挨拶まわり
今回はかなり長めです
武が飛び起きると、目の前には襖があった。
「…… なんだったんだ? 今の夢は……」
妙な夢だった。案内人が仕向けたと考えるには何か違和感がある。どちらかといえば、明晰夢と言われた方が得心がいく。しかし、そんなことよりも、夢の内容だ。ただ湖を歩いて、顔の全貌が分からない女性と邂逅しただけの夢だったが、武には湖や女性に見覚えがあった。いや、それどころか、そもそも夢の状況自体に覚えがある。だが、詳しいことがどうしても思い出せない。湖や女性の名前も、どうしてああなったのかも覚えていない。おそらくは、案内人の言っていた前の世界とやらでの出来事なのかもしれないが、ほとんどの記憶が思い出せない以上確信が持てなかった。
そのことに歯がゆさを覚え、何とか思い出そうとするも、結局思い出せたことは何もなかった。
○○○○○
寝起きの頭で分からないことをこれ以上考えていてもしょうがないと頭を振り、思考を中止する。現在の時刻を知るために時計を見ると、短針が五の数字を指していた。
「まだ五時か。全然眠れてないな」
やはり中途半端に昼寝をしたのが間違いだったと半ば後悔するが、文句を言っていても仕方ないと布団から起き上がり、襖を開けて外に出る。部屋の外は縁側であり、広大な庭が広がっていた。まだ春先ということもあり、太陽は昇っていなかった。
軽く伸びをすると、視界の右側に見知った顔の少年が見えた。空我だ。修練中なのか白い道着を着ている。そちらに視線を向けると、空我も気付いたのかこちらに近付いてくる。
「やーやー。ずいぶんと早起きだね~」
昨日よりもやや間延びした声で話しかけてくる。一瞬寝起きかとも思ったが、よく見ると全身が濡れている。気合いを入れるために水浴びか滝行でも行ったのだろう。だとすると、寝ぼけているとは思えない。おそらくは、これが空我の素の顔なのだろうと判断した武はあくびを堪えて口を開く。
「ああ。昨日昼寝したせいであまり寝れなくてな。そういうお前はどうしたんだ?」
「祓い師の修練だよ。いつも四時くらいに起きてやってるんだ」
今度は間延びしていない。空我のキャラが上手くつかめず、内心戸惑うが顔に出さずに会話を続ける。
「お前も大変だな」
「否定はしないけど、これも城神家の次期当主たる者の務めだと思えば、意外と楽だよ~」
「そうなのか」
城神家は祓い師の中でも相当の名門だ。気軽にいっているが、その次期当主ともなれば、プレッシャーは相当なものなのだろう。そう思いながらも、武は話題を変える。
「それで、今日、俺はどこに顔を出さないといけないんだったか?」
「ああ、別に心配しなくていいよ。僕がちゃんと案内してあげるから。それよりも、今日は結構めんどくさいから覚悟しておいてね。上層部やら、城神家の当主やらいろいろなところに顔を出さないといけないからさ」
「そうか。なら、できるだけ鋭気を養っておかないとな」
「うん。でも七時くらいには動けるようにしておいてね」
「分かった」
「じゃあ、僕はまだ修練の途中だからもう行くね。またあとで」
空我はそう言ってその場から去る。武はその後ろ姿を少しの間眺めてから、部屋の中へと戻った。
○○○○○
六時半になり、部屋でぼーっとしていた武は準備を始めることにする。といっても、用意されていた服に着替えるだけだが。
黒い上下のスーツに青いネクタイという出で立ちに着替えた武は、部屋で迎えを待つ。七時ちょうどに黒い革靴と靴べらを持って空我が迎えに来る。
「おはよう。よく眠れた?」
空我は縁側の側に革靴を置き、武の足下に靴べらを置く。
「まあな。それで、今日はどこに行けばいいんだ?」
「さっきも言ったけどいろいろかな。とにかく、その靴を履いて、一緒についてきて」
「分かった」
武は革靴を履き、素直についていく。広い庭を突き抜けていくと、大きな門が待ち構えていた。この門を抜け、前を見ると広大な街が一望できた。どうやら、この家は街の端にある丘の上に建てられているらしい。この世界に来て初めてこの家から出たが、おぼろげに残る前世の世界とあまり変わらない街ぶれに内心驚嘆する。
「いつまで呆けてるの? ほら乗って」
声が聞こえてきた方を向くと、黒塗りのセダンが止まっていた。どうやら、これに乗っていくらしい。
「あ、ああ。すまん」
衝撃さめやらぬまま武は車に乗り込む。昨日の疲れがとれているとはいえないが、言い訳にはできないと心の中で気合いを入れ、これから先に待ち受けているであろう未知の領域に飲み込まれないように、気を引き締めた。
○○○○○
車から降りると、高層ビルのようなものが目に入ってきた。
「でかいな」
無意識のうちにそう呟くと、その声が聞こえたのか空我が苦笑いをしながら説明してくる。
「ここは祓師協会の本部だよ」
「祓師協会?」
「そう。要は祓い師たちをとりまとめている団体だよ」
空我は肩をすくめてそう言う。
「さ、行こ。ここの最上階が目的地だからさ」
空我はすたすたと中へ入っていく。武も慌てて後に続く。エレベーターに乗り、猛スピードで階層を上がっていく中、もうこれ以上驚いていても仕方ないと言い聞かせると同時に、先ほど気を引き締めたことが無駄になったなと武は内心苦笑していた。
エレベーターを出て、廊下をしばらく歩くと、一つのドアの前で止まる。扉の上には『会議室8』と書かれていた。
「会議室8?」
「うん。八番目の会議室ってことだよ」
思わず呟いた声に、空我が小声で拾う。武も小声で疑問を口に出す。
「見りゃ分かる。八ってことは、他にも会議室が七つあるってことか?」
「もっとあると思うよ。正確な数は覚えていない…… というより、覚えてもしょうがないっていった方が正しいかな」
「なんだそりゃ。そんなに会議室っているのかよ」
「祓い師っていうのはそれだけ大変な仕事ってことだよ。さあ、中に入ろ」
空我はそう言ってノックをする。中から入ってくれと低い声が返ってくる。空我が一礼をして入っていくので、武もそれに倣う。中に入ると、円形に長机が並べられており、左右に黒スーツを着た屈強な男たちが四人立ち、正面に髪をオールバックにしたスーツ姿の中年の男が座っていた。年の頃は40代くらいに見える。わずかな隙も見当たらないその佇まいからは威圧感を感じられ、切れ長の目には強い意志が感じられる。
「その男が例の者か?」
男は武に鋭い目を向けてくる。武もその目をしっかりと見返す。
「はい。名前は屋敷武というそうです」
今までと違い、空我は真剣な面持ちで話す。
「なるほど……。お前と歳が同じということだが、確かになかなか面白そうな男だ……」
値踏みするような目を向けてくる男に武は表情を崩さない。この程度のことには慣れっこだからだ。
「ああ。そういえば名前を名乗っていなかったな。私は祓師協会理事長を務める木下良蔵だ」
「…… 屋敷武です」
木下の自己紹介に対し、武も名を名乗る。欠片の気負いも感じさせない武の立ち姿を見て、木下は感心したように一つ頷く。
「ふむ。なかなか面白そうな少年だな。なるほど、確かに空我が気に入ったのも分かるというものだ」
「恐縮です」
そう言って武は頭を下げる。
「ふっ。では、訪ねてきてもらって悪いが、私も忙しい身でね。勝手で申し訳ないが、これにて接見を終わりにさせてもらっても構わないかな?」
「はい。お忙しいところ、時間を割いていただきありがとうございます」
折目正しく頭を下げた空我の返事を聞き、木下は立ち上がる。
「これから君には城神家所属の祓い師として働いてもらうことになる。仕事を受ける際には、また別の人間が担当する手筈になっているから、その者に対しても挨拶を欠かさぬようにな。君の働きを期待しているよ」
木下はそう言って会議室から出ていく。それから、少し間を置いて、空我が口を開く。
「じゃあ、次行こうか」
「ああ」
空我に促され、武は会議室を出る。そのまま、先ほどとは違う方向に歩いていくと正面に部屋が現れる。
「今度は『本部長室』か」
「うん。ここに祓い師の仕事、要するに任務を取り扱う責任者がいるんだ」
「へぇ……」
先ほどと同じように一礼をして中に入る。先ほどと違い、正面に執務机があり、その前に応接ソファが向かい合って並べられていた。その真ん中には茶色の机もある。目線を正面に向けると、今度は木下よりもかなり若い男が執務机に座っていた。二十代前半か、下手をすれば武たちと同年代かもしれない。その左右には先ほどと同じ護衛が四人いた。
「初めましてだな。私が祓師協会本部長の伊形鵬だ。実質的に現場を取り仕切らせてもらっている。これから、長い付き合いとなると思うが、よろしく頼む」
「屋敷武です。よろしくお願いします」
先ほどと同様頭を下げる。鵬は二人にソファに座るよう促す。二人は一礼をして座る。
「さて、申し訳ないがあまり時間がとれなくてな。いきなりだが、本題に入らせてもらう。君にはこの先城神家所属の祓い師として働いてもらうわけだが、祓い師として活動するためには、ある一定の技術が必要だ。その技術を修得するためには、いろいろ手があるわけだが、君の考えを聞きたい」
「……」
鵬の言葉を聞いて、武は考え込む。祓い師として活動するために、修練がいることは予想していたが、そのあたりのことについて武は空我から聞かされていない。どのような手段で祓い師の技術を修得すればいいか見当のつかない武には答えようのない質問だった。
素直に分からないと言葉を返そうとするより前に、空我が口を開く。
「その件については、まだ本人とは話し合っていません。ですが、私としては城神家で修練を行い、技術を修得してもらう予定でいます」
「学校に通わせるつもりはないと?」
「ええ。彼は少々特殊ですし、あのようなところで腐らせてしまうよりは、そちらの方がいいでしょう」
「…… 珍しいな。君がそこまで言いきるとは。それほどの逸材ということか……」
話についていけない武は口を挟もうとするが、空我に制される。武は口を閉じ、静かに事の推移を見守ることにする。
「分かった。君に任せよう。ただ、できるだけ早く使いものになるようにしてくれると助かる。とくに最上級と戦うためには、我々の戦力はまるで足りていないのだからな」
「分かっています」
「ならばよし。それでは、もう帰ってくれて構わない。君もそうだろうが、少々立て込んでいるのでな」
「…… 失礼します」
空我たちは頭を下げて部屋を出ていく。廊下を毅然とした態度で歩き、エレベーターに乗り込んだところで、空我が表情を崩す。
「ん~。これで、外に出歩くのは終わりだよ」
「お前。さっきまでと雰囲気が違いすぎるだろう」
「そりゃあ、あの二人は祓い師でもかなり上の方の人たちだからね。当然だよ。それに、僕はかなり厳しくしつけられてきたしね~」
空我が両手を上げて伸びをする。今までと態度が変わりすぎて、一瞬戸惑うが、すぐに適応し、先ほどの話について聞くことにする。
「さっきの伊形さん…… だったか? あの人との話で、学校がどうのと言っていたがどういうことだ?」
「ああ、うん。祓い師っていうのは、ちょっと面倒でね。いろいろと覚えないといけないことがあるんだ。そういうのを教える学校っていうのがあるんだよ。今の僕らと同じくらいの歳の子が通っている、このあたりにある学校で例をあげると教禅高校っていう学校がそうかな?」
ちょうどそこでエレベーターが一階に着いたので、二人は降りる。歩きながらも会話を続ける。
「学校があるのなら、そこに行った方がいいんじゃないのか?」
実際、学校とは分からないことを学ぶところだ。武は素養があるとは言われていたが、祓い師については何も知らない。ならば、そこで学んだ方がいいだろうと考えたが、空我の考えは違った。
「いや~。そうとも言いきれないんだよ。基本的に祓い師っていうのはかなり特権階級に近い扱いを受けているからね。わりと人気のある職業なんだ。だから、みんな祓い師になりたくて必死で仕方ないのさ。そんなところに、他より並外れた君が入ったらどうなるか分かるだろう?」
「…… 嫉妬の良い的ってことか? だが、祓い師のはの字も知らない俺がそこまで注目されるとは思えないんだがな」
「そんなことはないさ。修練を始めれば分かる。さ、乗って。あとは、父さん…… あ、城神家の当主ね。に、挨拶して今日やることは終わりだ」
「ああ」
空我に促され、車に乗る。二人を乗せた車は、そのまま城神家の屋敷へと向かっていった。
○○○○○
城神家の屋敷に戻ると、多くの使用人たちに迎えられる。
「「「「「おかえりなさいませ」」」」」
「みんな出迎えご苦労様」
左右に一列に並んだ使用人たちが頭を下げる光景に武は尻込みするが、空我はすたすたとその間を歩いていく。慌ててその後ろをついていくと、目の前に眼鏡をかけた黒髪の男が深くお辞儀をしながら立っていた。
空我がその男の前で立ち止まると、男は顔を上げる。
「おかえりなさいませ。空我様」
無表情のまま抑揚を感じさせない声で男が言う。
「ただいま。それで、父さんの方はどうなってる? 権藤」
「部屋の方でお待ちでございます。それで、そちらの方が……」
権藤が武の方に視線をチラリと向ける。
「うん。うちで働いてもらうことになる屋敷武だ」
「なるほど……。そちらが……」
権藤がそう言い切ると同時に目をかすかに見開く。しかし、すぐに無表情に戻る。
「どうかしたの?」
「いえ。なんでもございません。旦那様がお待ちです。どうぞ、こちらへ……」
権藤はそう言って、先導するように屋敷の中に入っていく。武と空我もその後に続く。中に入ると、広い玄関が待ち構えていた。一般家屋ではありえない広さに若干圧倒されながらも、そういえば、屋敷の中で、あてがわれた部屋とその横の縁側、それと、浴室以外を見たのは初めてだなと思い返す。
そんなことを思いながら、廊下を歩いていると三叉路で権藤が立ち止まる。
「この先にて、旦那様がいらっしゃいます。ここからは、お二人でお向かいください」
「うん。ありがとう。権藤」
空我は権藤の横を抜けて、三叉路の突き当たりにある部屋へと向かう。武も権藤に頭を下げ、その後を追う。権藤は深く頭を下げ、その場を立ち去ったが、その時に武に向けた視線に対し、武は気付かないふりをした。
○○○○○
部屋の前に着くと、空我が正座をする。空我が視線を向けてきたので、その意図を察し、同じように正座をする。内心相当厳しい家なんだなと考えていると、空我が言葉を放つ。
「父上。中へ入らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「入れ」
空我は正座をしながら扉を開く。頭を下げながら、失礼しますと一言言って中に入る。少しかしこまりすぎじゃないのかと思いつつも、空我と同じようなやり方で中に入る。豪華な造りの和室の真ん中に姿勢正しく正座をする中年の男がいた。男は空我と同じく白い髪に赤い瞳をしており、空我の父親だと一目で分かる要望をしていた。城神空次。現城神家の当主はこの男だと車中で空我から聞かされていた。空次はその赤い瞳を細め、こちらを睨みつけるように見てくる。
「遅かったな」
「仕方ないでしょ。本部の方に挨拶しに行ってたんだから。これでも、できるだけ早く帰ってきたつもりだよ?」
先ほどとは打って変わって砕けた口調で話す空我に武は眉をひそめる。入るときの異様なかしこまり方とのギャップに内心戸惑う。
しかし、口調とは裏腹に、姿勢は礼儀正しく正座をしており、背筋もしっかりと伸ばされていた。車中で空我が空次は気難しい人物であり、特に見知らぬ相手に無礼な真似をされると怒り狂うと言っていたことを思い出す。入るときのあの所作や、今の姿勢は自分に対する手本だったのかと判断し、うっかり無礼を働かないように気を落ち着かせる。つられて、ため口などをきいてしまえば、その瞬間全てが台無しになってしまいかねないからだ。
「貴様が屋敷武か?」
空我との話が終わると、空次の矛先が武に向く。武は姿勢を正し口を開く。
「はい。そうです」
「そうか。空我の話によると相当の才を持っていると聞いたが?」
「申し訳ありませんが、私には分かりかねます。なにぶん、記憶が曖昧なもので」
「そういえば、そのようなことを言っていたな。なるほど。どれほど恵まれた才も、磨かなくては宝の持ち腐れか」
空次は一人で何かを喋り納得している。空我は苦笑しながら、空次の独り言を遮る。
「その辺は修練を始めれば分かるよ。とりあえず、彼は明日から僕がしごくつもりでいるけど、それでいい?」
「構わん。うちには弱卒はいらん。ものにならなければ、すぐに追い出されるという気概で修練にのぞめよ」
「はい」
武はそう言って深々と頭を下げる。
「それでは、下がっていいぞ」
「分かった」
二人は和室から立ち上がり、また廊下に正座をして、襖を閉める。そのまま、立ち上がって廊下を歩きはじめ、武の部屋へと向かう。
こうして、武の挨拶まわりは終わった。