七月三十日2
午後二時。武を乗せた船が港に到着した。
行きの時とは違って、いくらか小ぶりな客船だった。だが、それでも十分な大きさを誇るのは間違いない。普段なら、指名手配犯並の扱いを受けている武が乗るには向いていないように見えるが、今の大混乱に紛れて動けば関係ない。武は誰も警備員がいないのを確認すると颯爽と下船する。
「久しぶりの藍岸だな」
武は感慨深そうに呟くと、荷物を持って藍岸の地へと足を踏み入れた。だが、その歩みも十数歩のところで止まる。
武はめんどくさそうな顔で正面に立つ民衆を見る。民衆はそれを見て怒りを露わにする。
民衆の一人であるグレーのスーツを着た壮年の男性が怒りをこらえながら、武に問い質す。
「君が屋敷武か?」
「そうだが、そういうお前らは何者だ?」
武はそっぽを向きながら尋ねる。遺族たちからはその態度に対して野次が飛んでくるが、武はうっとうしそうに手を振るだけで取り合わない。
男性は彼らを手で制止し、口を開く。
「私たちは昨夜の大事件の遺族だ。だが、君にそのことについて何かを言うつもりはない。君は、今、ここに帰ってきたらしいからね。私たちが聞きたいのは一つ。君が今回の事件に関与し、我々の大事な人を殺す手助けをしていたというのは本当か? もし本当ならば、皆のためにも君は我々の手で殺さなくてはならない」
武はその問いで全てを理解する。というより、ここまで情報が出ていれば誰でも分かる。どこで聞いたのかは知らないが、彼らは武に悪霊ではないかという疑惑があることを知っているのだ。
だが、武は何の興味もそそられなかった。確かに緑陸に行く前なら多少は混乱したかもしれないが、今はもう全てを知っている。だから、何も動じる必要がなかった。むしろ、余計な手間がかかって面倒だとさえ思っている。
億劫そうにあくびをする武を見て、さすがの男性もイラつきを見せはじめる。
「何か言ったらどうだ? 事と次第によっては……」
男性の言葉はそこまでだった。男性が気付いたときには既に腹に大穴が空いていた。
「え?」
男性は何が起きたのか理解できないまま、その場に倒れる。他の遺族たちが事を理解して悲鳴を上げる前に武は動く。
結果はあまりにあっけないものだった。当然といえば当然だが、遺族たちに武に対抗する術などありはしなかった。中には武を殺すために拳銃を持ち出していた者もいたようだが、そんなもの無用の長物にすぎない。結局陽の目を見ることなく、持ち主もろとも破壊された。
「やれやれ。確かにうっとうしいし面倒だが、やらなくてはならないことだからな」
武は腹に大穴が空いて死んだ壮年の男性の下へと近付いていく。武は男性のすぐ側まで歩み寄ると、しゃがみ込んで言う。
「あんたはあんたなりに正しいと思ってやったことなんだろうけどな。聞こえてねえだろうが、一つだけ忠告しといてやるよ。あんたは皆のために俺を殺すと言っていたが、皆のためにやるなんていう偽善的な理由じゃ、どうあがいても自分の正しい道には進めねえぜ。他人なんざ、しょせんは自分が得するための道具だ。その身を削ってまで利得を捧げるようなもんじゃねえ」
武は立ち上がる。そのまま神殿地区の方へと歩き出す。そして、去り際に一言。
「俺たち人間は自分のためにしか何かをできねえようになってる。ひょっとしたら、てめえらは祓い師に頼らずに悪霊を討たんとする義賊気取りだったのかもしれねえが、本質的にはてめえらも俺と変わらない自己中心的な救いようのねえクズだよ」
武はそこで一度足を止める。変わり果てた姿になった遺族たちの方へと振り向く。
「まぁ、俺とあんたらが違うって言うんなら否定できねえけどな。だが、そんなことは俺にはどうでもいいことだ。もうあんたらは俺らの眼中にはない」
武はそれだけ言うと、今度こそ港から立ち去っていった。
○○○○○
一ヶ月ぶりに神殿地区に戻ってきた武だったが、感傷に浸っている余裕はなかった。
「こりゃ、また一段とひどい有様だな」
武は頬をポリポリとかきながら呟く。あちこちに打ち捨てられた死体。その数は千や二千では到底きかない。万を優に超えるだろう数の死体が神殿地区一番の大通りを埋め尽くしていた。
緑陸の有宝村で武が引き起こした皆殺し事件にも劣らない凄惨な光景にさすがの武も呆れるしかなかった。
「別にこの道通らなくても屋敷には行けるが。さて、ここまで進んでるとなると屋敷戻る意味があるかね?」
武は肩をすくめる。必要なことだとは理解しているが、さすがにここまで早く事が運んでいるとは思っていなかったのだ。
「やぁ、武」
ふと背後から声をかけられる。何度も聞いた声だったのでゆっくりと振り返ると、全身に返り血を浴びた空我の姿があった。
「何か、一種のホラーみたいだな。まるで殺人鬼みたいだぞ。お前」
全身血まみれの空我を見て、武は思わずそうこぼした。空我は武の言葉を聞いておかしそうに笑う。
「そりゃそうだよ。正真正銘の殺人鬼だもん。それも何百万という人間を殺した超大量殺人鬼」
あっさりと答える空我に武は思わず苦笑いをしてしまう。しかし、そのことには触れずに気になったことを尋ねる。
「もう百万も殺ったのか。俺が藍岸に戻ってから二十分も経ってねえのに、随分急ぐじゃねえか」
「まあねぇ。でも、これで神殿地区にいた人間は大方殺せたよ。他の四国でも抹殺は着々と進んでる。今日中に全部終わらせて、あとはこの後に起こす事件で残った連中を始末すれば、お膳立てはおしまいかな」
今、人々を殺すために動いているのは悪霊だけではない。ごく一部の人間たちも同じ人間を殺すために動いている。
武もそれを理解しているため、空我の突拍子のない発言を何の違和感もなく受け入れているのだ。
「ふーん。…… 一応聞いとくが、残す奴らもいるんだろ?」
「そうだね。戯れ用に何匹か残すって話らしいよ」
「戯れねぇ。相変わらず、よく分からない奴だ」
「分かってもらう必要はないよ。自分ですら理解できないくせに、他人を理解するなんて芸当が人間にできると思う?」
「確かに、そいつぁ真理だな」
武はおかしそうに笑う。空我も薄ら笑いを浮かべている。
「それで、俺はどうすればいい?」
「ひとまず屋敷に戻って荷物置いてきなよ。その後、お前も参戦してもらう」
「分かった」
武は荷物を片手に死体を蹴飛ばしながら屋敷の方へと向かおうとする。その背に空我が言う。
「旅先で疲れてるだろうし、ゆっくりしてきていいよ。何しろ、お前には『ひとまずの終結』を演じてもらわなきゃいけないんだからさ」
「分かっている」
武は短く答えると、文字通り死体を踏み越えて城神家の屋敷へと向かっていく。空我はその後ろ姿を見送ると、藍岸の他の地区にいる人間を殺すべく動き出す。
○○○○○
救滅地区相談センター。その廊下を南条と北村が歩いていた。彼らの顔は暗い。
その理由は昨夜起こった大事件と昼過ぎになって再び始まった大虐殺にある。それによって、多くの人々が命を散らした。正義を掲げる滅兵の一員として、この事件を受けて何も感じないわけがない。
サケビやワライ主導の下行われている大量殺戮事件の余波は救滅地区にも届いていた。悪霊たちは救滅地区の人々にも牙をむけたのだ。当然のことながら、祓い師と違って滅兵は必死に人々に害なす悪霊を滅しようとした。しかし、救滅地区を襲った咲原の実力は圧倒的で並大抵の滅兵では歯が立たなかった。不運なことに波一たち歓楽戦出場メンバーが揃いも揃って不在だったこともあり、祓い師たちが縄張りとしている街ほどではないにしても、甚大な被害が出た。
このことについて、祓い師たちに対してほどではないにしても非難の声が上がったのも事実だ。
何の力も持たぬ人々にとって強き力は脅威だ。ましてや、今までとは比べものにならないほどの被害が及ぶとなれば、ただでさえ大きかった人々の不安がさらに膨れ上がるのも無理はないだろう。
しかし、午後二時を過ぎたときから、もはやそんなことも言えなくなった。
悪霊だけでなく、一部の超然たる実力を持つ祓い師たちも国民を殺害しはじめたのだ。横柄で苦渋を何度も飲まされながらも自分たちを守ってくれると信じていた祓い師たちの突然の凶行。それによる人々の恐怖と混乱は昨夜の比ではなかった。
このままやられてなるものかと彼らに対抗しようとする者も現れた。しかし、しょせんは非戦闘員だ。多少は腕の立つ者もいたが、そんなものは彼らには関係なかった。
凶行に及んだ祓い師は皆、精鋭中の精鋭。並の祓い師ならばひょっとすれば勝ち目もあったかもしれないが、実力者の前にそんなものはありはしなかった。祓い師に抵抗しようとした者は、軒並み惨殺された。まるで歯が立たなかった。
この事実に南条は歯ぎしりをする。
「くそっ! せめて、俺だけでも早く戻れていれば……」
南条は廊下の壁を思いっきり叩く。老朽化しているせいか脆くなっている壁は生身の南条の拳でも罅が入ってしまった。北村はその様子を横目に見つつも何も言わない。
「おいおい。荒れとるなぁ。お前が冷静さ失ってどないすんねん」
後ろから呆れたような声がかけられる。声の主が誰か分かっている南条はイラつきを隠しもせずに答える。
「お前こそなぜそんなに冷静でいられる? 我らは悪逆の限りを尽くす祓い師の代わりに悪霊を滅ぼす正義の使者。ならば、人々の命を奪われれば怒るのは当然だ」
南条の言葉に声の主――波一はぷっと噴き出す。南条は波一を背中越しに睨みつける。
「何がおかしい!?」
「いや、おかしいに決まっとるやろ。正義の使者? お前それ本気で言ってるん?」
馬鹿にしたような言い方をする波一にただでさえ頭に血が上っていた南条の額に青筋が浮かぶ。波一はそれを見てニヤニヤ笑う。
「ひゃあ。怖い怖い。そない怒らんでええやん。アホなこと言ったら笑う。これ常識やろ?」
「アホなことだと? 貴様こそ本気で言ってるのか? 貴様は祓い師の悪辣さに嫌気がさして、滅兵へと下ったのではないのか?」
南条の言葉に波一から一瞬表情が消え失せる。だが、すぐに元のニヤニヤ笑いに戻る。
「なんやそれ? そないご立派な理由でオレが反逆してこっちについたと思ってたんか」
「違うのか?」
「違う。嫌気が差したんは間違うてないけどな。オレが嫌気が差したんは、悪辣さやのうて愚かさや」
波一の言葉に南条は眉をひそめる。
「? どう違うんだ?」
「全然ちゃうやろ。もし同じやと思うとるんやったら、国語を一から勉強し直した方がええで。ほな、オレはもう行くわ。またな」
波一はそれだけ言うと、二人の横を通り抜けてさっさと行ってしまう。南条も北村も怪訝そうな顔になる。
「何だ? あいつ」
「いつものことだ。あいつは秘密主義者な面があるからな。考えるだけ時間の無駄だ」
南条はそう切り捨てて、波一の後を追ってセンターから出る道を進む。北村もその横を歩く。
「しかし、一体何が起きているんだ? 悪霊と祓い師が大勢の人々を殺すなど、今までなかったことだ」
「いや、今まで奇跡的に起きてなかっただけで、いつかは起きてただろ。悪霊は言わずもがな。祓い師とて人を人だと思わないような奴ばかりだからな」
「それもそうか」
北村は顎に手をやって納得する。しかし、南条の心中にはいろいろなものが渦巻いていた。
二人はセンターを出る。少しして歩くと市街地に出るが、いつもとうってかわって閑散としていた。がらっとしてしまった街に南条と北村は唇を噛む。
「本当にたった一日で変わってしまったもんだな」
どこか寂しさを感じさせる声で北村はそう呟く。
「俺たちの力不足だ。失ったものは二度と取り戻せない。だからこそ、一刻も早く解決しないとな」
拳を握りしめながらも南条は決意を新たにする。そんな二人の後ろで足音とともに何かを引きずるような音が聞こえてくる。
振り返ると青のシャツを着た茶髪の男が血まみれになりながら、小さな女の子の死体を左手に持って引きずっていた。南条と北村は反射的に構える。
「何だ、まだ生き残りがいたのか。おまえらも運がねえよなぁ。せっかく、今まで生き延びてきたのにここで死ぬことになるんだからよぉ」
男は死体を適当に捨てると、拳を握って二人に襲いかかってくる。南条と北村は滅術を発動させ、男を迎撃するために構えた。
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凶行に及ばなかった祓い師や滅兵たちは必死に絶望に抗った。しかし、それでも力及ばずにこの日全人口のおよそ九割以上がその命を散らした。




