勧誘と始まり
武が眠りに落ちて数時間が経った。先ほどは高い位置にあった太陽も、今は山の少し上のあたりで真っ赤に照らしており、徐々に涼しくなりはじめる時間帯となっていた。
『起きてください。武様』
「ん……」
案内人の声で目を薄く開く。しかし、完全に目が覚めているわけではないようで、寝ぼけ目で周りを見渡す。
「ああ……。そういえば、ここは違う世界なんだったな」
諦観した声でそう呟くと、軽く伸びをする。部屋に備えつけられた時計を見ると5時を回っていた。
「さっき時計を見たときは二時くらいだから、だいたい三時間くらい寝てたのか」
武は体を起こしたまま、もう一度目を閉じる。軽く睡眠を取ることが出来たおかげで、いくらか混乱から回復してきた武は再び案内人に疑問をぶつける。
「なぁ、案内人」
『なんでしょう?』
「お前は俺の元いた世界に戻りたければ、一度この世界に転生しろと言ったな」
『はい』
「つまり、俺は確実にこの世界の住人ではなかったということだ」
『そうですね……』
武はなぜか分かりきったことを案内人に確認する。しかし、武が案内人に聞きたいのはこの後のことだった。
「ならば、なぜ俺に元の世界にいた時の記憶がない?」
『……』
武の問いに案内人は答えない。今までは、あまりに目の前がめまぐるしく変わりすぎていて、目先のことで精一杯だったが、いったん落ち着いて考えてみると、自身に過去の世界にいたころの記憶がないことに気付いた。いや、正確に言えば、とびとびでおぼろげながらに覚えてはいるのだが、はっきりとした記憶がない。特に例の白い空間に連れてこられる直前の記憶が全くといっていいほど思い出せなかった。だから、武自身何が原因でこのようなことになってしまったのか見当がつかなかった。
「俺には前にいた世界とやらの明確な記憶がない。にもかかわらず、なぜか俺はその世界にいたと確信していた。自分自身の名前や生年月日をはっきりと覚えてたのも不自然だ。なによりお前は、さっき、俺にはもともと呪力と呼ばれる力を持っていたと言っていた。いったい、何を隠している?」
『申し訳ありませんが、その問いにはお答えいたしかねます』
案内人の回答に武はうんざりしたようにため息をつく。
「また事情ってやつか。もういまさら、どうでもいいがな。だが、一つだけ確認させてくれよ」
『なんでしょう?』
「俺は作られた人間じゃないよな?」
武の問いに案内人が息を飲んだのが分かる。都合のいい記憶喪失、そして、武にはもともと呪力と呼ばれる特殊な力が備わっていたと聞かされればそう考えても不自然ではない。
『それは…… 武様のご想像にお任せいたします』
「そうかよ」
言葉を濁した案内人に、武は諦めたような笑みを浮かべながら、ため息をつく。自分が転生者にしろ、人形にしろ、どのみちどうすることもできない。
そこで、襖の奥から声が聞こえてくる。
「入ってもいいかい?」
空我の声だ。そういえば、夕食前に来ると言っていたとふと思い出す。まだ五時だというのに随分と早い夕食だと思いながらも、武は返事をする。
「どうぞ」
「入るよ」
空我は先ほど連れていた二人の女性とともに中に入ってくる。
「ごめんね。しばらくの間ほったらかしにしちゃって。調子はどう?」
先ほど同様陽気なテンションで話しかけてくるが、その声色には心配の色が見えた。
「問題ない。こちらこそ気を遣わせてしまってすまないな」
互いに謝罪しあってから、空我は話題を切り出す。
「うーん。あまり疲れてる人間に話を聞くのは気が引けるんだけどね。悪いけど、いくつか質問に答えてくれるかな? 答えたくない質問は答えなくていいから」
「ああ。構わない」
「ありがとう。それじゃあ、さっそく質問させてもらうね。さっき君は記憶があまり思い出せないって言ってたけど、逆にどういうことなら覚えてる?」
「…… 正直、ほとんど何も覚えていないな。せいぜい、自分の名前や誕生日くらいしか思い出せない」
空我はなるほどと頷く。先ほど案内人から聞いた悪霊のくだりはあえて話さない。虚構の可能性が高いと判断しているからだ。空我は少し間を置いてから次の質問をする。
「嘘をついているわけではなさそうだね。それだと質問してもあまり意味はないかな。本当はどこから来たのかとか、どうして呪力を持っているのかとか聞きたいことはたくさんあったんだけど……」
呪力という言葉にかすかに眉を動かすが、表情を変えることはしなかった。
「すまないな」
「ううん。いいよ。じゃあ、とりあえず僕の方からいくつか説明だけさせてもらおうかな」
「説明?」
「うん。この世界を生きていく上で必要な説明。特に僕たちと関わってしまった以上、君は知っておかないといけない」
先ほどまでとは打って変わり真剣な顔つきになる。それに、武も真剣な顔になる。
「まず僕たちのことから話そうか。改めて自己紹介しておくよ。僕は城神家の次期当主候補・城神空我。普段は高校に通いながら、祓い師という職務に就いてる」
「祓い師……」
「そう。まずはその説明からしようか。この世界には悪霊と呼ばれる人間を食い物にする醜悪な生物が存在している。僕ら祓い師は奴らを祓うために存在している」
話しについていけているか確認するために、一度話を止めて、武の顔を窺う。
「…… 続けてくれ」
先を促す武に空我は頷いて先を話す。
「僕ら祓い師には悪霊を祓うための力が備わっている。それが、さっき言った呪力だ。僕らはその力を元に悪霊を祓っている」
「なるほど。それで? 俺はどうすればいい?」
「単刀直入に言うね。城神家に入らない?」
武はわずかに目を細める。それを見た空我は説明を続ける。
「まず理由を述べると、君はかなりの呪力を持ってる。奴らは呪力の多い人間を優先的に狙う。だから、うちにいることで身の安全は確保しやすくなると思う。それに、現時点で君は自分が何者なのかほとんど分かっていない状態だ。下手に動き回るよりは、どこかに腰を落ち着けて、心を落ち着かせる時間が必要だと思うんだ。記憶を思い出すことにも一役買うと思うし」
空我の言葉に、武は顎に手をやって考え込む。
「聞いている限りでは、確かに理にはかなってるな……。だが、『うちに入る』とはどういう意味だ?」
「君が思っている通りの意味だよ。うちの傘下に入って力を貸してくれないかってことだ」
「正気か? 俺は悪霊とやらとの戦闘などしたことがないんだぞ? 覚えていないだけかもしれないが」
「それは大丈夫。君ほどの呪力があれば、少し修練を積むだけでも、すぐに戦力になれると思うよ」
どこか確信に満ちた空我の言い方に武は疑問を抱く。
「どうしてそう言いきれる?」
今までの話を聞く限り、呪力があればあるほど悪霊を祓うのに有利になると解釈して差し支えないだろう。しかし、力だけあっても、戦闘方法や経験が追いついていなければ、仮に戦場に送り込まれても足手まといにしかならないと考えるのが普通だ。それは、空我とて分かっているはず。なのに、少し修行をしただけでなぜ戦力になれると言いきれるのか……。
「勘かな?」
「勘?」
「そう……。こういうのは理屈じゃないんだよ。ただ直感に身をゆだねて決定するものだ」
「……」
理屈ではない。その言葉は分かる。しかし、武は言いしれない違和感を拭えずにいた。だが、今の武にとれる選択肢は一つしかなかった。
「分かった。その提案を受け入れる」
「決まりだね。じゃあ、これからよろしくね」
空我は笑顔で右手を差し出してくる。武はその手を取る。
この時をもって、武の異世界生活が幕を開けた……。