牙をむく文大
翌日の朝。何をするでもなく、武は縁側に腰かけ、早朝に空我が自ら持ってきた玉露をすする。昨日と打って変わって、快晴とも呼べる青空を武はただボーッと見ていた。
「何だったんだ。昨日のあいつは……」
武の頭にあったのは、昨日の美夢の様子だった。昨日、美夢は武に文大のことについて相談をしに来た。武はなぜ自分に相談をしてくるのかが分からずに、中途半端な対応をしてしまった。そのことについて、武はどこかもやもやした感覚を感じていた。その正体までは例のごとく分からなかったが、少なくとも、今までに感じてきた違和感や、昨日感じたざわめきとは全く別物であることだけはなんとなくだが理解できた。問題なのは、この感覚がなんなのかだ。
「今考えても詮無きことか。頭の悪い俺が多くを考えてもロクなことにはならない。一つ一つ片付けていくべきか」
一度頭を落ち着かせた武がまず最初に考えたのは、この婚約に関われと今なお警鐘を鳴らし続けているこのざわめきだ。はっきり言って、武にできることなど現時点では何もない。
「そもそもどうして俺が関わる必要がある?」
それが武が一番分からない点だった。昨日、武は文大と美夢に婚約の祝福を行った。それ自体はなんら問題のない行動のはずだ。なのに、武の胸の中のざわめきがどんどん大きくなっていった。それが意味するところなど容易に想像がつく。
「要は結婚をやめさせろってことだろ。だが、そんなことをして何になるんだ?」
そんなことに意味があるとは思えなかった。むしろ、デメリットしかない。そもそも、婚約に賛同するような言動をとっておきながら、婚約を妨害するなどとてもまともな人間の思考ではない。もっとも、武自身祓い師になった時点でまともな人間ではなくなってしまっているが。そんなことを考えていると、何やら、玄関の方から喧噪が聞こえてくる。
「何だ? 騒がしいな」
何が起こっているのかが気になり、好奇心半分で武は騒音の中心地に向かう。そこには、多くの人がごった返していた。
「この人数。一体、何が起こってるんだ?」
武は人並みよりやや高めの長身を生かし、背伸びをするようにして、人混みの中心を覗き込もうとする。もちろん、ただ背伸びしたぐらいで中心部が見えるとは思っておらず、見えればラッキー、見えなければ後で空我にでも確認しよう程度の認識だったのだが、武の考えとは裏腹に人混みの中心部を見ることができた。
「美夢?」
武は訝しげに目を細める。武の視線の先には、美夢がいた。だが、人混みではっきりとは目視できない。武はそのフィジカルを生かして、ほんの少しだけ人混みの中に紛れ込んでいく。そうすると、人混みの外から覗いていたときよりも、はっきりと中心部で起こっている状況が理解できた。そして、武は美夢が取っていた行動に目を見開く。
「文大様……」
美夢はうっとりとした表情で文大の右腕に絡みついていた。文大、美夢ともに容姿が極めて整っていることから、美男美女の理想の男女に見える。美夢の目は明らかに嘘をついているそれではなく、何も知らなければ、婚約者の文大に熱が入っていると思うだろう。しかし、文大に対して強い嫌悪感を示していた美夢を知っている武としては、その光景は違和感の塊以外の何物でもなかった。
「美夢様。新しく婚約者となられた文大様に、あそこまで入れ込まれているとは……」
「めでたいことじゃあないか。心の底から惚れてる男と結婚できるなんて女としては本望だよ」
周囲の城神家の使用人らしき中年の女性たちがそんなことを言う。彼女たちが言っていることは間違っていない。だが、さすがの武もこれまでの美夢を知っていてなお、その見識を肯定できるほど愚かではなかった。
「どういうことだ?」
思わずそう口についていた。かなり小さな声だったので、文大たちの光景に釘付けになっている周囲の野次馬たちには武の言葉は聞こえなかっただろう。しかし、文大は違ったらしく、武の方を見ると、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。
文大は美夢を伴って武の方へと歩き出す。それを見て、武以外の野次馬たちは二人に道を開ける。
「よぅ。屋敷武。はやいな」
「おはようございます。朝からずいぶんとお熱い関係で羨ましい限りです」
武は頭を軽く下げて、適当な社交辞令を言いながら、目の前の二人を観察する。実戦経験に乏しい武の観察眼ではどこにも不自然さは見当たらない。おそらく、ほかの者たちも自然な光景として認識しているだろう。この光景に武が違和感を感じるのは、昨日の美夢とあまりに変わってしまっているからだ。だが、なぜたった一晩でここまで変わってしまったのかが分からない。
もともと、美夢は口先だけ嫌がっていて、本心は受け入れていたという可能性も考えられなくはないが、それなら、今日突然文大にべったりになってしまっていることに不自然さを感じる。もちろん、昨晩二人の間に何かがあったと考えることもできるが、それだけでは武の感じた違和感を拭うことはできなかった。
(なんか、俺、違和感とかざわめきとか、本能だけで動いてる気がするな)
思わずそんな現実逃避をしてしまう。だが、そんな内心とは裏腹に、自身をじっと見てくる文大の目を武はしっかりと見返していた。端から見れば、睨み合っているようにも見える。
「それで? どんな気分だ?」
「どんな気分とは?」
文大の言葉に武は本気で分からないといった顔で首をかしげる。文大はさらに笑みを浮かべて、口を開く。
「そんなもの決まってるだろ? 心の底から愛してる女を取られてどういう気分だって聞いてんだよ」
「はい?」
予想していなかった質問に、武は素っ頓狂な声を上げてしまう。
心の底から愛している? この男は何を言っている?
確かに美夢には感謝している。これまで、彼女に助けられてきたのは事実だ。しかし、心の底から愛していると言えるほどの気持ちを彼女に向けたことはない。武は表情に出さずとも、内心ひどく混乱する。だが、周囲の人間は大きくざわつく。その声はかなりの大きさで、武は思わず顔をしかめてしまう。それをどう取ったのか文大は笑みを崩さずに、一度美夢を腕から離して、さらに武に近付いてくる。
「何だ。期待外れだと思っていたが、結構いい顔すんじゃねえか。そうでなくちゃ、面白くねえ」
「さっきから、何の話を……」
文大は武が話している最中に、呪力を込めた裏拳を武の左頬めがけて叩き込む。武はとっさに左腕で防御するが、呪力を軽く纏っただけの腕では完全には受け止めきれずに、十メートルほど吹き飛ばされてしまう。武は即座に着地し、体勢を立て直す。
「へぇ……。今のに反応するとは、一応名前倒れじゃねえらしいな。すげえすげえ」
文大はぱちっ、ぱちっと弱い力でゆっくりと拍手をしながら、武を賞賛する。しかし、その賞賛の声は驚くほど空虚だった。
文大は口元を大きく歪めて、小馬鹿にしたような目で武を見る。
「だが、この程度か。本当に見込み違いもいいとこだぜ」
「……」
武は冷や汗をかきながらも、文大を睨みつける。今のは祓術の基本術である拳だ。だが、先ほどの拳はどう考えても人を殺しかねないほどの威力を持っていた。もし、武の防御が間に合っていなかったらと考えると武の背筋が凍る。
現に野次馬の人間の中にも文大の正気を疑うようなことを呟く者が数多く存在した。
「ふん……」
文大は再び攻撃を仕掛けてくる。その動きは凄まじく速い。だが、ボレが最後に放った霊術に比べれば、止まって見える速度だった。
武は冷静に拳で強化した右腕で文大を迎撃する。その一撃は一直線に突っ込んでくる文大の顔面を捉えた…… はずだった。しかし、次の瞬間には文大の姿が武の眼前から消える。
「なっ……」
武の拳は虚空を貫き、文大の姿が消えたことに武は動揺を露わにする。そして、そんな隙だらけの武の背中に強い衝撃が襲う。
「言ったろ? 見込み違いだったってな」
武が後ろを振り返ると、左手の拳を振り抜いた文大の姿が目に映った。あまりにも速すぎるその移動に武は混乱する。武のカウンターは確実に入ったはずだ。あの体勢から武の攻撃をかわし、なおかつこの速度で武の後ろに回り込むなどありえない。
(こいつ、今、何をした?)
武は驚愕に顔を歪めながら、その場に倒れる。その場に大きなざわめきが起こる。音量だけでいえば、先ほどよりも大きい。だが、一撃をまともに食らった武にはその音がどんどん小さくなっているように聞こえた。
「弱者は弱者らしくしてろよ。カスが」
遠のいていく意識の中で、そんな声だけが聞こえる。武はぼんやりとした表情でその言葉をただ聞いていた。そして、すぐに武は意識を手放した。




