龍全
六月十一日。梅雨に入ったのかその日はざあざあ降りの大雨だった。雨足も強く、とてもではないが傘なしで動くことはできない。もし、傘もなく外に出れば瞬く間に濡れ鼠になっていただろう。
そんな決して外に出るには不向きといえる日に武は車の後部座席に揺られ外出していた。隣には空我が同席している。
「あと十五分くらいで着くよ」
空我は外の景色を見てそう言ってくる。武はその言葉に答えない。
「それにしてもひどい雨だねぇ。一応向こうで降りるときには屋根があるけど、やっぱり、こう雨が強いとうんざりしちゃうよ」
外でほんの少し先を見ることすら苦戦しそうなほど強い雨が降っていることに、空我はぼやく。武はそれに反応することなく、ずっと聞きたかったことを口にする。
「それで俺たちは、今、どこに向かっているんだ?」
「あれ? まだ言ってなかったっけ?」
「正装して外に出る準備をしておけとしか言われていない。それも一時間くらい前に俺の部屋に来て突然言ってきたことだ」
「あ~。そっか。ごめんごめん。完全に忘れていたよ」
空我は右手で自身の頭を軽く叩き、てへっと舌を出す。その仕草は不覚にもかわいいと思えてしまえるようなものだったが、武は空我を冷たい目で見るだけだった。
「そんな目で見ないでよ。言いそびれてたのは悪いって思ってるんだからさ」
「それなら、早く言ってくれ。正装をしろなんてどう考えても誰かと会うんだろう?」
武は、今、この世界に来て間もない頃に一度だけ着た黒いスーツに身を包んでいる。その自分のスーツ姿を見下ろしながら、武は空我に誰に会うのかを問いただす。
あのときから約二ヶ月。今日までスーツを着ることを強制されることはなかった。それだけ、武に正装する場に出る機会がなかったということだが、今日になって突然そんなことを言われるということは誰か人に会うか、何かのパーティーくらいしか思いつかない。パーティーの線はおそらくない。もしそうなら、屋敷でもう少し何か噂されていてもおかしくないし、タイミングも中途半端だ。よって、誰かに会うとしか考えられなかった。
そのため、どんな人物に会わされるのかと内心警戒しての質問だったが、空我もその腹は読めているのかあっさりとその問いに答える。
「そうだね。お前の考えは正しいよ。確かに、今日僕らは人に会う。ただ、その人というのが、かなり特別な人でね。できるだけ礼儀正しくお願いね」
「特別? 誰だ?」
訝しげに空我を見る。だが、武の頭にはある者たちのことが浮かんでいた。できれば、当たっていてほしくはなかったが、彼らがこのタイミングで武を呼んだとしても不思議ではない。
どうか予想と違う人物であってくれと内心で祈る武の希望はあっさりと打ち砕かれた。
「龍全統也様だよ」
「………………」
武は思わず天を仰いでしまう。悪い予想が当たってしまった。やはり、普段はまるで信じていない神などに祈るものではない。
龍全。かつて美夢の口からその単語を聞いた。祓い師たちを統べる家。それくらいしか武は情報を持っていない。しかし、どう考えても面倒ごととしか思えない。下手をすれば、武の素性くらいあっさりと調べ上げている可能性がある。そうなったとき、どう対処すればいいのかまるで分からなかった。
せめて、もう少し早い段階で分かっていれば気休め程度には策を考えられたのだが、この段階ではもう手遅れだ。相手の情報も何もない状態で十五分足らずしか時間がないとなると武の頭脳ではその場しのぎの策すら思いつかない。完全に後手に回った形だ。
内心の動揺を悟られないようにしつつも武は平然とした顔で気持ちの立て直しを図る。
落ち着け。平常心を保たなければ、うまくいくものもうまくいかなくなる。
そう自分に言い聞かせる。ないものねだりをしていても仕方がない。こうなってしまったものはどうしようもないのだ。今、できることをやる。それしかない。
その考え自体が意味のないものだということを、この時の武はまだ知らなかった。
○○○○○
武たちを乗せた車は地下に潜っていく。地下駐車場の端の方に存在する入口の前に車は止まる。
「降りるよ」
「ああ」
完全に開き直った武は車から降りて空我の後に続く。地下に入る前にチラッと見ただけだが、この建物は祓師協会本部ビルよりも巨大なビルだ。高さも本部ビルの倍近くあるかもしれない。
そんな途方もない巨大なビルに武は背筋を伸ばして入っていく。入口に入って少ししたところにあるエレベーターに乗ると、武は空我の方に顔を向ける。
「そういえば、今回会う……」
「しっ!」
これから会うという龍全統也という人間について尋ねようとした武を空我は人差し指を口にやって制す。武は怪訝そうな顔になりながらも、大人しく引き下がる。
そんな武を尻目に空我は囁くような小声で話す。
「あまり無駄口を叩かない方がいい。詳細は省くけど、ここからは全身全霊で集中しておきなよ。僕の一挙一動を見逃さずに観察し、次にやるべきことを察して動け。そうしないと…… 死ぬよ?」
大きく目を見開いて空我はそう言い放つ。一瞬エレベーターの中の時間が止まったような錯覚に陥る。武は思わず息を飲んでいた。
明らかにいつもと雰囲気が違う。おそろしく濃厚で鋭い殺気を放っている。もちろん、空我に武を殺すつもりはないだろう。つまりは、殺気を出して忠告をしなければならないほどの相手だということだ。それだけ、今度の相手が相当な大物だということが分かる。
エレベーターから降りた後も無言のまま足音だけが廊下に響く。前回の挨拶まわりとはまるで違う重苦しい空気に武は若干息苦しくなる。だが、それを顔には出すまいと努める。
「ここだ」
突き当たりの仰々しい扉の前で空我は立ち止まる。エメラルドやルビーといった宝石でゴテゴテに装飾された黄金の扉。明らかに成金趣味といえるその扉を馬鹿にしようという気はとてもではないが起きなかった。空我も何も言ってこない。つまり、ここからが本番だということだ。
武は用件も告げられずに突然大物と会わされることに内心辟易していたが、それ以上考えることをやめる。余計なことを考えていてはまずいと武の本能が告げていた。違和感とか既視感とかそういう次元ではない。正真正銘のとてつもない怪物がこの部屋の向こうにいる。その怪物具合は部屋に入ってすぐに分かった。
無駄に厚い扉を開くと同時に肌に突き刺さる凄まじい威圧感。紫色の文字で魔方陣のようなものが描かれた薄暗い部屋の真ん中で扉以上に装飾された金ぴかの椅子に一人の男が座っていた。焦げ茶を七三にまとめ、茶色の瞳を持つ男。まず間違いなくこの男が龍全統也だ。
統也からは感情を感じられなかった。ただ無表情で武をじっと見ている。値踏みされている感じではない。武を遥か上から見下している、そう表現した方が的確だった。統也の身に纏う呪力がそれを如実に表している。
「そいつが屋敷武か?」
「!」
統也の言葉に武は思わず体を強ばらせる。文大や鎌瀬などまるで比にならない圧倒的な呪力の禍々しさ。それがたった一言発しただけで武に襲いかかった。空我の態度から、ある程度は予想していたとはいえ、この男はその予想を軽々と上回ってみせた。龍全統也。この男は今まであった者たちとは次元が違う。下手をすれば、最上級悪霊である灯よりも危険かもしれない。そう思えるほどの濃厚な呪力を受けながらも、武は口を開こうとする。だが、その前に空我が口を開く。
「はい。この男に相違ありません」
いつもよりも弱々しい声で空我はそう答える。だが、統也は空我に鋭い目と呪力を向ける。
「俺はその男に聞いたのだ。お前に聞いたわけではない」
「…… っ!」
空我の全身から汗が噴き出す。完全に圧倒されてしまっている。付き合いこそ短いが、武は空我の圧倒的な実力は何度か目にしている。武が当初苦労した上級悪霊と準備運動程度の力で渡り合い、あまつさえ最上級悪霊との戦闘も三人がかりとはいえ無傷で切り抜けた空我の力は紛れもなく本物だ。その空我をここまで押さえ込む統也に冷や汗をかいて見つめることしかできなかった。手も汗ばんでいる。唇から水分も失われているように感じる。もはや、今の段階で統也に対抗できる術はなかった。
「…… 申し訳ありません」
空我は深々と一礼し、武の方へと視線を向ける。武はその視線を受け、口を開こうとする。
「はい。私が屋敷武です」
やけに喉がからからだった。今、出した声も正直届いているかどうか分からないほどかすれていた自覚がある。どう考えても、目の前で鎮座する男のせいだ。
統也は武の返答に何の反応も示さない。武は無駄に威圧的な呪力を放つだけで、何も反応を示さない統也に薄ら寒さすら覚えた。
ずっと、疑問に思っていたことがある。城神家に引き取られてすぐに挨拶まわりをした際に空我は空次との挨拶でやけに丁寧な所作をとっていた。空我はあの時空次は気難しい人物だから接し方に気をつけてと言っていたことから、礼儀作法を知らない武への手本のためにあんな仰々しい作法をとっていたと思っていたが、あとになって考えればそれには違和感がある。そもそも、空我が城神家の実権を握っていたのなら空次にあのような態度をとらなくても問題なかったはずなのだ。なのに、なぜあのようなことをしたのか。
考えられる理由は二つ。一つ目は空次にもある程度の権限は残されており、あの場での承諾が武の城神家所属に必要だったから。そしてもう一つが、全く違う人物への接触のための予行演習のようなものだったからだ。
軍王家への奇襲から帰ってきた時点で前者の可能性は限りなく薄れていたが、今、その理由が後者だと改めて実感した。龍全家、いや、この男と武がいずれ接触すると分かっていたから空我はあんな意味のない、回りくどいことをしていたのだ。この飛び抜けて異常な男に武が殺されないように。
薄ら寒さを覚えているのは統也の呪力の質があまりにおどろおどろしいからだ。それはつまり、この男の精神が他の祓い師とは一線を画していることを示している。もちろん、いい意味ではない。悪い意味で統也の精神は逸脱してしまっている。
しばらくの間、部屋を沈黙が支配する。だが、その重々しい空気の中、何でもないといった様子で統也が言う。
「ふん、なるほどな。白い呪力を放出したと聞き及んだゆえに、一度見てみようと思ったが…… 予想の範疇を上回ることはなかったな」
統也は武の方をじっと見る。今度は武もその目を見返すことができた。圧倒されなかった理由は容易に想像がつく。もう武に対する興味を失っているのだ。だから、統也は武に迫力も呪力もぶつけてこない。
「期待していたわけではないが、落胆せざるを得ないな。まぁ、こんなものか。下がっていいぞ」
「はい」
「分かりました」
武と空我は深く礼をして部屋を出て行く。部屋を出て、すぐに武の全身からドッと汗が出てくる。
だが、部屋を出てからもしばらくの間二人は口を開かない。黙々と廊下を歩き、エレベーターを降っていく。
エレベーターから出て、入口の前に止められていた車に乗ったところで、二人は大きく息を吐く。
「ったく、何なんだ……」
武は顔をパタパタと手を仰ぐ。まだ汗がひどい。梅雨時で蒸し暑いことを差し引いても、この汗は異常だ。それだけ統也との謁見で気を張っていたのだ。
「ごめんね。やっぱり、もう少し気構えをさせておくべきだったんだろうけど、決まったのがお前を呼びにいく数分前でさ。どうしようもなかったんだ」
「なるほど。それは無理だな」
武は諦めたようにため息をつく。窓の外を見ながらも、武は空我に話しかける。
「それにしても、なんで、あの男は俺を呼んだりしたんだ?」
「さてね。僕に聞かれても分からないよ。気まぐれな人だからさ」
「気まぐれね……」
武は統也との会話を思い出す。そこまで言葉を多くかわしてはいないが、少ない会話でも武を大した理由で呼んだわけではないということは容易に分かることだ。少なくとも、武が身元不明の不審者という理由で呼んだわけではない。ならば、やむを得ない場合を除いて、もうこれ以上関わらないようにした方がいい。
「そう。でも、現龍全家当主・龍全現烈様が統也様を次期当主としてもっとも有力視しているのもまた事実。現烈様の子息は一人残らず戦死されたからね。他に龍全の性を持つ方で注目されている方はいないし、おそらくあの方が次世代の祓い師を統治していくとみて間違いはないと思うよ」
「そうか」
それから先、武は空我とどんな会話をかわしたのかも覚えていない。ひょっとしたら、そのまま車の中で眠ってしまったのかもしれない。
やはり、今日の予想外の出来事でかなり疲れていたのだろう。気付けば、自分の部屋の布団で寝間着を着て眠っており、時計を見ると翌日の朝だった。




