えないって事だな」
「その通り。人に取り憑いた悪霊は、見た目だけは取り憑かれた人間そのものだ。その悪霊を祓うには、その人間の体ごと祓うしかない。それは実質的な人殺しと同義だ」
「…… 悪霊をその人から切り離すっていうのは無理なのか?」
「できなくはないけど、いちいちそんなことしていられないよ。それに、どうせ引きはがせても、取り憑かれた人間はもう助からない。祓い師たちも無限にいるわけじゃないからね。効率よくやるにはその方法以外にないんだよ」
「そのために、人殺しを体験しておく必要があるってことか」
「その通りだよ」
空我は感情を感じさせない声でそう言う。顔も完全に無表情となっており、内心が全くつかめなかった。
「そして、この修練にはもう一つ意味がある」
「意味?」
「共感能力を消すことだよ」
「は?」
空我の言っている意味が理解できず、武は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「言うまでもないけど、悪霊に取り憑かれる危険が大きいのは、悪霊と戦っている者たちだ。僕たち祓い師もそれは例外じゃない。一応、呪符を使ってある程度リスクを下げてはいるけど、取り憑かれてしまう可能性は低くはない。だからこそ、共感能力をできるだけ無くす必要があるんだよ」
「なんでそんなことを?」
共感能力は文字通り、他者に共感する能力のことだ。この能力があるからこそ、人々は人間関係や人間社会を形成できている。人間にとって、なくてはならない能力だ。
「悪霊っていうのは狡猾でね。ありとあらゆる手を使って、人間を乗っ取ろうとしてくる」
「だったら、欲望なんかその典型例じゃないのか? 例えば、男なら金や女をくれてやると言われたら、それに乗ってしまう奴も多いと思うんだが」
「いや、それはできないんだよ。呪符のおかげでね」
空我はそう言って呪符を右手でヒラヒラとさせる。
「呪力っていうのはそいつ自身の持つ欲望の塊だからね。それを呪符でコントロールすることによって、悪霊は欲望に訴えかけたところで、その呪力に飲まれるだけなのさ。だから、ある程度頭の切れる奴は祓い師相手に欲望に訴えかけることはしない」
武は目を細める。もし欲望に訴えかけられないとすれば、手段は限られてくる。その面だけ見れば、合理的な選択にもギリギリ見えなくはないが、はっきり言って無茶苦茶の一言に尽きる。なにか裏があるようにしか見えない。
そこで、拘束されていた男が呻き声を上げる。そのまま、なにやら小さな声で話し始める。
「ゆる…… さ…… ねぇ……」
男は二人を憎悪に満ちた目で睨みつけている。息も絶え絶えといった様子の男は更に言葉を続ける。
「つま…… と…… むす…… こ…… の…… かた…… き……」
武はその言葉に目を見開く。同時に、頭の中にぼんやりとある映像が浮かび上がる。はっきりとは見えない。何が起こっているのかも分からない。白い霧のようなノイズがひどい映像だった。だが、その映像の中で、武自身の声だけがはっきりと頭に響いてくる。
刹那、武は表情から色を消し、男に近付いていく。懐から呪符を取り出して、それを男に向ける。次の瞬間には、男の頭が消失していた。男の血が首から大量に噴き出してくる。その血を浴びながら、右手を真っ赤に染めた武はとてつもなく冷たい目でその様子を見ていた。
「急にどうしたの? もちろん、文句なしに合格だけどさ」
凄絶な光景に空我は顔色一つ変えずに、むしろ普段と変わらない笑みでそう尋ねてくる。武は無表情のままそちらを顔だけ向ける。
「ほんの少しだけ、思い出しただけさ。昔のことをな」
「へぇ。それは一歩前進だね。何を思いだしたの?」
空我はそう言って、どこからか取り出したタオルを武に渡す。
「なんてことはない、たった一つの言葉だよ」
武は受け取ったタオルで返り血を拭きながら、言葉を続ける。
「何があっても、俺が正しいと思ったことをつらぬき通す」
さきほど一瞬だけ浮かんだ映像の中で、唯一武が聞き取れた言葉だ。同時におそらくは自分自身の言葉でもある。どうしてそんなことを言ったのかは思い出せない。だが、何をすることになったとしても、この言葉だけは絶対に守り抜く必要があると武は直感だがそう思った。武の言葉に空我は一瞬だけ嬉しそうな笑みを浮かべる。だが、すぐにその笑みを消し、ある程度返り血を拭った武からタオルを受け取る。
「一応、この地下にもシャワーがあるから、そこでシャワーを浴びてね。着替えは用意してあるから安心して」
「ああ、分かった」
「案内するよ。ついてきて」
武は無言で空我の後をついていく。その顔に人を殺した事による動揺や罪悪感は見られなかった。知らない者が見れば、何か軽い仕事を一つ終えた後のようにも見えるだろう。常識で考えれば、武は紛れもなく異常者だろう。だが、祓い師としては間違いなく超一流になり得る素質を秘めた人間だ。
こうして、武はあっけなく祓い師になったのだった。