休息3
美夢に連れられて到着したのは、図書館だった。眼前にそびえ立つ図書館を見上げて、武は小声で呟く。
「図書館? なんでこんなところに……」
そう言いながらも、武にとってはありがたい場所だった。祓い師や悪霊についての情報はある程度手に入ったものの、この世界についての情報は全くといっていいほど手に入っていない。今まで任務に赴いた場所も、行けるというだけで、地名も何も分からない状態だ。
「あなたは勉学の方は問題ないみたいだけど、いくらなんでもこの世界を知らなすぎる。まるで、全く別の世界から来たんじゃないかって疑うレベルよ」
武は否定できなかった。実際、武自身、こことは異なる世界から転生してきたのだから。
「分からないことを聞いてまわるのも大変でしょうし、ここで調べた方が楽でしょ? うちの屋敷からそう遠くもないしね」
「確かにな」
美夢の言葉に苦笑しながらも頷く。城神家の人間も暇ではない。実際、目の前の美夢もここ最近まともに休みがとれていないほど、悪霊が活発化していたのだ。そんな状態で基本中の基本であろう事を聞くことは憚られる。
「中に入りたいなら、入るけど」
「いや、今日のところはいい。また今度来ることにするよ」
一度入ってしまえば、かなりの時間入り浸ってしまうだろうことを想像した武は、長い間待たせるのは美夢に悪いと考え、遠慮する。本音を言えば、今すぐ入っていろいろと調べてみたいところではあるが、別に機会は後でいくらでもある。ここで変に急いでもろくな収穫は得られないという判断だ。
「じゃあ、次の場所に行くよ。あまりのんびりしてると、夜になっちゃうからね」
「そんなに遠いところに行くつもりなのか?」
武は一瞬、今日中に屋敷に戻れるのだろうか、などと思う。そんな心中を察したのか、美夢は手を振り、笑いながら否定する。
「そんなことはないけど、図書館って気がつくとかなり時間が過ぎちゃう場所だからね」
「本好きならそうかもしれねえな」
自分のように調べ物が多すぎて長居をしてしまう人間もいるんだろうが、と心の中で付け足す。
「さ、行くよ」
「あ、おう」
武は美夢に連れられて、次の場所へと向かう。次はそれなりの広さを持つ公園のようなところだった。遊具や砂場などは見受けられなかったが、中央に噴水のようなものがあり、その周辺のベンチではまったりとしている者も多い。武はその者たちをさりげなく見つつも、公園の中央へと歩いていく。
「ここは、公園か。なかなかの広さだな」
「そうね。ここはわりと静かだし、私も気に入ってるわ。気分転換にはうってつけの場所ね」
武は噴水に近付いていく。今は水が噴き出していないが、時間になれば噴き出すのだろう。よく見ると、穴の周辺が濡れている。ひょっとしたら、先ほどまで水が出ていたのかもしれない。
少し遅かったかもなと思いながら、美夢の方へ向かう。
「お疲れ様。次で最後…… ん?」
美夢は自身の左側を見る。そこには、かなり軽薄そうな装いをした男が三人、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべながら、武たちに近付いていた。容易に武たちが目当てなのだろうということは想像がついた。美夢は一瞬中央の男を睨みつけたが、相手にする必要はないと二人は男たちに背を向け、歩き出そうとする。しかし、その前に二人の男女が立ちふさがる。
「どいてくれる?」
美夢は今までと雰囲気を一変させ、無表情でそんなことを言う。しかし、二人はどかない。強い憎しみのまなざしで武たちを睨みつけてくる。
「おいおい。どうするんだ? 囲まれちまったけど?」
場にそぐわぬ呑気な声で周囲を見渡す。美夢もつられてあたりを見ると完全に包囲されていた。その面子は先ほどまで、この公園にいた者たちと相違なかった。未だにこちらにジリジリと近付いてくる三人の男たちを含めると合計十人の大所帯だ。
「ずいぶんとあからさまに待ち伏せをしたものね」
「その待ち伏せに気付かなかったのはてめえらだろ?」
美夢の言葉に武たちに近付いてきていた三人の男のうちの真ん中にいた男が言葉を返す。それなりの長身に、ひょろっとした体格。柄物のシャツに、金髪を肩まで長く伸ばし、鼻と両耳にピアスをつけている。三人の中でも飛び抜けて、軽薄な出で立ちをした男だ。
「城神美夢に……。そっちは、屋敷武だったか? 聞いてるぜ。ぽっと出のくせに、昨日、百匹近くの雑魚悪霊を祓ったらしいじゃねえか」
ニヤニヤと笑いながら、そんなことを話しかけてくる。他の者たちが口を開かず大人しくしているところを見ると、どうやら、この男がリーダー格らしい。少なくとも友好的な相手ではないなと武は呑気に考える。そんな余裕があるのは、言うまでもなく男たちに脅威を感じないからだ。
それは、美夢にとっても同じらしく、一応警戒はしているようだが、臨戦態勢をとっていないあたり、問題なく対処できると判断しているらしい。
当然、武も美夢も彼らのことについては気付いていた。だが、そこまで大した腕ではないのは確かだろう。でなければ、あんなあからさまな敵意を全員で武たちにぶつける理由はない。油断させるつもりだとしても、せめて隠れていた者たちくらいは敵意を消すべきだ。だから、武は脅威とは思っていない。ただ、彼らが何者なのかについてを考えていた。武には心当たりがなかったが、美夢には彼らの正体が分かっていた。だからこそ、美夢はあえて彼らを舐めるような態度をとり始めた。
「悪いけど、あんたたちみたいな雑魚に構ってる時間はないのよ。そんなに大人数でヒーローごっこをしたいのなら、その辺のチンピラにでもやってたら?」
「何ですって!」
美夢たちの正面にいた女が噛みついてくる。その額には青筋が浮かんでいる。しかし、美夢はうっとうしそうに手を振る。
「この程度で怒るなんて、さすがに短気ね。それとも、滅兵全体がそんな感じなのかしら? その幼稚な精神のせいで、この街に害を為されると思うと怖いから、さっさと出ていってくれる? それとも、犯罪者としてあんたを拘束してあげようか?」
「貴様!」
見下したような笑みで侮蔑する美夢に、女は掴みかかろうとする。武は反射的にその右手を左手で掴む。女は武を睨みつけてくる。
「離しなさいよ」
「さすがに、暴力に訴えられて黙ってみてられるほど、大人しくはないんでな」
「あっそ。じゃあ、強制的に離させてやる」
女は口角を歪める。次の瞬間、女の右手から青みがかった紫色の呪力が噴き出てくる。
「! 武、離し……」
美夢が反射的にそんなことを口走る。
「遅い!」
間に合わずに、女から発せられた呪力は武の左手を覆い尽くす。武の左手に纏わりつくと、次の瞬間には、その呪力が霧散する。
「な……」
女は目を見開き驚く。武は何でもないように、女の右手を掴み続けている。その左手には何の変化も見られない。リーダー格の金髪の男は先ほどとは打って変わり、どこか嬉しそうな笑みを浮かべて、その様子を見ていた。
「ん? なんかしたのか?」
平然とした様子で武は女に尋ねる。今の技の正体については、まるで分からなかったが、そんなことに興味はなかった。それよりも、今、女は呪符なしで術を使った。武の興味はそのことだけに向いていた。
「くっ! 調子に乗るなよ! 次こそは…… !」
「真奈……。黙れ……」
「…… っ!」
金髪の男が地の底を這うような低い声を出す。真奈と呼ばれた女は右手を振り払って、武から離れおとなしくなる。
「さて、ウチの連中が悪かったな。お前らとここでやり合うつもりはない。今日は、やたら噂になってる城神家のルーキーとやらを見に来ただけだ」
雰囲気がガラッと変わったリーダー格の男に武はあっけにとられるが、美夢は未だに険しい顔を続けている。
「そう警戒すんなって、これは本当のことだ。その証拠に俺の呪力に敵意は感じねえだろ? 紛らわしい形で接触しちまったのは悪かったと思ってるが、こうでもしねえと、てめえらは取り合ってくれねえだろうと思ってよ」
「あんたは一体……」
「俺は東応蛇。ちなみに、さっきてめえが手を掴んだ奴は冬木真奈っていう名だ。一応、俺らは滅兵をやってる」
「滅兵?」
先ほども、美夢が口にしていた言葉だ。そして、最初のころに案内人が言っていた単語でもある。確か、祓い師とともに悪霊を祓う者たちだと言っていた。しかし、どう違うのか分からない武は首を傾げる。
「なんだ。滅兵も知らねえのかよ。ま、どうでもいいけどよ。分からなきゃ、そこの女に聞けよ。俺たちはもう行かせてもらう。邪魔したな」
応蛇はそう言って取り囲んでいた者たちを連れて去っていく。美夢はその後姿を忌々しげに見つめていたが、怪訝そうな顔で見てくる武に気付いたのか、慌てて取り繕いはじめる。
「あ、ごめんね。見苦しいところを見せちゃって。祓い師と滅兵はあまり仲がよくないから、つい…… ね」
「そもそも滅兵って何なんだ? 祓い師とどう違う?」
「あー。そこからか。権藤さん、その辺のこと教えてなかったのね。まぁ、あの人は滅兵を嫌ってるし無理もないか。仕方ない私が説明するよ」
「頼む」
「って言っても、そう大した話じゃないし、歩きながらでもいい? もう三時だしさ」
公園の時計を見ると、二時五十七分を指していた。最後にどこに行く気かは知らないが、確かに、そろそろ動き出した方がいいかもしれない。
「行こ」
美夢の言葉に従い、二人は公園を出ていった。
○○○○○
軽い上り坂を上る途中で、美夢は武に滅兵について説明していた。
「滅兵っていうのはね。呪符を使わないで、悪霊を祓う人たちのことを言うの」
「呪符を使わずに?」
「そう。だから、術の発動スピードは並の祓い師より遥かに速い」
「だろうな」
祓術は呪符を使う。当然、呪符を取り出し、呪力を呪符に通して、その呪符を術に変えるだけでも、相応の時間がかかる。実力者ならばかなりの速さでこなせるかもしれないが、たいていの祓い師はその時間が命取りになる危険を負いながら、戦うことになる。もし、滅兵が先ほどの真奈のように、呪力を放つだけで術が使えるのなら、そちらの方がいいだろうと武は思う。
「それは滅術と呼ばれていて、祓術よりも修得難易度が低いのが特徴よ。だけど、同時に諸刃の剣でね。確かに、間に呪符を挟まなければ、かなりの速さで術を発動できるけど、その代わり、悪霊たちに取り憑かれやすくなってしまう」
「!」
武は目を見開く。それと同時に試練の時の空我の言葉を思い出す。空我は呪符を使うことで、悪霊に取り憑かれにくくなると言っていた。しかし、当時は言っていることの意味がよく分からなかった。
「そういえば、クウも言っていたな。呪符を使うことで悪霊から身を守ってるって。あれ、どういうことなんだ? 呪符がどうとか言っていたが……」
「あー。クウも中途半端にしか言わなかったのね。説明するのが難しいから、無理もないか。まぁ、簡単に言えば、呪力っていうのは、その人の意志そのものなの」
「意志?」
「そう。それゆえに、その人次第で呪力は簡単に変質してしまう。しかも、それに加えて呪力特有の性質があるから、熟練の祓い師でも手に余るものなの」
「なるほど。それを呪符で補助しているというわけか」
「そういうこと。だから、呪符なしで術を使えば、実質自分の心を無防備のまま、悪霊にぶつけてしまうことになる。そんなことをしたら、どうなるかくらい容易に想像がつくでしょ?」
悪霊は人とその心に取り憑く。術に対する反撃で、心にまで蝕まれてしまえば、あとは簡単に乗っ取られてしまうだろう。
「それに、人それぞれ呪力の質は違う。遺伝や資質によって、その人が扱える術は限定されてしまうことが多い。呪符はそういう術に関する補助の役目も果たしている。だから、呪符なしで術を使うということは、使える術の種類を少なくしてしまうのと同義なのよ。その代わり、呪符に関する扱いの修練を丸ごと省略できるわけだから、修得スピードは速くなるし、呪力さえ持っていれば会得できるわけだから、戦うだけなら、門戸はかなり広くなるわけだけどね」
一見すると魅力的に聞こえるが、美夢の顔は暗い。
「確かに、呪符を扱う修練を省略することで、術の修得や発動スピードが上がり、多くの人間が悪霊を祓えるようになるメリットは大きい。しかし、その代わり、乗っ取られ悪霊に成り果ててしまう可能性は高いし、手段もかなり限られてしまう。その上、難易度が低い分、滅兵全体の質も低くなりやすくなる。だから、私たちは呪符を使うことで、悪霊に乗っ取られるリスクを減らし、かつ修得できる人数を限定することで、できるだけ質を高めようとしているのよ」
質と安全と多彩さを取るか。量と速度と手っ取り早さを取るか。要はそういうことだ。
「もっとも、今はある男によって、滅兵もレベルが上がり、乗っ取られにくくなりつつあるって話を聞くけどね」
「ある男?」
「そう。おそらく、いずれ会うわ」
そう言う美夢の顔は寂しげだった。武はそれ以上追求することをせず、他に気になったことを聞くことにする。
「なるほど。そこまでは、なんとなく理解できた。でも、それだけじゃないんだろう?」
「どういう意味?」
美夢が怪訝そうな顔になり、立ち止まる。武も立ち止まり、続きを話す。
「それだけなら、祓い師たちが滅兵を嫌う理由にはならないと思うんだが」
武の言葉に美夢は黙り込む。その目に色はなく、完全な無表情のまま、ほんの少しの間だけ口を閉ざしていた。美夢はやがて小さくため息をつくと、どこか諦めたような笑みを浮かべる。
「確かに、あなたの言う通りね。私たち祓い師と滅兵の間には深い因縁がある。それは事実よ。それに、私には個人的に因縁があるのよ。あの東応蛇という男に」
その言葉を聞いて、武は先ほどのやりとりを聞く。美夢は尋常じゃないほどの敵意を応蛇に向けていた。応蛇自身は気にしていない様子だったが、どうやら、二人の間には何かあったらしい。
「あの男は確かに強い。滅兵の中でも最強と噂されるほどの力を持っているのは事実。だけど、そんなことは関係ない。これは、私のエゴだから」
「…… !」
武に既視感が襲う。フラッシュバックとは違う感覚だ。はっきりとは分からない。このもどかしい感覚に武はやきもきするが、今は美夢との会話が優先だ。
しかし、武のそんな気持ちとは裏腹に、美夢はそこで会話を打ち切ってしまう。
「さあ、あと少しで目的地だし、急ぎましょう」
「あ、ああ」
再び歩きはじめると、目の前に神社の鳥居が見えた。鳥居の後ろは山になっており、鳥居の真ん中には階段があった。
「さあ、最後のひと頑張りだよ」
「あ、ああ」
武は両手に抱えていた袋を持ち直し、美夢とともに鳥居を潜って階段を上る。十五段ほど上ると、階段を上りきり、目の前に神を祀っている大きな社が見えた。
「ここは?」
「明神神社っていう神社だよ。わりと大きな神社で、ここも気分転換にはもってこいの場所なんだ」
美夢の言葉を聞いた直後、武に先ほどとは比べものにならないほど強烈な既視感が襲いかかる。ここは、武にとって全く見覚えのない神社のはずだ。しかし、武は確実にこの神社に来たことがある。ちぐはぐな感覚に武は気分の悪さを覚えるが、必死でこらえる。今、ここで倒れてはいけない。なんとしても、この光景を目に焼きつけておかねばならない。頭の中で、そう何度も何度も声が聞こえてきたからだ。
案内人の声ではない。だが、聞き覚えのあるその声は、武の頭の中にこびりついて離れない。
「…… っと…… ちょっと!」
「!」
ハッと我に返ると、美夢が心配そうな顔で、武の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫? 顔色が悪いわよ?」
「あ、ああ。大丈夫だ。心配はいらない」
そう言いながらも、若干のふらつきを見せる武に美夢は不安そうな顔になる。しかし、武にとってはそれどころではなかった。当初はただの既視感だけだったが、我に返った今は強い違和感となって武に襲いかかる。その違和感は、武が神社から出ても、ずっと続いていた。
屋敷に戻り、自分の部屋へと着くと、武は倒れるように布団の上に横になり、そのまま深い眠りへと落ちた。
○○○○○
午後十一時。街灯一つない真っ暗な田舎道を必死に走る一人の男がいた。その男の形相は醜いの一言だったが、そんなことを気にしている余裕は男にはなかった。
「はぁ…… はぁ…… ! な、なんだよ! あいつは!」
息も絶え絶えにそう叫ぶ。全力で走りながら叫んだためか、むせかえってしまい、その場でうずくまってしまう。両手を地面につけて、呼吸を整えていると、ふと前方からゆっくりとした足音が聞こえてくる。
「や、やべ……」
男の言葉はそこまでだった。それ以上言葉が続かなかった。なぜなら、目の前に現れた存在に、男は思わず魅了されてしまったからだ。
ゆったりとした紺のロングワンピースにふんわりとしたクリーム色のカーディガンを合わせ、美しい黒髪を風にたなびかせながら、悠然とした足取りでこちらに近付いてくる一人の女性。まさに、美女と呼ぶに相応しいその美貌に男はつい先ほどまでのことも忘れ、思わず見とれてしまっていた。
女性はクスリと笑い、小さく首をかしげながら、男へと言葉をかける。
「ごめんなさいね。驚かせてしまって」
どこか困ったような顔でそんなことを言う女性に、男は顔を赤らめるも、ようやく自分の現状に気付き、慌てはじめる。
「あ、危ないですよ! 早く逃げましょう! さっき、向こうで、すげーヤバイ奴が!」
「それは俺のことか?」
背後から聞こえてくる声に男は体を強ばらせる。理由は簡単だ。ついさっきまで、その声の主から必死に逃げていたのだから。
男は慌ててあたりを見渡す。すると、道路の隅に、無造作に投げ出された木の棒が目に入る。男はそれを手に取り、背後にいた声の主に向けて、木の棒を構える。
「で、出たな! 化物め!」
男は無謀だと知りながらも、先刻と違い、声の主と対峙する。体は恐怖で震えており、とてもまともな動きができるとは思えない。しかし、男が急に戦う意思を見せたのは、目の前に現れた女性が原因だった。とてつもなく美しいこの女性を逃がすためならば、死んでも構わないなどという自暴自棄に近い考えが、男を奮い立たせていたのだ。
逆に言えば、それほどまでに男が追い詰められていたという証左でもある。
「逃げてください! こいつは、俺がなんとかしますから!」
男は女性をチラリと見て、そう叫ぶ。一見すると、立派な行動にも見える。自分の身を省みずに女性を逃がすために戦おうとすることは確かに人としては間違ってはいないだろう。だが、不測の事態が起こったことで絶望し、自分を見失っている彼の精神状態では蛮行にしかならなかった。そして、この行動こそが彼の命運を決めた。
「大丈夫よ」
「え?」
落ち着き払った女性の声に、男は反射的に女性の方を振り向く。女性は男のすぐそばまで近付いており、振り返った男の顎にその白くしなやかな指をあてる。
男は状況も忘れ、息を飲む。そんな男を見て、女性は妖艶な笑みを浮かべる。
「安心して。あなたが無駄死にになることはないから」
女性がそう言うと同時に、男はその場に跪く。木の棒を手から離し、虚な目で女性を見る。
「おめでとう。これで、あなたは私たちの仲間よ」
「なか…… ま?」
「そう。私たち悪霊の仲間入りよ」
男は女性の言葉を朧気な意識で聞く。だが、女性は気にした様子もなく次の言葉を聞く。
「そういえば、あなたの名前を聞いていなかったわね」
「咲原…… 咲原純一です……」
男は途切れ途切れの言葉で、自分の名前を名乗る。ぼそぼそと小さな声だったが、女性にはしっかりと聞こえていたらしい。
「そう。じゃあ、これからよろしくね。咲原」
「…… 分かりました」
「長居は無用よ。行きましょう。咲原、ボレ」
女性はそう言って、後ろを振り返る。咲原は先ほどまで自分を追っていたボレという名の声の主とともに、女性の後を追った。その目には光が失われており、その身に纏う呪力は明らかに変質していた。女性はそれを感じ、不敵な笑みを浮かべながら、他の二人とともに闇夜に消えていった。




